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5 キス
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1時をまわる頃家に着いた。大通りから入ったところにあるマンションに住んでいると伝え、わざわざ一方通行の道に入ってマンションの下で降ろしてもらった。
「またね」の言葉に頷き別れる。車を見送ってから、Tシャツを握りしめ汗を拭いた。
体温は上がり手はじっとりとしていたのに、Aさんは信号で止まっている間ずっと手を繋いでくれていた。運転中は離していたけれど、信号で止まれば手を繋ぎ直した。
雨は強く降り続いていたけれど、湿っていたズボンの裾は車内にいる間に乾いていた。
いつもAさんと会う前に入る風呂。纏わりつく湿度に負けて再びシャワーを浴びる。35度設定のお湯でも熱く感じる。シャワーの水滴は今日の雨よりも小さい。手のひらを擦り合わせ汗を洗い流した。最後には水にしたシャワーに皮膚の熱が奪われたのに、体の芯には熱が残っている。
何だか熱っぽい気がする。冷凍庫から氷を取り出しカランコロンと4つほどコップに入れ水を注いだ。くるくると回し冷えるのを待つ。
『なんか熱っぽい』
雑談として送ったメッセージ。ほどなくして返ってくる。
『風邪ひいた?』
いつも風邪をひくと喉が痛くなる。でもまだそんな様子はない。寝て起きたら痛みが出てくるかもしれない。
『クーラーで冷えちゃったかな。暖かくして寝るんだよ』
それを見て、今度は羽織を持って行こうと思っていたのを思い出す。もしAさんがまた眠ってしまったとしても、それならかけてあげられる。
寝ている親を起こさないようにそっと歩き、クローゼットの服を見た。カーディガンなんか着ることもなく持っていないし、肌寒い時期にいつも着ているのは前が開いていない。つるつるした素材の羽織は枕にするにはあまり向いていない気がする。
もう少し服に興味を持っておけばよかったとほんのり後悔しつつ、ふとかけてある制服を見た。学校指定の紺色のカーディガンなら、ある。校章は同じく紺色の糸で胸元に入っているが分かりはしないだろう。
『Aさんもう家着いたの?』
『まだだよ』
俺が帰宅して30分ほどしか経っていない。Aさんの家にはまだまだ着いていないはず。キッチンのテーブルに放っておかれ、氷の溶けた水を飲む。もしかして途中で止まって返事をくれたのかな。
『何かして欲しいことあったら言ってね。おやすみ』
続けて届いたメッセージに同じようにおやすみと返した。
帰りたくないと言った。
いつもより少しだけ長く一緒にいて、だけども結局は帰ってきた。未だに歩きでは通っていない道を車内からの風景としては見慣れ、家に着く前からもうすぐなんだとがっかりした。
車に乗っているとすぐに知らないところに行ける。見慣れない町、見慣れない地名。高速道路に乗ってしまえばさらに、あの等間隔のオレンジライトを見続けているとそのまま異世界にだって入り込める気がした。ぐるぐるとそれなりに速い速度で走っていれば、もしかしたら本当に溶けてなくなってしまえるかも。静かな夜中に車が走る音だけを体に感じていると、そう思えてしまう。
薄い布団を肩までかけて横になる。いくら両手を合わせても、あの体温にはならなかった。
***
「大丈夫?」
顔を合わせてすぐにまたそう聞かれた。土曜日23時の約束をする前にしっかりと確認されていたけれど、風邪っぽさはなくなっている。風邪かもと思った翌日に喉が痛くなるわけでもなく、なんとなく熱っぽかったのは熱中症だったのかもしれない。
先日とうってかわって今日は朝から晩まで晴れ。持ってきた制服のカーディガンの置き場がなく、手に巻き付けるようにしながら「大丈夫」と返した。
「もしかして車の中寒かった? 上げようか」
「あ、ちがくて」
ぐるぐる巻いた布を見てAさんが言う。0.5度上げるよう操作された指先に、頭を振った。
「またAさん寝ちゃったら冷えるかと思って」
さらに言葉を続ける。
「あの、寝られるのが嫌なんじゃなくて、こないだ寒くないのかなってちょっと思ったから」
今日のAさんも、ハンドルにもたれかかり俺のことを待っていた。でも寝てはいなかったようで、覗き込むまでもなく内側からドアを開けられた。
「わざわざありがとう」
「あと、これ飴なんだけど……熱中症対策の飴。塩分入ってる割に不味くないから、渡そうと思って」
「ありがとう」
嬉しそうなAさんに少しほっとする。でもすぐに彼は、小さく唸るように声を漏らした。
「あー、もしかして夜中に連れまわしてるから寝不足になっちゃってる?」
「そんなことない、と、思う」
カチカチと駐車中を示す音が響く。寝不足を感じたことは無い。少なくとも深夜3時まで寝られずストレスを感じている時よりも全然。
「どっちかっていうと、もっと居たい」
はは、とAさんから乾いた笑いが漏れた。座席に深く腰掛けた彼は、右手で自分の口元を覆う。
「可愛いなぁ」
呟きがぽつりと零れた。
「今日は、早く帰らなくてもいい?」
「うん」
優しい目が笑う。
「何かしたいことはある?」
「あ……」
高速に乗りたい。あの夜に光るオレンジライトが好きだ。でも、高速に乗るのはお金がかかる事は知っている。
「……特には」
引き攣った声が出た。
「何か希望があるなら言って。おじさんにできることなら、してあげるよ」
こちらを見るAさんに、うまく誤魔化すことができない。希望というよりもただの甘えだし、お金がかかることならなおさら。
「少し遠くまで行ってもいいかな」
「はい」
「イチくんは遠くに行きたいって言ってたもんね」
俺の言う遠くはとても曖昧なものだけれど、それを意識してくれていることが嬉しかった。
「高速に乗りたい。遠くまで行かなくてもいいから」
だから素直に言葉が出た。
「わかった」
シートベルトをするのはもう慣れた。車が走り出し、俺はカーディガンを畳んでシートベルトと腹の間に挟み込む。先ほどまで優しい目を俺に向けてくれていたAさんはまっすぐ前を向いていた。
記憶にあるような無いような道を通り高速に乗る。加速して合流するときは少し怖い。自分が運転しているわけでもないのに間隔を広くとって走る車を注視した。カチカチと鳴っていたウィンカーの音が止み、流れに乗る。高速道路の壁は高く、ビルの屋上付近しか見えない。企業の看板が下からライトアップされている。
今日は雲一つない快晴だ。都会で星は見えないけれど、代わりに何もない空間が広がりを見せている。何度となく繰り返された曲が流れる。覚えてはいないけれど、知っていると脳みそが言う。混雑していない道路はすぐに一定のリズムを響かせた。
時折俺たちを随分速く追い抜いていく車がいる。何に急いでいるのかななんて、赤いランプを見送った。
「運転してて、眠くならない?」
俺の心は落ち着いている。この車内は安全だと認識しているんだと思う。
「運転中はならないかなぁ」
「そうなんだ」
集中しているから、眠いなんて思わないのかもしれない。
黙って助手席に座っている。会話だってずっとしているわけじゃない。だけども気まずさはなかった。大きなカーブで体が傾き、自然と窓に頭が当たる。つなぎ目で体が揺さぶられた。ゴトン、ゴトン、ゴトン。響く振動を頭の中でなぞる。
空は黒というよりも紺色で、道路を照らすライトは反対色のオレンジ。ずっと遠くまで続く道と、遠くで佇むビルの光。本当にこのまま、どこか違う世界に行けたらいいのに。
「最近ね、ちょっと寝られるようになった」
Aさんの声に顔を向ける。ちらと俺を見た彼は話を続けた。
「イチくんと会った日は特に」
「疲れてるから?」
握り込むでもなくハンドルに手をかけるAさんは口元を緩ませる。
「疲れだとしても心地良い疲れだね」
そんなもの、あるだろうか。運動を趣味にしてる人からは聞けそうな言葉だと思った。
「だから早く会いたくなる」
話し声はすぐに車の音の中に消えていく。俺の耳まで届いたその声に、薄い微睡みから目が覚めた。嬉しい、んだろうか。我ながら情けないほど分かりやすく目が泳ぐ。うまく返せず唇を噛んだ。
「今度タオルケットでも持ってくるよ。イチくんが寝ちゃってもいいように」
「俺はそんな」
「私が運転する車に安心して身を任せてくれるっていうのは、結構嬉しいもんなんだよ」
安心しているのは本当。すぐに眠気が来ちゃっているのも本当。人任せのだらしなさだとも思うのに、Aさんはそれを喜んでくれている。
「Aさん」
「ん?」
手を繋ぎたい。でも運転中は危ないから、そんなことできるはずもない。高速道路に信号はなく、今は渋滞もなく、一瞬だって止まらない。呼びかけたのに言えずに黙る。Aさんは聞いてくることはしなかった。気まずくて、窓にこめかみを寄せ外を見る。
Aさんは俺に優しくしてくれる。話を聞いてくれるし、消えたいと零す俺を肯定してくれる。死にたいではなく自分の存在そのもの、形跡ごと消えたいという有り得ない望みに同意してくれる。どこかに行ってしまいたいと俺が言ったから、実際にこうして迎えに来てくれた。車内では俺を認めてくれるAさんと二人だけ。他の誰からも奇異の目は向けられないから、俯く必要もない。ここは安心できるところだって、数回で思ってしまった。数回で俺は、Aさんと一緒にいることに心地良さを覚えてしまった。
矢印が連なるカーブでGを感じる。頭が窓から離れ、座席に右手をぐっとついた。カーディガンを挟んだ腹が温かい。シーベルトを左手で掴む。頭を座席に押しつけ、窺うようにAさんを見た。
まっすぐ前を見るAさんは、俺より倍年上だという。確かに若くは見えない。年寄りにも見えないけれど。入ってくるライトで顔には濃い影ができるけれど、それでも優しそうな顔をしている。そうというよりも実際に俺に優しい。優しいから、ストレスを受けやすくて不眠症になっているのかな。
「俺にできることって、何かない?」
「ん?」
「さっき、あの、寝られるようになったって言ってたから」
俺と会うことで少しでもストレスを発散し解消できるというのなら、もっとどうにかしてあげたい。何かできないだろうか。例えば話を聞くとか? 愚痴なんか俺に言ってくれるかな。働いているだろうAさんと、ただの学生の俺。聞くだけは出来るけれど理解もせずに耳に入れるだけなのは、ぬいぐるみに話すのと同じじゃないだろうか。
「何でもいいよ。俺にできること何かない?」
Aさんは軽く笑い「何でもなんて言うもんじゃないよ」と言った。
些細な話をしていると、いつの間にか知っている地名が目につくようになっていた。ああ、今日も終わりなんだと寂しい気持ちが沸き上がる。壁は高くビルの頭も見えない。道幅だってやたらと狭いような気がして、なんだか窮屈な感じがした。
60km制限だった高速道路。坂道を下りればすぐに一般道に繋がった。工業地帯の道は広いが人気が無い。
椅子に座り直してから、そっと右手を伸ばした。気付かないのなら、それでいい。いつも運転席と助手席の間に置いてくれているお茶を取る振りをしたらいい。
人も車もいない道。ゆっくりと速度を落として信号で止まる。上から降ってくるような信号の赤い光をただ見ていたら、お茶の上に置いていた手が温かく包まれた。横を見れば、目が合う。気付いてくれたことが嬉しくて、にやけるのを隠すように唇を食んだ。
信号が変わり、ぎゅっと強く握られてから手が離される。ハンドルに戻るそれをつい目で追った。俺よりも分厚くてごつごつしたその手は働いている大人の手。
その後一回だけ信号に捕まり、手を繋いでもらえた。車はもうマンションの下に着く。何も言わなかったけれど、Aさんは当たり前のように大通りから横道に入った。
近くの大通りでは車が行き交っているのに、細道では人もいない。高速道路のようなオレンジ色のライトもなく、白色が狭い足元だけを照らしている。
「帰したくないなぁ」
シートベルトを外し、腹に張り付いたカーディガンを膝に戻す。独り言のようなAさんの声。帰りたくないと思うのは俺も同じ。
「イチくん。キスしてもいい?」
「え」
車内に響くカチカチというハザードの音と、自分の鼓動が同期する。
Aさんはただ俺を見ていた。
「ごめん。おやすみ」
「あ、」
咄嗟に手が伸びた。垂れ下がる彼の腕を捕まえる。
言葉が出てこない。キスなんてしたことが無かった。人を好きになったこともないんだ、キスなんかしたことあるはずがない。
「ごめんね。忘れて」
Aさんはまたごめんと言った。
「ちがくて、嫌じゃなくて」
Aさんが悪いんじゃない。ただ、どうしたらいいのかがわからない。
「き、キスってしたことないから……あの……」
手にじわりと汗をかいている。自然と逃げ腰になり、指先だけでAさんに触れる。まだ、ここにいる。
「してもいい?」
するりとシートベルトを外したAさんに、覗き込むように許可を取られ、頷いた。
Aさんの手が俺の顎を持ち上げた。近付いてくる顔にぎゅっと目を閉じる。体が強張り、痛いほど肩に力が入る。いつ目を開けたらいいのかわからず、息を止め緊張で頭がぼんやりしてくる。
「可愛い」
耳の中をくすぐられるような声に頭が傾く。びくりと動いた左手が膝に置いていたカーディガンに引っかかり、落としたのがわかった。近くにあった気配が離れてしばらくしてからようやく目を開けた。頭を優しく撫でられる。自分は変な態度をとっていない、大丈夫だったんだろうと、安堵のため息が漏れた。
落ちたカーディガンを拾いぱっぱと手で払う。
「ダメだなぁ、ほんと」とAさんの呟きが聞こえる。目をやれば彼は苦笑して、悩むようにその髪を掴んだ。
「またね」の言葉に頷き別れる。車を見送ってから、Tシャツを握りしめ汗を拭いた。
体温は上がり手はじっとりとしていたのに、Aさんは信号で止まっている間ずっと手を繋いでくれていた。運転中は離していたけれど、信号で止まれば手を繋ぎ直した。
雨は強く降り続いていたけれど、湿っていたズボンの裾は車内にいる間に乾いていた。
いつもAさんと会う前に入る風呂。纏わりつく湿度に負けて再びシャワーを浴びる。35度設定のお湯でも熱く感じる。シャワーの水滴は今日の雨よりも小さい。手のひらを擦り合わせ汗を洗い流した。最後には水にしたシャワーに皮膚の熱が奪われたのに、体の芯には熱が残っている。
何だか熱っぽい気がする。冷凍庫から氷を取り出しカランコロンと4つほどコップに入れ水を注いだ。くるくると回し冷えるのを待つ。
『なんか熱っぽい』
雑談として送ったメッセージ。ほどなくして返ってくる。
『風邪ひいた?』
いつも風邪をひくと喉が痛くなる。でもまだそんな様子はない。寝て起きたら痛みが出てくるかもしれない。
『クーラーで冷えちゃったかな。暖かくして寝るんだよ』
それを見て、今度は羽織を持って行こうと思っていたのを思い出す。もしAさんがまた眠ってしまったとしても、それならかけてあげられる。
寝ている親を起こさないようにそっと歩き、クローゼットの服を見た。カーディガンなんか着ることもなく持っていないし、肌寒い時期にいつも着ているのは前が開いていない。つるつるした素材の羽織は枕にするにはあまり向いていない気がする。
もう少し服に興味を持っておけばよかったとほんのり後悔しつつ、ふとかけてある制服を見た。学校指定の紺色のカーディガンなら、ある。校章は同じく紺色の糸で胸元に入っているが分かりはしないだろう。
『Aさんもう家着いたの?』
『まだだよ』
俺が帰宅して30分ほどしか経っていない。Aさんの家にはまだまだ着いていないはず。キッチンのテーブルに放っておかれ、氷の溶けた水を飲む。もしかして途中で止まって返事をくれたのかな。
『何かして欲しいことあったら言ってね。おやすみ』
続けて届いたメッセージに同じようにおやすみと返した。
帰りたくないと言った。
いつもより少しだけ長く一緒にいて、だけども結局は帰ってきた。未だに歩きでは通っていない道を車内からの風景としては見慣れ、家に着く前からもうすぐなんだとがっかりした。
車に乗っているとすぐに知らないところに行ける。見慣れない町、見慣れない地名。高速道路に乗ってしまえばさらに、あの等間隔のオレンジライトを見続けているとそのまま異世界にだって入り込める気がした。ぐるぐるとそれなりに速い速度で走っていれば、もしかしたら本当に溶けてなくなってしまえるかも。静かな夜中に車が走る音だけを体に感じていると、そう思えてしまう。
薄い布団を肩までかけて横になる。いくら両手を合わせても、あの体温にはならなかった。
***
「大丈夫?」
顔を合わせてすぐにまたそう聞かれた。土曜日23時の約束をする前にしっかりと確認されていたけれど、風邪っぽさはなくなっている。風邪かもと思った翌日に喉が痛くなるわけでもなく、なんとなく熱っぽかったのは熱中症だったのかもしれない。
先日とうってかわって今日は朝から晩まで晴れ。持ってきた制服のカーディガンの置き場がなく、手に巻き付けるようにしながら「大丈夫」と返した。
「もしかして車の中寒かった? 上げようか」
「あ、ちがくて」
ぐるぐる巻いた布を見てAさんが言う。0.5度上げるよう操作された指先に、頭を振った。
「またAさん寝ちゃったら冷えるかと思って」
さらに言葉を続ける。
「あの、寝られるのが嫌なんじゃなくて、こないだ寒くないのかなってちょっと思ったから」
今日のAさんも、ハンドルにもたれかかり俺のことを待っていた。でも寝てはいなかったようで、覗き込むまでもなく内側からドアを開けられた。
「わざわざありがとう」
「あと、これ飴なんだけど……熱中症対策の飴。塩分入ってる割に不味くないから、渡そうと思って」
「ありがとう」
嬉しそうなAさんに少しほっとする。でもすぐに彼は、小さく唸るように声を漏らした。
「あー、もしかして夜中に連れまわしてるから寝不足になっちゃってる?」
「そんなことない、と、思う」
カチカチと駐車中を示す音が響く。寝不足を感じたことは無い。少なくとも深夜3時まで寝られずストレスを感じている時よりも全然。
「どっちかっていうと、もっと居たい」
はは、とAさんから乾いた笑いが漏れた。座席に深く腰掛けた彼は、右手で自分の口元を覆う。
「可愛いなぁ」
呟きがぽつりと零れた。
「今日は、早く帰らなくてもいい?」
「うん」
優しい目が笑う。
「何かしたいことはある?」
「あ……」
高速に乗りたい。あの夜に光るオレンジライトが好きだ。でも、高速に乗るのはお金がかかる事は知っている。
「……特には」
引き攣った声が出た。
「何か希望があるなら言って。おじさんにできることなら、してあげるよ」
こちらを見るAさんに、うまく誤魔化すことができない。希望というよりもただの甘えだし、お金がかかることならなおさら。
「少し遠くまで行ってもいいかな」
「はい」
「イチくんは遠くに行きたいって言ってたもんね」
俺の言う遠くはとても曖昧なものだけれど、それを意識してくれていることが嬉しかった。
「高速に乗りたい。遠くまで行かなくてもいいから」
だから素直に言葉が出た。
「わかった」
シートベルトをするのはもう慣れた。車が走り出し、俺はカーディガンを畳んでシートベルトと腹の間に挟み込む。先ほどまで優しい目を俺に向けてくれていたAさんはまっすぐ前を向いていた。
記憶にあるような無いような道を通り高速に乗る。加速して合流するときは少し怖い。自分が運転しているわけでもないのに間隔を広くとって走る車を注視した。カチカチと鳴っていたウィンカーの音が止み、流れに乗る。高速道路の壁は高く、ビルの屋上付近しか見えない。企業の看板が下からライトアップされている。
今日は雲一つない快晴だ。都会で星は見えないけれど、代わりに何もない空間が広がりを見せている。何度となく繰り返された曲が流れる。覚えてはいないけれど、知っていると脳みそが言う。混雑していない道路はすぐに一定のリズムを響かせた。
時折俺たちを随分速く追い抜いていく車がいる。何に急いでいるのかななんて、赤いランプを見送った。
「運転してて、眠くならない?」
俺の心は落ち着いている。この車内は安全だと認識しているんだと思う。
「運転中はならないかなぁ」
「そうなんだ」
集中しているから、眠いなんて思わないのかもしれない。
黙って助手席に座っている。会話だってずっとしているわけじゃない。だけども気まずさはなかった。大きなカーブで体が傾き、自然と窓に頭が当たる。つなぎ目で体が揺さぶられた。ゴトン、ゴトン、ゴトン。響く振動を頭の中でなぞる。
空は黒というよりも紺色で、道路を照らすライトは反対色のオレンジ。ずっと遠くまで続く道と、遠くで佇むビルの光。本当にこのまま、どこか違う世界に行けたらいいのに。
「最近ね、ちょっと寝られるようになった」
Aさんの声に顔を向ける。ちらと俺を見た彼は話を続けた。
「イチくんと会った日は特に」
「疲れてるから?」
握り込むでもなくハンドルに手をかけるAさんは口元を緩ませる。
「疲れだとしても心地良い疲れだね」
そんなもの、あるだろうか。運動を趣味にしてる人からは聞けそうな言葉だと思った。
「だから早く会いたくなる」
話し声はすぐに車の音の中に消えていく。俺の耳まで届いたその声に、薄い微睡みから目が覚めた。嬉しい、んだろうか。我ながら情けないほど分かりやすく目が泳ぐ。うまく返せず唇を噛んだ。
「今度タオルケットでも持ってくるよ。イチくんが寝ちゃってもいいように」
「俺はそんな」
「私が運転する車に安心して身を任せてくれるっていうのは、結構嬉しいもんなんだよ」
安心しているのは本当。すぐに眠気が来ちゃっているのも本当。人任せのだらしなさだとも思うのに、Aさんはそれを喜んでくれている。
「Aさん」
「ん?」
手を繋ぎたい。でも運転中は危ないから、そんなことできるはずもない。高速道路に信号はなく、今は渋滞もなく、一瞬だって止まらない。呼びかけたのに言えずに黙る。Aさんは聞いてくることはしなかった。気まずくて、窓にこめかみを寄せ外を見る。
Aさんは俺に優しくしてくれる。話を聞いてくれるし、消えたいと零す俺を肯定してくれる。死にたいではなく自分の存在そのもの、形跡ごと消えたいという有り得ない望みに同意してくれる。どこかに行ってしまいたいと俺が言ったから、実際にこうして迎えに来てくれた。車内では俺を認めてくれるAさんと二人だけ。他の誰からも奇異の目は向けられないから、俯く必要もない。ここは安心できるところだって、数回で思ってしまった。数回で俺は、Aさんと一緒にいることに心地良さを覚えてしまった。
矢印が連なるカーブでGを感じる。頭が窓から離れ、座席に右手をぐっとついた。カーディガンを挟んだ腹が温かい。シーベルトを左手で掴む。頭を座席に押しつけ、窺うようにAさんを見た。
まっすぐ前を見るAさんは、俺より倍年上だという。確かに若くは見えない。年寄りにも見えないけれど。入ってくるライトで顔には濃い影ができるけれど、それでも優しそうな顔をしている。そうというよりも実際に俺に優しい。優しいから、ストレスを受けやすくて不眠症になっているのかな。
「俺にできることって、何かない?」
「ん?」
「さっき、あの、寝られるようになったって言ってたから」
俺と会うことで少しでもストレスを発散し解消できるというのなら、もっとどうにかしてあげたい。何かできないだろうか。例えば話を聞くとか? 愚痴なんか俺に言ってくれるかな。働いているだろうAさんと、ただの学生の俺。聞くだけは出来るけれど理解もせずに耳に入れるだけなのは、ぬいぐるみに話すのと同じじゃないだろうか。
「何でもいいよ。俺にできること何かない?」
Aさんは軽く笑い「何でもなんて言うもんじゃないよ」と言った。
些細な話をしていると、いつの間にか知っている地名が目につくようになっていた。ああ、今日も終わりなんだと寂しい気持ちが沸き上がる。壁は高くビルの頭も見えない。道幅だってやたらと狭いような気がして、なんだか窮屈な感じがした。
60km制限だった高速道路。坂道を下りればすぐに一般道に繋がった。工業地帯の道は広いが人気が無い。
椅子に座り直してから、そっと右手を伸ばした。気付かないのなら、それでいい。いつも運転席と助手席の間に置いてくれているお茶を取る振りをしたらいい。
人も車もいない道。ゆっくりと速度を落として信号で止まる。上から降ってくるような信号の赤い光をただ見ていたら、お茶の上に置いていた手が温かく包まれた。横を見れば、目が合う。気付いてくれたことが嬉しくて、にやけるのを隠すように唇を食んだ。
信号が変わり、ぎゅっと強く握られてから手が離される。ハンドルに戻るそれをつい目で追った。俺よりも分厚くてごつごつしたその手は働いている大人の手。
その後一回だけ信号に捕まり、手を繋いでもらえた。車はもうマンションの下に着く。何も言わなかったけれど、Aさんは当たり前のように大通りから横道に入った。
近くの大通りでは車が行き交っているのに、細道では人もいない。高速道路のようなオレンジ色のライトもなく、白色が狭い足元だけを照らしている。
「帰したくないなぁ」
シートベルトを外し、腹に張り付いたカーディガンを膝に戻す。独り言のようなAさんの声。帰りたくないと思うのは俺も同じ。
「イチくん。キスしてもいい?」
「え」
車内に響くカチカチというハザードの音と、自分の鼓動が同期する。
Aさんはただ俺を見ていた。
「ごめん。おやすみ」
「あ、」
咄嗟に手が伸びた。垂れ下がる彼の腕を捕まえる。
言葉が出てこない。キスなんてしたことが無かった。人を好きになったこともないんだ、キスなんかしたことあるはずがない。
「ごめんね。忘れて」
Aさんはまたごめんと言った。
「ちがくて、嫌じゃなくて」
Aさんが悪いんじゃない。ただ、どうしたらいいのかがわからない。
「き、キスってしたことないから……あの……」
手にじわりと汗をかいている。自然と逃げ腰になり、指先だけでAさんに触れる。まだ、ここにいる。
「してもいい?」
するりとシートベルトを外したAさんに、覗き込むように許可を取られ、頷いた。
Aさんの手が俺の顎を持ち上げた。近付いてくる顔にぎゅっと目を閉じる。体が強張り、痛いほど肩に力が入る。いつ目を開けたらいいのかわからず、息を止め緊張で頭がぼんやりしてくる。
「可愛い」
耳の中をくすぐられるような声に頭が傾く。びくりと動いた左手が膝に置いていたカーディガンに引っかかり、落としたのがわかった。近くにあった気配が離れてしばらくしてからようやく目を開けた。頭を優しく撫でられる。自分は変な態度をとっていない、大丈夫だったんだろうと、安堵のため息が漏れた。
落ちたカーディガンを拾いぱっぱと手で払う。
「ダメだなぁ、ほんと」とAさんの呟きが聞こえる。目をやれば彼は苦笑して、悩むようにその髪を掴んだ。
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