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2巻
2-3
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ミルフィを警戒しながらもそちらを見れば、わずかに残っていたキュラス兵が全員地面に倒れこんでいる。
「これで残っているのはあなた一人です」
ミルフィの注意がホオズキに向いている間に、青藍さんが動いていたらしい。短剣についた血を振り払いながら、青藍さんは次の標的をじっと見つめていた。
「あら、まぁ。本当に誰も使えないんですから。今日は分が悪いので、このあたりでやめにしましょうかぁ」
「私たちがあなたを逃がすとでも思っているのでしょうか?」
「逆に聞くけどぉ、私が逃げられないと思ってるぅ?」
にやぁと笑みを浮かべたミルフィに嫌な予感がした。あいつを止めないと、何かとてつもないことが起こるような危機感があった。
「勝てなくても、負けなければいいんですよぉ。……たとえばぁ、雪崩でも起こすとか。私を追う余裕なんてなくなりますよねぇ?」
青藍さんが「何を考えて……?」と呟くのと、雪山の方向から爆発音が響くのは同時だった。
「ホオズキさんの誘拐が成功したら、ほかは全員殺そうと思って用意してきた魔法ですがぁ……案外、役に立ちそうで良かったですぅ」
村の後方にある山の中腹で、火魔法による爆発が幾つも起こっていた。ず、ず、と少しずつ崩れていった表面の雪は、一か所滑り出してから雪崩となるまではあっという間だ。
「早く逃げないと、雪に呑み込まれて死んじゃいますよぉ。でもぉ、村にもまだ残っている人はたくさん居ますし、キュラスの騎士もあなたたちに倒されちゃったから、自力では逃げられませんねぇ。うふふ、助けますかぁ? それとも見殺しにしますかぁ?」
「テメェ!」
怒りに任せて放った斬撃を、ミルフィはふわりと避けて、身を翻した。
「私は逃げますのでぇ、精霊の契約者だけは死なせないでくださいねぇ」
〈爆発〉の魔法を放ち、爆風を利用してミルフィは飛んで逃げていった。
あっという間に離れて行ったミルフィを、追う余裕はなかった。
「まずいですね。私たちも早く逃げないと。ヨル様、〈影移動〉は何人まで同時に移動させられますか?」
「ユナが起きてれバ、二十人くらイ。オイラだけだト、十人が限界ダ」
「ノルディアさん、村の方々は何人ほどいますか?」
「前は五十人位だ。今は何人残ってるかわからねェ」
「……キュラス兵も何人かは、尋問のために連れていかないといけません」
苦しい顔をした青藍さんが、躊躇うように言葉を詰まらせた。
そして意を決したという表情を浮かべた青藍さんが何を言おうとしているのか、俺にはわかってしまった。
……わかってしまったから、俺は青藍さんの言葉を奪った。
「ユナと青藍さん、それから状況をわかってるホオズキと、数人のキュラス兵。それ以外の奴らは置いていく」
青藍さんが嫌な役目を……村を見捨てる判断を下す役目を、引き受けようとしていることはわかっていた。
全員を助けることは不可能。一番に優先すべきは、この村の惨状を国王様の元まで伝えること。それから、巻き込んでしまったユナとヨル、青藍さんを無事に王都まで帰すこと。それ以外まで、今の俺には抱えきれない。
それがわかった上で、村の終わりを決断することを、部外者である青藍に押し付けては駄目だと思った。
「それで良いな?」
「…………ええ。最善の判断かと思います。できるだけ階級の高そうなキュラス兵を連れてきます。ヨル様、すぐに出られるよう準備をお願いします」
青藍さんも苦しい顔をしながらも、俺の考えに頷いてくれた。
ヨルだけが唯一、青藍さんの言葉に返事をしなかった。
「ユナ、起きテ……ノルディアの村がなくなっちゃうヨ……」
◆ ◇ ◆
「……ナ……ユナ……」
なんだかとっても眠いです。いつもはすぐに起き上がれるのに……
もう少しだけ、と目を閉じようとすれば、夢の中に出てきたヨルが「ノルディアの村がなくなル」と言っています。
そういえば、ノルディア様の故郷の村に来ていたはずです。
「シチューを作る」とホオズキさんが言っていて、それを待っていたはずですが……なんでその村が、なくなるなんてことになるのです?
「ユナ、早く起きテ。ノルディアが悲しそうだヨ」
夢の中のヨルが、私の頬に触れて……その瞬間、頭にかかっていた靄が晴れたようにスッキリとしました。
「……ノルディア様、悲しいのです?」
パチリと目を開けば、周囲には鉄臭い血の匂いが漂っていました。
誰もいない家の中を不思議に思いながら外を見てみると、ところどころ赤く染まった雪の上に、呻き声を上げながら転がっている男の人が何人もいます。
状況を把握できないまま周りを見てみると……村の後方、雪山から大量の雪が崩れて向かってきています!?
「このままだと、ノルディア様の故郷が潰されてしまうのです!! 闇魔法〈闇の壁〉!!」
咄嗟に展開させた魔法は〈闇の壁〉。呪文の通り、闇の魔力で壁を作り出す魔法です。
本来なら小規模の壁を作り出して、一時的に敵の攻撃を防ぐ魔法ですが、魔力量に物を言わせて雪崩を食い止めるほどの巨大な壁に変えてみました……けれど……
「これ、かなりきついのですっ!」
村全体を守れるほど大きな〈闇の壁〉。そこにのしかかる、膨大な量の雪の塊。
少しでも気を抜いてしまえば、魔法も雪崩も一気に崩れてしまいそうです!!
「ユナ、起きタ!?」
「起こしてくれてありがとうですの。ヨル、早速で申し訳ないのですが、魔法の補助をしてほしいのです」
私の魔力に反応したヨルが、すぐに近くまで来てくれます。
心配そうな顔をしたヨルの頭をひと撫ですれば、ヨルは猫の体を靄状に溶かして、私の体を覆ってくれました。
「任せテ」
着ているドレスがヨルの黒色に染まっていき、同時にヨルに渡していた魔力が戻ってきます。
魔法のコントロールまでヨルが引き受けてくれたので、だいぶ楽になりました。
「この魔法は……ユナか!? 何を……いや、無茶をするな!」
〈闇の壁〉に目を奪われていたノルディア様が、ヨルに少しだけ遅れて私の元まで駆けてきました。大量の魔力を一気に使っているからでしょうか? 私の体は小さくカタカタと震えてしまっています。雪の影響というだけでは足りないほど寒く感じます。
そんな私の様子を見たノルディア様が、「もう良い」と言いました。
「ユナ、やめろ。ここから離脱するのが最優先だ」
ノルディア様はどんなに苦しい状態の中でも、一番正しい判断を選ぼうとする人だと知っています。だからきっと、ノルディア様の判断は間違っていないのでしょう。
けれど……
「ノルディア様、悲しい顔をしているのです」
私を止めようとするノルディア様の顔は険しくて、眉間にしわまで寄っています。
「君と紡ぐ千の恋物語」を前世でプレイしていた時から、ノルディア様が大好きだった私は知っています。
ノルディア様は悲しい時、眉間に皺を寄せて涙をこらえてしまうことを。助けられない命があった時、選べない選択があった時、一人で抱え込んで悔やみ続けてしまうことを。
そんなノルディア様が大好きだったのですが……私は推しには、幸せになってほしいのです!!
「ノルディア様にそんな顔をさせる未来なんて、私は絶対に嫌ですの!!」
叫んで〈闇の壁〉に注ぐ魔力を増やします。さらに大きく、頑丈になった〈闇の壁〉に、ノルディア様も私を止めようとしていた手を、空中で静止させてくれました。
「時間を稼ぐので、ノルディア様は少しでも多くの方へ避難誘導を。長くは持たないのです」
「…………わかった。無理だと思ったら、すぐに魔法を解除して逃げろ。俺のことも村のことも考えなくて良い」
わずか三秒。考え込んだノルディア様は、すぐにポツポツと建つ家の方へと駆けて行きました。
ピシリ、ピシリ。
気を抜いた端からヒビの入ってしまう〈闇の壁〉に魔力を注ぎ込みながら、青藍から魔力回復薬を受け取ります。魔力回復薬は苦くて苦手ですが、そうも言っていられない状態です。
「うう、まずいのです……」
顔をしかめながら魔力回復薬を飲み込みます。
ノルディア様が立ち去ってから、まだ数分しか経っていません。
こんなにも時間が長く感じることがあるなんて……!
「青藍、次の魔力回復薬を渡してほしいのです」
「これが最後の一本です」
雪の上には、飲み終えた魔力回復薬の空瓶がいくつも転がっています。心配性な青藍が多めに持ってきていた魔力回復薬が、底をつくとは思ってもいませんでした。
「……限界だと私が感じたら、ユナ様だけでも抱えて逃げます」
「逃げる時はノルディア様も一緒ですの」
私の言葉に青藍は返事をしてくれませんでした。
青藍はノルディア様と私の命、どちらかしか選べないという状態になってしまったら、私を選ぶでしょう。青藍は私の護衛だから、仕方ありません。
でも……それでも……
「ノルディア様の居ない世界も、ノルディア様が悲しむ未来も、私は絶対に嫌ですの!!」
最後の魔力回復薬を飲み込んで、ノルディア様に貰ったイヤリングに貯めていた魔力も全部使いながら叫びました。それだけのことをしても、〈闇の壁〉の維持が少し長引くだけ。
「ユナ様!!」
青藍の呼びかけに答えることもできないまま、魔力の枯渇に気を失いかけた、その瞬間……
「幼き人の子。この村を守ってくれているのか?」
……私の肩に、誰かの手が乗せられました。
振り返った先に居たのは、降りしきる雪を連想させる白い髪、雪模様の入った白色の着物を着た、人間離れした美しさを持つ女性でした。
「よくぞ一人で此処まで耐えたのぅ。おかげで此方が間に合ったのじゃ」
指の先から瞳、睫毛に至るまで全部が純白の女性は、私に向かって笑みを向けます。
古めかしい話し方をするその人は、存在自体がどこか人間離れしていて、私の肩に乗ったままの手も、生きている人間というには冷たすぎました。
「いつの間に!?」
女性の存在に気が付いた青藍が、慌てて短剣に手をかけます。
「青藍、大丈夫ですの。多分、悪い人じゃないのです!」
鞘から短剣を抜こうとする青藍を、私は咄嗟に止めました。
「うむ。此方は人の子を助けるために来たのじゃ」
霞む視界の中、女性は慈愛に満ちた優しい瞳で、私を見つめていました。
女性の白い指先が私の額をそっと撫でます。
氷のような冷たさが去った後、ズキズキと痛んでいた体が少し楽になりました。
これは……魔力の受け渡し?
「……コイツ、氷の精霊ダ! オイラの契約者に何をしタ!?」
私以外の魔力が入り込んできたと気が付いたのでしょう。
ドレスと一体化していたヨルが、慌てて顔だけを出して、私と女性の間に割り込みます。
ヨルに「氷の精霊」と言われた女性は、その言葉を否定することもなく「なんじゃ?」と、ヨルに冷ややかな目を向けました。
「人の子が魔力欠乏を起こしかけていた故、此方の魔力を分けたのじゃ。人の子をこれ以上消耗させたいわけではないなら、まずは礼を言うべきではないかのぅ?」
「……ウッ」
「そもそも、闇が一人で解決できていたなら、此方とて見守るだけにしたのじゃ。一人で解決することもできない若造が、此方をコイツ呼ばわりなど無礼じゃのぅ」
「……オイラの契約者を助けてくれテ、ありがとウ」
最初は悔しそうな顔をしていたヨルですが、女性……氷の精霊さんに告げられたことに返す言葉もなく、考え込んだ後に礼を告げました。
それにしても、ヨルを若造扱いするなんて。私に魔力を渡しても平然としている様子からも、この氷の精霊さん、とっても長い時を生きている上位の精霊のようですね。
「……私からも。ユナ様を助けてくださり、ありがとうございます」
いまだに警戒をしている青藍も、ひとまずは氷の精霊さんを信用してくれたようです。短剣に手をかけたままですが、動かないで様子を見てくれています。
「私からもありがとうですの、大分楽になったのです!」
「良い。だがこのままでは、渡した魔力が尽きるのも時間の問題じゃのぅ」
「村の人が避難をしたら、魔法を解除しようと思っているのです」
私の言葉に、氷の精霊さんは「ふむ」と唇に指を当てて考えてから、「一つ協力をしないかのぅ?」と問いかけてきました。
「此方の力も貸す故、どうにかあの雪崩を止めてはくれないかのぅ」
「どうしテ? 契約もしていない人間ヲ、お前が守ろうとすル?」
ヨルの問いかけに、氷の精霊さんは静かに視線を落としました。
どこか神秘的な美しさを持つ氷の精霊さんは、ひどく悲しそうに、解けて消えてしまいそうなほど小さな声で呟きました。
「…………此方はただ、あの村がなくなるのは嫌なのじゃ」
伏せた睫毛の奥に見える瞳は、どこかここではない場所を見つめているようでした。
たとえば……遠い過去を、思い出しているかのようです。
「ヨル、力を借りても良いです?」
「……今回だケ!」
普段は私がほかの精霊の力を借りることを嫌がるヨルですが、今回は氷の精霊さんに何かを感じ取ったのでしょう。
「ユナが助けられタ、借りを返すだけだからナ!」とツンツンとした態度を取りながらも、私と氷の精霊さんの間から退いてくれました。
「うむ。ならば闇の契約者よ。よく人の子が唱える、精霊への呼びかけは知っているかのぅ?」
「前に少しだけ見たことがありますの。我が呼びかけに応じ給え。力を授け給え……という言葉ですの?」
「それじゃ。それで氷精と呼びかけてから、氷の魔法を使ってほしいのぅ。何の魔法でも良い。できれば雪崩が凍るイメージで放てば、あとは此方がどうにかするのじゃ」
「わかったのです。ですが、雪崩を凍らせて止められるほど、魔力が残っていないのです」
「問題ない。此方の魔力はあり余っておる。村の子らが、要らぬと言っても聞かずに捧げるからのぅ」
そう告げて、氷の精霊さんはドロリと氷が溶けるように人型を崩すと、真っ白い狐の姿へ形を変えました。
『できそうかのぅ?』
私の体よりも二倍も三倍も大きな純白の狐が、氷の精霊さんと同じ声で問いかけます。
人の姿でも美しかった氷の精霊さんですが、狐の姿が本来の姿なのでしょう。真っ白でふわふわで、どこか近寄りがたいほど神聖な雰囲気です。
「……やってみるのです」
頷けば、私の体よりも大きな尻尾が、私の手に触れてきました。柔らかい尻尾から流れてくる魔力は、やっぱり雪のように冷たくて……それなのに何故か、胸がポカポカと温まるかのようでした。
『此方の愛した村を救ってくれ、人の子』
幾つもの声が響いては消えていく……これは氷の精霊さんの記憶、でしょうか?
――氷精様、雪を降らせてくれてありがとう!
――氷精様のおかげで、今年も水に困りませんでした。
――どうか、氷精様が幸せでありますよう。私はそれだけを、ずっと祈っております
長い間、この村を守り続けてきた氷の精霊さんへ、捧げられた村の人々からの魔力は、もはや測ることすらできないほど強大なもの。
目を瞑れば、強大な魔力の中から感謝を伝える人々の姿すら見えるようです。
きっとこの魔力は、氷の精霊さんが何年も使わないまま、大事な思い出と一緒に、大事に抱えてきたものなのでしょう。
「この魔力、本当に使ってしまっても良いのです?」
『此方では使う踏ん切りがつかなかった故。人の子よ、申し訳ないが代わりに放って欲しいのじゃ』
「……わかったのです」
そこまで言うのなら、「本当に使っても良いの?」なんて聞くのは野暮です。
魔力に触れただけで、氷の精霊さんがどれほどノルディア様の村のことを、大事に思っているか、苦しいほど伝わって来ます。だからこそ……大事な村を守るために使うことに、躊躇いなんて必要ないのです!!
「氷精よ、我が呼びかけに応じ給え。力を授け給え。氷魔法〈氷の世界〉!!」
呪文を唱えた途端、冷たくて温かい魔力が体の中に流れ込んで来ました。
氷の魔力が辺り一帯を包み込んで、温度が下がったような気がします。
「ユナ、〈闇の壁〉がもウ、限界だヨ!」
「……ッ!」
冷えた空気の中。魔法を二つも発動しているせいで、〈闇の壁〉の制御が甘くなってしまったのでしょう。ヨルが叫んで、私が魔法に全力を注ごうとした時。
「後は任せて良いのじゃ」
純白の氷の精霊さんが言って、〈氷の世界〉の制御を代わってくれました。氷の精霊さんが操る〈氷の世界〉は、一瞬にして雪崩の頂点を凍らせて……そこからはあっという間でした。
ノルディア様の村を呑み込もうとしていた雪崩も、雪崩を押し留めていた〈闇の壁〉も、〈氷の世界〉は全てを純白の氷へと変えてしまいました。
「闇魔法が……凍ってル……」
ヨルが呆然と呟いています。
漆黒の闇魔法を、純白に変えてしまう氷魔法など、一体どれほどの威力なのでしょうか。
私とヨルが解除をするまでもなく、〈闇の壁〉は「パキ……」とひび割れた次の瞬間には、崩れて消えてしまいました。強力過ぎる〈氷の世界〉にかき消されてしまったようです。
せき止めていた〈闇の壁〉が完全に消え、青藍の口から悲鳴が漏れました。
「問題ないのぅ」
そんな中、氷の精霊さんだけは冷静なまま。
「此方の氷は、決して村を傷つけぬ」
その言葉通り、強固に固められた雪崩の氷像は、ノルディア様の村を呑み込もうとする形のままそびえ立ち、崩れ落ちるようなことはありませんでした。
「止まったのです……?」
「うむ、無事に止まったのぅ。人の子よ、感謝するのじゃ」
呆然と呟いた私に、いつの間にか人型に戻っていた氷の精霊さんが、満足そうな口調で返しました。その言葉に、やっと実感が沸いてきます。
「止まったのです!!」
「やったぁ!」と跳ねかけた瞬間、張り詰めていた緊張が解けてしまったのでしょう。魔力が尽きて立っていられなくなり、体がぐらりと傾きました。
地面が迫る視界の中、限界を超えていた私は「雪であんまり痛くないと良いな……」と、ぼんやり考えることしかできませんでした。
「ユナ様!」
地面に倒れこむ直前。積もった雪が目前に迫った私の体を、青藍の手が受け止めてくれました。次いで、ヨルが慌てて黒猫の姿に戻って「大丈夫?」と声を掛けてくれました。
「魔力がなくなって、体に力が入らないのじゃろう。此方の魔力を分けてやるのじゃ」
そう言って、氷の精霊さんがまた魔力を分けてくれました。
疲れ切った体には、流れ込む冷たい魔力が気持ちいい。
「ついでにこれは、村を救ってくれたことへの礼じゃ」
ツン、と氷の精霊さんは私のイヤリングを触りました。
魔石の中に流れ込むのは氷の精霊さんの魔力でしょうか?
イヤリングを外して確認すると、赤い魔石の中に、雪の結晶のような魔力が入っていました。
「キラキラと光っていて綺麗ですの」
「困ったことがあれば、此方を呼ぶと良いのじゃ」
「呼ぶと良い」と言う氷の精霊さんの言葉に、ヨルが「ユナはオイラの契約者だゾ!」と、毛を逆立てて威嚇をします。
氷の精霊さんには申し訳ないですが、ヨルがやきもちを焼くので、助けを借りるのは難しそうですね。
対抗心をむき出しにするヨルに「若いのぅ」と呟いた氷の精霊さんは、氷像になった雪崩に視線を向けて、嫌そうにため息をつきました。
「はぁ。此方はあれを熔かすとするかのぅ」
「村の人たちに会わなくて良いのです?」
山に戻っていこうとする氷の精霊さんは、私の言葉に振り向いて……
「此方は気まぐれで村を守っているだけじゃ。これ以上、此方に獲物やら魔力やらを捧げられても困るからのぅ」
……そんな言葉を返したのですが、ぶっきらぼうな態度が照れ隠しだってことはバレバレです。だって、村の方向を見つめる氷の精霊さんの眼差しは、とってもとっても優しいのですから。
「ではのぅ、人の子に闇の精霊よ」
冷気を纏った風がすぅと吹いて、舞った雪に瞬きを一つした瞬間、氷の精霊さんは消えてしまいました。
「おーい! ユナ! ヨル! 青藍さん! どうなってんだ!?」
氷の精霊さんと入れ替わりで、ノルディア様が戻ってきました。
その後ろには、項垂れるホオズキさんも居ました。
きっと、村の人たちの避難を手伝っていたのでしょう。ホオズキさんも村が大事で、そう思っていたからこそミルフィさんに利用されてしまったのですから。
もしかするとホオズキさんは、キュラス王国の間者に協力をした罪で、ユーフォルビアの騎士団に裁かれてしまうかもしれませんが……
「ノルディアさまー!! 頑張ったのです! たくさん褒めて、なでなでしてほしいのです!!」
……今はそんなこと、考えなくても良いでしょう。
だって、ノルディア様に褒めてもらうほうが大切ですから!!
「これで残っているのはあなた一人です」
ミルフィの注意がホオズキに向いている間に、青藍さんが動いていたらしい。短剣についた血を振り払いながら、青藍さんは次の標的をじっと見つめていた。
「あら、まぁ。本当に誰も使えないんですから。今日は分が悪いので、このあたりでやめにしましょうかぁ」
「私たちがあなたを逃がすとでも思っているのでしょうか?」
「逆に聞くけどぉ、私が逃げられないと思ってるぅ?」
にやぁと笑みを浮かべたミルフィに嫌な予感がした。あいつを止めないと、何かとてつもないことが起こるような危機感があった。
「勝てなくても、負けなければいいんですよぉ。……たとえばぁ、雪崩でも起こすとか。私を追う余裕なんてなくなりますよねぇ?」
青藍さんが「何を考えて……?」と呟くのと、雪山の方向から爆発音が響くのは同時だった。
「ホオズキさんの誘拐が成功したら、ほかは全員殺そうと思って用意してきた魔法ですがぁ……案外、役に立ちそうで良かったですぅ」
村の後方にある山の中腹で、火魔法による爆発が幾つも起こっていた。ず、ず、と少しずつ崩れていった表面の雪は、一か所滑り出してから雪崩となるまではあっという間だ。
「早く逃げないと、雪に呑み込まれて死んじゃいますよぉ。でもぉ、村にもまだ残っている人はたくさん居ますし、キュラスの騎士もあなたたちに倒されちゃったから、自力では逃げられませんねぇ。うふふ、助けますかぁ? それとも見殺しにしますかぁ?」
「テメェ!」
怒りに任せて放った斬撃を、ミルフィはふわりと避けて、身を翻した。
「私は逃げますのでぇ、精霊の契約者だけは死なせないでくださいねぇ」
〈爆発〉の魔法を放ち、爆風を利用してミルフィは飛んで逃げていった。
あっという間に離れて行ったミルフィを、追う余裕はなかった。
「まずいですね。私たちも早く逃げないと。ヨル様、〈影移動〉は何人まで同時に移動させられますか?」
「ユナが起きてれバ、二十人くらイ。オイラだけだト、十人が限界ダ」
「ノルディアさん、村の方々は何人ほどいますか?」
「前は五十人位だ。今は何人残ってるかわからねェ」
「……キュラス兵も何人かは、尋問のために連れていかないといけません」
苦しい顔をした青藍さんが、躊躇うように言葉を詰まらせた。
そして意を決したという表情を浮かべた青藍さんが何を言おうとしているのか、俺にはわかってしまった。
……わかってしまったから、俺は青藍さんの言葉を奪った。
「ユナと青藍さん、それから状況をわかってるホオズキと、数人のキュラス兵。それ以外の奴らは置いていく」
青藍さんが嫌な役目を……村を見捨てる判断を下す役目を、引き受けようとしていることはわかっていた。
全員を助けることは不可能。一番に優先すべきは、この村の惨状を国王様の元まで伝えること。それから、巻き込んでしまったユナとヨル、青藍さんを無事に王都まで帰すこと。それ以外まで、今の俺には抱えきれない。
それがわかった上で、村の終わりを決断することを、部外者である青藍に押し付けては駄目だと思った。
「それで良いな?」
「…………ええ。最善の判断かと思います。できるだけ階級の高そうなキュラス兵を連れてきます。ヨル様、すぐに出られるよう準備をお願いします」
青藍さんも苦しい顔をしながらも、俺の考えに頷いてくれた。
ヨルだけが唯一、青藍さんの言葉に返事をしなかった。
「ユナ、起きテ……ノルディアの村がなくなっちゃうヨ……」
◆ ◇ ◆
「……ナ……ユナ……」
なんだかとっても眠いです。いつもはすぐに起き上がれるのに……
もう少しだけ、と目を閉じようとすれば、夢の中に出てきたヨルが「ノルディアの村がなくなル」と言っています。
そういえば、ノルディア様の故郷の村に来ていたはずです。
「シチューを作る」とホオズキさんが言っていて、それを待っていたはずですが……なんでその村が、なくなるなんてことになるのです?
「ユナ、早く起きテ。ノルディアが悲しそうだヨ」
夢の中のヨルが、私の頬に触れて……その瞬間、頭にかかっていた靄が晴れたようにスッキリとしました。
「……ノルディア様、悲しいのです?」
パチリと目を開けば、周囲には鉄臭い血の匂いが漂っていました。
誰もいない家の中を不思議に思いながら外を見てみると、ところどころ赤く染まった雪の上に、呻き声を上げながら転がっている男の人が何人もいます。
状況を把握できないまま周りを見てみると……村の後方、雪山から大量の雪が崩れて向かってきています!?
「このままだと、ノルディア様の故郷が潰されてしまうのです!! 闇魔法〈闇の壁〉!!」
咄嗟に展開させた魔法は〈闇の壁〉。呪文の通り、闇の魔力で壁を作り出す魔法です。
本来なら小規模の壁を作り出して、一時的に敵の攻撃を防ぐ魔法ですが、魔力量に物を言わせて雪崩を食い止めるほどの巨大な壁に変えてみました……けれど……
「これ、かなりきついのですっ!」
村全体を守れるほど大きな〈闇の壁〉。そこにのしかかる、膨大な量の雪の塊。
少しでも気を抜いてしまえば、魔法も雪崩も一気に崩れてしまいそうです!!
「ユナ、起きタ!?」
「起こしてくれてありがとうですの。ヨル、早速で申し訳ないのですが、魔法の補助をしてほしいのです」
私の魔力に反応したヨルが、すぐに近くまで来てくれます。
心配そうな顔をしたヨルの頭をひと撫ですれば、ヨルは猫の体を靄状に溶かして、私の体を覆ってくれました。
「任せテ」
着ているドレスがヨルの黒色に染まっていき、同時にヨルに渡していた魔力が戻ってきます。
魔法のコントロールまでヨルが引き受けてくれたので、だいぶ楽になりました。
「この魔法は……ユナか!? 何を……いや、無茶をするな!」
〈闇の壁〉に目を奪われていたノルディア様が、ヨルに少しだけ遅れて私の元まで駆けてきました。大量の魔力を一気に使っているからでしょうか? 私の体は小さくカタカタと震えてしまっています。雪の影響というだけでは足りないほど寒く感じます。
そんな私の様子を見たノルディア様が、「もう良い」と言いました。
「ユナ、やめろ。ここから離脱するのが最優先だ」
ノルディア様はどんなに苦しい状態の中でも、一番正しい判断を選ぼうとする人だと知っています。だからきっと、ノルディア様の判断は間違っていないのでしょう。
けれど……
「ノルディア様、悲しい顔をしているのです」
私を止めようとするノルディア様の顔は険しくて、眉間にしわまで寄っています。
「君と紡ぐ千の恋物語」を前世でプレイしていた時から、ノルディア様が大好きだった私は知っています。
ノルディア様は悲しい時、眉間に皺を寄せて涙をこらえてしまうことを。助けられない命があった時、選べない選択があった時、一人で抱え込んで悔やみ続けてしまうことを。
そんなノルディア様が大好きだったのですが……私は推しには、幸せになってほしいのです!!
「ノルディア様にそんな顔をさせる未来なんて、私は絶対に嫌ですの!!」
叫んで〈闇の壁〉に注ぐ魔力を増やします。さらに大きく、頑丈になった〈闇の壁〉に、ノルディア様も私を止めようとしていた手を、空中で静止させてくれました。
「時間を稼ぐので、ノルディア様は少しでも多くの方へ避難誘導を。長くは持たないのです」
「…………わかった。無理だと思ったら、すぐに魔法を解除して逃げろ。俺のことも村のことも考えなくて良い」
わずか三秒。考え込んだノルディア様は、すぐにポツポツと建つ家の方へと駆けて行きました。
ピシリ、ピシリ。
気を抜いた端からヒビの入ってしまう〈闇の壁〉に魔力を注ぎ込みながら、青藍から魔力回復薬を受け取ります。魔力回復薬は苦くて苦手ですが、そうも言っていられない状態です。
「うう、まずいのです……」
顔をしかめながら魔力回復薬を飲み込みます。
ノルディア様が立ち去ってから、まだ数分しか経っていません。
こんなにも時間が長く感じることがあるなんて……!
「青藍、次の魔力回復薬を渡してほしいのです」
「これが最後の一本です」
雪の上には、飲み終えた魔力回復薬の空瓶がいくつも転がっています。心配性な青藍が多めに持ってきていた魔力回復薬が、底をつくとは思ってもいませんでした。
「……限界だと私が感じたら、ユナ様だけでも抱えて逃げます」
「逃げる時はノルディア様も一緒ですの」
私の言葉に青藍は返事をしてくれませんでした。
青藍はノルディア様と私の命、どちらかしか選べないという状態になってしまったら、私を選ぶでしょう。青藍は私の護衛だから、仕方ありません。
でも……それでも……
「ノルディア様の居ない世界も、ノルディア様が悲しむ未来も、私は絶対に嫌ですの!!」
最後の魔力回復薬を飲み込んで、ノルディア様に貰ったイヤリングに貯めていた魔力も全部使いながら叫びました。それだけのことをしても、〈闇の壁〉の維持が少し長引くだけ。
「ユナ様!!」
青藍の呼びかけに答えることもできないまま、魔力の枯渇に気を失いかけた、その瞬間……
「幼き人の子。この村を守ってくれているのか?」
……私の肩に、誰かの手が乗せられました。
振り返った先に居たのは、降りしきる雪を連想させる白い髪、雪模様の入った白色の着物を着た、人間離れした美しさを持つ女性でした。
「よくぞ一人で此処まで耐えたのぅ。おかげで此方が間に合ったのじゃ」
指の先から瞳、睫毛に至るまで全部が純白の女性は、私に向かって笑みを向けます。
古めかしい話し方をするその人は、存在自体がどこか人間離れしていて、私の肩に乗ったままの手も、生きている人間というには冷たすぎました。
「いつの間に!?」
女性の存在に気が付いた青藍が、慌てて短剣に手をかけます。
「青藍、大丈夫ですの。多分、悪い人じゃないのです!」
鞘から短剣を抜こうとする青藍を、私は咄嗟に止めました。
「うむ。此方は人の子を助けるために来たのじゃ」
霞む視界の中、女性は慈愛に満ちた優しい瞳で、私を見つめていました。
女性の白い指先が私の額をそっと撫でます。
氷のような冷たさが去った後、ズキズキと痛んでいた体が少し楽になりました。
これは……魔力の受け渡し?
「……コイツ、氷の精霊ダ! オイラの契約者に何をしタ!?」
私以外の魔力が入り込んできたと気が付いたのでしょう。
ドレスと一体化していたヨルが、慌てて顔だけを出して、私と女性の間に割り込みます。
ヨルに「氷の精霊」と言われた女性は、その言葉を否定することもなく「なんじゃ?」と、ヨルに冷ややかな目を向けました。
「人の子が魔力欠乏を起こしかけていた故、此方の魔力を分けたのじゃ。人の子をこれ以上消耗させたいわけではないなら、まずは礼を言うべきではないかのぅ?」
「……ウッ」
「そもそも、闇が一人で解決できていたなら、此方とて見守るだけにしたのじゃ。一人で解決することもできない若造が、此方をコイツ呼ばわりなど無礼じゃのぅ」
「……オイラの契約者を助けてくれテ、ありがとウ」
最初は悔しそうな顔をしていたヨルですが、女性……氷の精霊さんに告げられたことに返す言葉もなく、考え込んだ後に礼を告げました。
それにしても、ヨルを若造扱いするなんて。私に魔力を渡しても平然としている様子からも、この氷の精霊さん、とっても長い時を生きている上位の精霊のようですね。
「……私からも。ユナ様を助けてくださり、ありがとうございます」
いまだに警戒をしている青藍も、ひとまずは氷の精霊さんを信用してくれたようです。短剣に手をかけたままですが、動かないで様子を見てくれています。
「私からもありがとうですの、大分楽になったのです!」
「良い。だがこのままでは、渡した魔力が尽きるのも時間の問題じゃのぅ」
「村の人が避難をしたら、魔法を解除しようと思っているのです」
私の言葉に、氷の精霊さんは「ふむ」と唇に指を当てて考えてから、「一つ協力をしないかのぅ?」と問いかけてきました。
「此方の力も貸す故、どうにかあの雪崩を止めてはくれないかのぅ」
「どうしテ? 契約もしていない人間ヲ、お前が守ろうとすル?」
ヨルの問いかけに、氷の精霊さんは静かに視線を落としました。
どこか神秘的な美しさを持つ氷の精霊さんは、ひどく悲しそうに、解けて消えてしまいそうなほど小さな声で呟きました。
「…………此方はただ、あの村がなくなるのは嫌なのじゃ」
伏せた睫毛の奥に見える瞳は、どこかここではない場所を見つめているようでした。
たとえば……遠い過去を、思い出しているかのようです。
「ヨル、力を借りても良いです?」
「……今回だケ!」
普段は私がほかの精霊の力を借りることを嫌がるヨルですが、今回は氷の精霊さんに何かを感じ取ったのでしょう。
「ユナが助けられタ、借りを返すだけだからナ!」とツンツンとした態度を取りながらも、私と氷の精霊さんの間から退いてくれました。
「うむ。ならば闇の契約者よ。よく人の子が唱える、精霊への呼びかけは知っているかのぅ?」
「前に少しだけ見たことがありますの。我が呼びかけに応じ給え。力を授け給え……という言葉ですの?」
「それじゃ。それで氷精と呼びかけてから、氷の魔法を使ってほしいのぅ。何の魔法でも良い。できれば雪崩が凍るイメージで放てば、あとは此方がどうにかするのじゃ」
「わかったのです。ですが、雪崩を凍らせて止められるほど、魔力が残っていないのです」
「問題ない。此方の魔力はあり余っておる。村の子らが、要らぬと言っても聞かずに捧げるからのぅ」
そう告げて、氷の精霊さんはドロリと氷が溶けるように人型を崩すと、真っ白い狐の姿へ形を変えました。
『できそうかのぅ?』
私の体よりも二倍も三倍も大きな純白の狐が、氷の精霊さんと同じ声で問いかけます。
人の姿でも美しかった氷の精霊さんですが、狐の姿が本来の姿なのでしょう。真っ白でふわふわで、どこか近寄りがたいほど神聖な雰囲気です。
「……やってみるのです」
頷けば、私の体よりも大きな尻尾が、私の手に触れてきました。柔らかい尻尾から流れてくる魔力は、やっぱり雪のように冷たくて……それなのに何故か、胸がポカポカと温まるかのようでした。
『此方の愛した村を救ってくれ、人の子』
幾つもの声が響いては消えていく……これは氷の精霊さんの記憶、でしょうか?
――氷精様、雪を降らせてくれてありがとう!
――氷精様のおかげで、今年も水に困りませんでした。
――どうか、氷精様が幸せでありますよう。私はそれだけを、ずっと祈っております
長い間、この村を守り続けてきた氷の精霊さんへ、捧げられた村の人々からの魔力は、もはや測ることすらできないほど強大なもの。
目を瞑れば、強大な魔力の中から感謝を伝える人々の姿すら見えるようです。
きっとこの魔力は、氷の精霊さんが何年も使わないまま、大事な思い出と一緒に、大事に抱えてきたものなのでしょう。
「この魔力、本当に使ってしまっても良いのです?」
『此方では使う踏ん切りがつかなかった故。人の子よ、申し訳ないが代わりに放って欲しいのじゃ』
「……わかったのです」
そこまで言うのなら、「本当に使っても良いの?」なんて聞くのは野暮です。
魔力に触れただけで、氷の精霊さんがどれほどノルディア様の村のことを、大事に思っているか、苦しいほど伝わって来ます。だからこそ……大事な村を守るために使うことに、躊躇いなんて必要ないのです!!
「氷精よ、我が呼びかけに応じ給え。力を授け給え。氷魔法〈氷の世界〉!!」
呪文を唱えた途端、冷たくて温かい魔力が体の中に流れ込んで来ました。
氷の魔力が辺り一帯を包み込んで、温度が下がったような気がします。
「ユナ、〈闇の壁〉がもウ、限界だヨ!」
「……ッ!」
冷えた空気の中。魔法を二つも発動しているせいで、〈闇の壁〉の制御が甘くなってしまったのでしょう。ヨルが叫んで、私が魔法に全力を注ごうとした時。
「後は任せて良いのじゃ」
純白の氷の精霊さんが言って、〈氷の世界〉の制御を代わってくれました。氷の精霊さんが操る〈氷の世界〉は、一瞬にして雪崩の頂点を凍らせて……そこからはあっという間でした。
ノルディア様の村を呑み込もうとしていた雪崩も、雪崩を押し留めていた〈闇の壁〉も、〈氷の世界〉は全てを純白の氷へと変えてしまいました。
「闇魔法が……凍ってル……」
ヨルが呆然と呟いています。
漆黒の闇魔法を、純白に変えてしまう氷魔法など、一体どれほどの威力なのでしょうか。
私とヨルが解除をするまでもなく、〈闇の壁〉は「パキ……」とひび割れた次の瞬間には、崩れて消えてしまいました。強力過ぎる〈氷の世界〉にかき消されてしまったようです。
せき止めていた〈闇の壁〉が完全に消え、青藍の口から悲鳴が漏れました。
「問題ないのぅ」
そんな中、氷の精霊さんだけは冷静なまま。
「此方の氷は、決して村を傷つけぬ」
その言葉通り、強固に固められた雪崩の氷像は、ノルディア様の村を呑み込もうとする形のままそびえ立ち、崩れ落ちるようなことはありませんでした。
「止まったのです……?」
「うむ、無事に止まったのぅ。人の子よ、感謝するのじゃ」
呆然と呟いた私に、いつの間にか人型に戻っていた氷の精霊さんが、満足そうな口調で返しました。その言葉に、やっと実感が沸いてきます。
「止まったのです!!」
「やったぁ!」と跳ねかけた瞬間、張り詰めていた緊張が解けてしまったのでしょう。魔力が尽きて立っていられなくなり、体がぐらりと傾きました。
地面が迫る視界の中、限界を超えていた私は「雪であんまり痛くないと良いな……」と、ぼんやり考えることしかできませんでした。
「ユナ様!」
地面に倒れこむ直前。積もった雪が目前に迫った私の体を、青藍の手が受け止めてくれました。次いで、ヨルが慌てて黒猫の姿に戻って「大丈夫?」と声を掛けてくれました。
「魔力がなくなって、体に力が入らないのじゃろう。此方の魔力を分けてやるのじゃ」
そう言って、氷の精霊さんがまた魔力を分けてくれました。
疲れ切った体には、流れ込む冷たい魔力が気持ちいい。
「ついでにこれは、村を救ってくれたことへの礼じゃ」
ツン、と氷の精霊さんは私のイヤリングを触りました。
魔石の中に流れ込むのは氷の精霊さんの魔力でしょうか?
イヤリングを外して確認すると、赤い魔石の中に、雪の結晶のような魔力が入っていました。
「キラキラと光っていて綺麗ですの」
「困ったことがあれば、此方を呼ぶと良いのじゃ」
「呼ぶと良い」と言う氷の精霊さんの言葉に、ヨルが「ユナはオイラの契約者だゾ!」と、毛を逆立てて威嚇をします。
氷の精霊さんには申し訳ないですが、ヨルがやきもちを焼くので、助けを借りるのは難しそうですね。
対抗心をむき出しにするヨルに「若いのぅ」と呟いた氷の精霊さんは、氷像になった雪崩に視線を向けて、嫌そうにため息をつきました。
「はぁ。此方はあれを熔かすとするかのぅ」
「村の人たちに会わなくて良いのです?」
山に戻っていこうとする氷の精霊さんは、私の言葉に振り向いて……
「此方は気まぐれで村を守っているだけじゃ。これ以上、此方に獲物やら魔力やらを捧げられても困るからのぅ」
……そんな言葉を返したのですが、ぶっきらぼうな態度が照れ隠しだってことはバレバレです。だって、村の方向を見つめる氷の精霊さんの眼差しは、とってもとっても優しいのですから。
「ではのぅ、人の子に闇の精霊よ」
冷気を纏った風がすぅと吹いて、舞った雪に瞬きを一つした瞬間、氷の精霊さんは消えてしまいました。
「おーい! ユナ! ヨル! 青藍さん! どうなってんだ!?」
氷の精霊さんと入れ替わりで、ノルディア様が戻ってきました。
その後ろには、項垂れるホオズキさんも居ました。
きっと、村の人たちの避難を手伝っていたのでしょう。ホオズキさんも村が大事で、そう思っていたからこそミルフィさんに利用されてしまったのですから。
もしかするとホオズキさんは、キュラス王国の間者に協力をした罪で、ユーフォルビアの騎士団に裁かれてしまうかもしれませんが……
「ノルディアさまー!! 頑張ったのです! たくさん褒めて、なでなでしてほしいのです!!」
……今はそんなこと、考えなくても良いでしょう。
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