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番外編~

氷の精霊は終わりを望む ~溶けた世界、求める熱~

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「男が死んだ」

 その知らせを氷の精霊が聞いたのは、男が山を下った僅か数時間後のことだった。
 山を下りて、男は村に着いた途端に息絶えたらしい。

 雪の積もった地面に寝かされていた男は、安心したような表情を浮かべていた。
 苦痛も何もないような、まるで眠っているだけのような、穏やかな表情だった。

 男の亡骸の元へ向かった氷の精霊は、初めて自分から男の手に触れた。
 男から氷の精霊に触れたことは何度かあった。
 しかし、氷の精霊から手を伸ばしたのは、これが初めてのことだった。

 氷の精霊が触れた男の手は、今まで触れた男のどんな手よりも冷たくて。
 誰よりも優しかった男の手は、氷の精霊の手を握り返すことはしなかった。

「……そうか。其方そなた、死んだのか」

 呟いた氷の精霊の頬を、何かが伝って落ちていった。
 パチリと瞬きをして、氷の精霊は自身の視界がぼやけていることに気が付いた。
 氷の精霊は、氷の精霊である自分が水も出せることを、涙と言うものを流せることを、初めて知った。

此方こなたは……其方そなたが好きだったのかもしれないのぅ……」

 涙を流した氷の精霊の心は、うの昔に、ドロドロに溶かされてしまっていた。
 氷の精霊の幸せを願う、触れただけで折れてしまいそうな男の、力強い言葉によって。


  ◇  ◆  ◇


 男が居なくなっても、世界は変わらずに回り続ける。
 気が付けば男が死んでしまってから、数十年以上の時が経っていた。

 変わらぬ世界。
 氷山で一人きりだった時と何一つ、変わっているものはない。
 ……はずなのに。

 どうしてだろうか?
 同じ世界のはずなのに、温もりを教えられた世界はまるで、別の物のようだった。

 氷の精霊は、与えられる温もりの心地よさを知ってしまった。
 誰かと共に過ごす時は、一人きりで雪に埋もれるだけの時間よりも、もっとずっと幸せなのだと知ってしまった。

 氷の精霊を溶かしたあの熱はもう、この世界のどこにも無いと言うのに。



 溶けた心で見る世界は、美しくて、優しくて。温かくて

 ……それから少し、寂しかった。


  ◇  ◆  ◇


 それからしばらくの時が経って。
 昔に村を枯らした魔物が……魔王の配下の炎鳥えんちょうが復活した。

 放って置いても良かったのだけれど、氷の精霊は炎鳥の元へ向かった。
 炎鳥を放っておけば、再び村を枯らされてしまうかもしれなかったから。

 轟々と燃える炎鳥の姿を前に、氷の精霊は不思議な気持ちになった。
 炎鳥これが居なければ、男に会うことは出来なかった。
 しかし炎鳥これが居なければ、男があんなに早くに死ぬことはなかったかもれない。
 感謝をしたいような、憎みたいような、不思議な気持ちだった。

此方こなたは感謝もしておる。炎鳥が居なかったなら、此方こなたはここに立っては居なかったからのぅ」

 炎鳥は氷の精霊を見て、一層体の炎を大きく燃やした。

「我が友ハルジオンを害した人間を、我は許さぬ。止めるというのなら、貴様も殺す」

 何もかもを破壊したいとでも言うように、ギラギラと瞳を輝かせる炎鳥の姿に、氷の精霊はスッと目を細めた。
 憎しみや悲しみ、そういったものに囚われている炎鳥の姿は……もしかしたら氷の精霊だったかもしれない。

 例えば氷の精霊の愛した男が、死の間際に立ってなお、氷の精霊の幸せを願うような、どこまでも優しい男でなければ……
 ……男を殺した原因である炎鳥を殺すため、世界を凍てつかせたのは氷の精霊であったかもしれないから。

 だからなんとなく氷の精霊には、炎鳥の気持ちも分かるような気がした。

「だが、あの悪夢のような光景を繰り返す訳にはいかないのじゃ」

 氷の精霊はそう言って、魔力を広げていく。
 長い年月が経ってなお、氷の精霊は男のかさついた手の感触を忘れてはいなかった。
 水分を失ってひび割れて、それでも温かくて優しかった男の手を……
 ……男と同じ苦しみを、氷の精霊は二度と村の子供に味わわせたくはなかった。

 凍てつかせる氷に、氷を溶かしてしまう炎。
 相性は不利で、氷の精霊は何度も炎鳥の炎の熱に飲み込まれた。
 どろりと体が溶かされて、しかし氷の精霊は、熱いとは思わなかった。
 氷の精霊が熱いと思ったのは、遠い昔、男に触れられた時だけ。
 あの時に溶かされてしまった氷の精霊の心は、いまだ凍り付くことは無いままだったから。


    氷が溶けて、
         再び凍って。

      炎を凍らせて、
           炎に溶かされて。


 炎鳥を追い払った氷の精霊は、ドロリと形を失った自分の手を凍らせようとして、けれど止めた。

 もしも氷の精霊に終わりがあるのなら……
 永久に近い時を生きる精霊の終わりが、あるとするなら……
 もう一度、自分を溶かしたあの熱に触れたいと思ってしまったのだ。

 熱くて、
 脆くて、
 ……離れ難い、男の手の体温に。



『氷の精霊様。誰よりも優しい、氷の精霊様』

 男の声がした気がした。
 氷の精霊は、そちらの方向を見た。
 白い光の中、男が昔と変わらぬ笑顔を浮かべているような気がした。

『   』

 氷の精霊は男の名前を呼んだ。
 ずっと呼びたくて、けれど呼べなかった名前だった。





  ◇ ◆  とある男が呼んだ、美しい氷の精霊  ◆ ◇





 昔、干からびて滅ぶ寸前だった村の男が、助けを求めて精霊を呼んだ。
 男は、精霊という生き物を信じてはいなかった。
 それでも精霊に呼びかけたのは、そうしないと村が滅ぶしかないと悟っていたからだった。

其方そなたか、精霊を呼んでおるのは」

 男の呼びかけに応じて現れたのは、美しい精霊だった。
 降り注ぐ雪のように純白の髪。純度の高い氷のように、キラキラと輝くシルバーグレーの瞳。

 ――氷の精霊だ

 男はその存在を見た瞬間に、そう思った。
 ふわりふわりと宙に浮かぶ、人だと言うには余りにも美しすぎる氷の精霊は、まさに氷の化身のように映った。
 美しい、けれど冷たい氷。

 ……しかし、それは間違いだと直ぐに知った。
 冷たい氷のような印象を与える精霊は、本当に優しい心の持ち主だったから。

 氷の精霊は、枯れた村に氷の恩恵を与えてくれた。
 氷の精霊は、「暇つぶし」と言いながら、救いの手を差し伸べてくれた。

「氷の精霊様、本当にありがとうございます」
「……此方こなたの手は、冷たくはないか?」

 男は、自分に向かって手を伸ばした氷の精霊が、途中でその手を止めるのを何度も見ていた。
 人とは違う温度など、男は気にも留めなかったと言うのに。
 それでも「冷たいから」と、触れる事すら躊躇う氷の精霊は優しくて、どこまでも優しくて。

 男は優しい氷の精霊の幸せを、心の底から願っていた。
 自分の短い寿命もどうでも良くて、死んでしまうその瞬間まで、氷の精霊のことを想っていた。


 ……
 …………
 ………………


 体という器から魂が抜けて、数十年。
 男は氷の精霊の涙を初めて見た。

 冷たい印象を与える氷のようなシルバーグレーの瞳から、まるで氷が溶けてしまったかのように、涙が次々に流れ落ちていた。

『氷の精霊様、そんなに泣いてしまったら、溶けてしまいますよ』

 男はその光景に驚いてパチリと瞬きをして、それから、氷の精霊に向かって手を伸ばした。

『溶けても良い。溶けても良いから、此方こなた其方そなたと……ソリスと共にありたい』

 氷の精霊も男の名前を呼びながら、男に向かって手を伸ばした。
 もう冷たくはない氷の精霊の手と、男の手が触れあって、お互いの熱が混ざり合う。

 いっそ溶けて、氷の精霊と一つになって、ずっと一緒に居ることが出来れば良いのに、と。
 男はそんな事を思って、氷の精霊の手を握り締めた。










【あとがき】

ずっと書きたかった氷の精霊と、
氷の精霊が忘れられなかった人間の話を書くことができました!

正直、バッドエンドかハッピーエンドか、読み手によって変わるとは思います。

氷の精霊は男に会えて幸せを知り、
男に置いて逝かれてしまって寂しさを知り、
けれど男の「幸せになって」の言葉で、失った幸せを求めて生き続けて、
溶けてしまって、やっと求めていた幸せを手にすることが出来たと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次はガストンの話を……書けたら更新したいと思います!

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