一の恋

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7 失恋と自覚

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「来週は来れないと思う」
 別れる間際に伝えられた。「わかりました」とだけ返事をして見送った。

 消えていたもやもやがまた少しずつ戻ってきているのを感じていた。あれだけ泣いたのに足りなかったんだろうか。
 顔をじゃぶじゃぶと洗ったけれど、散々に泣いた瞼は随分と重く違和感があった。泣くと腫れるというけれどなぜなのか、わからずとも実感している。

 布団に入り今日のことを思い出した。いくら自分の布団に包まろうが、あの匂いは漂ってはこない。使っている洗剤を教えてもらえれば再現できるだろうけど、そんなのを買ってきて親に何も言わず使うことは出来ないだろうと思った。

 来週は来れないというのは土曜日のことだと思う。じゃあ平日は? 額まで降りてきた眠気の中で考える。平日だったら会える? ベッド近くに置かれた棚の上にあるスマホに手を伸ばす。
『平日は?』
 送り付け、まだ来るはずもない返信を待つ。暗い部屋のなか明るい画面が目に刺さる。同じところに置いていた足が熱くなり布団の中で移動する。まだ冷えているシーツの上で、ただスマホを握りしめた。

『平日も無理だと思う』
 目が覚めた昼に近い朝。返ってきていた言葉は望むものとは違っていた。自然とため息が漏れ、心の中は快晴の空とは似合わない薄曇り。



 宿題がめんどくさいだとか少し出歩いただけで暑くて死にそうだとか、本当にどうでもいい話をいくつもAさんに送った。無理だと言われた平日にも、返事はさほど待たずに返ってきた。
 あと3日。土曜日まで無意識にそう思って、今週は約束をしていないんだと頭を振った。分かっているのに何度もそうして日を数える。土曜日に用事があるんだろうか。じゃあ日曜日は? 早い時間は? 沸いた思いを文字にしてぶつけ、全滅した。

 土曜日の夜、いつもより早く布団に入ろうとする俺に親が今日は出かけないのと問いかけた。「出かけない」と返す。約束が無く、心に不自然に穴が開いたようで早く寝てしまおうと思っていたのに、問われ答えることでよくよく意識させられた。
 最近毎週会っていたものだから、それが途切れてしまえば不足感がある。薄い掛け布団を丸め抱き付いた。何の代わりにもならないけれど、力を込める。

 もしかして、俺が見苦しくよくわからないことを言って泣いたから、Aさんは俺の相手をするのが嫌になったんだろうか。メッセージのやり取りくらいは顔も合わせず適当にできるけれど、ここまで迎えに来るのは労力がかかり過ぎる。それに可愛い女の子に抱きしめて欲しいと言われるならまだしも、俺では……。
 Aさんは人恋しいのかもしれないと言っていた。それなら男女問わず話し相手になり虚しさを分け合えばいいと思ったけれど、そう思っているのは俺だけだったかもしれない。

 いつ会えるのかと何度も送ったメッセージ。全て無理だと返ってきていた。こんなに何度も、しつこく、無理だと言っているのに送り付けられるのはきっとうざったかっただろう。送った事実は消えないけれど、文字なら消せる。
『このメッセージを本当に削除しますか?』
 表示に従い削除を選択した。平日も、土曜日も、違う時間もダメ。送ったメッセージを削除してしまえば、履歴にはAさんの返信だけが残っていた。ごめんねと悪くないのに謝っているメッセージ。
 来週は会えるんだろうか――削除を選択した頭でそんなことをつい考えて、Aさんから誘われるのを待とうと頭の中の自分を叩いた。



『来週も会えない』とメッセージが来たのは、平日の夕方だった。テレビでは熱中症患者のニュースがやっていて、それを見ながらコップの水を飲んでいた。
『わかった』
 残念だと思う気持ちを文字には出さずに返信する。俺は夏休みだけど、Aさんはまだ違うだろうから忙しいのかもしれない。わざわざこうしてメッセージを送ってきてくれているんだし、会える時になったらきっと会ってくれる。今はそうして希望的観測だけを持っていた。

 ちまちまと進める宿題は捗るはずもなかったが、他にすることもない。嫌いな数学を前にして嫌だという気持ちをぶつけるように溜息を吐いた。こうしてはっきりと嫌なものがあるときは消えたい気分にはならない。ノートに頬をつけながら手を動かした。



「あんた、振られたの?」
 再びの土曜日。出かけないのだと話せば、親にそんなことを言われた。
「は?」
「だってずっと夜出かけてたの彼女に会ってたんじゃないの?」
「なんで……てか忙しくて会えてないってだけだから」
「そうなの。まぁいいわ」
 彼女に振られた。親が言った言葉に引っかかった。まさかそんな風に見られているとは思わなかった。Aさんは奥さんがいるような男性でもちろん彼女じゃない。でも、振られたというのは合っている気がした。
 ちくりと針に刺されたような痛みを感じる。今すぐに消えてしまいたいと、最近どこかに行っていた思いが再び沸いた。

 俺はAさんを好きなんだろうか。会えなくて寂しい、と検索すれば検索結果には彼女やら恋人やらの文字が並ぶ。今まで人を好きになったことのない俺には、それが合っているのかもわからない。ただこれが「好き」だっていうのなら、俺はそれを自覚する前に振られている。
 Aさんに手を繋いでほしかったのは彼を好きだから。抱きしめて欲しいと思ったのも彼を好きだから。でもAさんは俺にキスしなかったし、もう一度抱きしめて欲しいと言っても困らせるだけだった。完全に、振られている。
 Aさんが手を繋ぎたいと最初に言ってきたのは人恋しいから。俺のように彼を好きだからじゃない。触れ合うことは似ているけれど違う。
 Aさんは、既婚者のAさんは、もしかして俺の気持ちに気付いていた? 俺より経験のあるあの人は、俺より先に気付いていたのかもしれない。だから距離をとられた。そう考えると自然だった。

「振られたのか」

 自分の発した言葉はすんなりと心の中に落ちてきた。
 みぞおちの辺りが内側から黒い塊に押されるように気分が悪い。納得いきすぎた感情に吐き気がしてくる。頭まで布団をかぶり暗闇と少ない酸素の中で「Aさん」と呼んだ。
 未だに本名を知らない彼を好きになってしまった。誰でもない匿名のAさんは俺の中ではあの人だけなのに、それ以上を知ることは無い。

 スマホの電源を落とした。毎日心待ちにしていたおやすみも雑談も、もう見ていられなかった。


 考えたくなくても、心がAさんに会いたがっていた。思い出す度に自分は振られているんだと頭の中で自分に言い聞かせた。本の文字を追っても頭に入らず、バラエティ番組の笑い声も空しいだけの音だった。
 真昼間、34度を観測する直射日光の下を散歩した。どこを目指すでもなく、だけどAさんと走った大通りには近寄らなかった。アスファルトから立ち上る熱気と肌を焼く直射日光の痛み。脳みそが茹るような暑さの中にいると、ただ暑いという思いに支配された。Aさんのことがちらと頭をよぎっても、一瞬にして暑さに追いやられる。
 そうして昼間の暑さの下にいれば体は疲れ、ぬるいシャワーを浴びればよく眠れた。風呂と寝入る前の微睡みだけはどうしても思い出に心が痛んだけれど、うまいこと時間を過ごせたと思う。

 失恋の痛みを忘れるにはきっと時間がかかる。目はついつい電源を落としたままのスマホに行くし、新着メッセージが来ていないか確認したくなった。画面を下に向け、暗い画面に表示されるはずもないメッセージから目を反らした。



 土曜日、親の買い物に付き合って外に出た。持って行きたくなかったけれど、大きなショッピングモールに行くのだからとスマホを手にする。久しぶりの薄っぺらい暗い端末。家を出る前に電源をつけると、通知が表示された。
 胸がギュッと締め付けられるような気がして、見たいのに見たくないそれを消した。充電はまだ半分ほど残っている。ポケットにつっこんで、何でもないように親の後について回った。
 頭の中ではずっとメッセージのことだけを気にしていた。日々送り付けていた雑談すらやめたから心配しているだろうか。もしかしたら土曜日の誘いがあるんじゃないか。それとも、途絶えたことで俺が失恋したことにようやく気付いたかと別れの挨拶があるんじゃないか。
 見たい。メッセージが見たい。腹の中にぐるぐると渦巻いている靄は以前Aさんに会っていた時と同じだった。

 店の中は涼しかったとはいえ駅までは暑い中歩いたしきっとすぐにいつも通り寝られる。そう思い込んで帰ってすぐ風呂に入った。すぐに寝てしまおうと思うのに頭の中はいつメッセージを読もうかとそればかり。

 俺は、さよならの挨拶くらいするべきだろうと理由を付けた。何度も俺に付き合ってここまで迎えに来てくれてありがとうと、せめてそれくらいは送るべきだ。

 親から離れこっそりとスマホを覗き見る。緊張からか口が乾き、飲み込む唾すら無かった。
『最近連絡ないけど大丈夫? 風邪でも引いたのかな?』『疲れた』『会える?』『もうメッセージを送らない方が良いのかな』
 日を置いて送られてきているメッセージ。会いたい、どうしたってそう思ってしまう。考えていた短文すらうまく打てない。

『沢山愚痴っててごめんなさい。話聞いてもらってたら消えたい気分も無くなったからもう大丈夫です。ありがとうございました』

 消えたいと思っていた。自分の存在そのものを消したいと思っていた。そういう不安をAさんにはずっと聞いてもらっていて、だから会うことになった。それならその不安がもう無いのだと言えば、安心してくれると思った。
 ありがとうございましたと終わらせるように打った文字。自分がした事なのに目が潤んだ。
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