もう、いいのです。

千 遊雲

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もう、いいのです

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『少し前、この国に勇者と呼ばれる者が居たはず。人でありながら、我が力の鱗片を宿した私の愛し子。この国を守るために剣を取った、優しい子』



確かに勇者はいた。

強く、勇敢な人だったと聞いている。

けれどその人は…



『たった一人で魔王に対峙し、魔王と共に、若くしてこの世を去った哀れな子』



女神はそっと目を伏せた。

悲しみを宿したその顔が、街の真ん中に立てられた勇者の像に似ているとフィルは思った。

けれど、その顔に浮かぶ悲しみはすぐに怒りへと変わった。



『その愛し子が愛した少女を、私が庇護する少女を、あろうことかそなたは傷つけた。知らなかったでは許されない。無知とは時に、罪になる』



ずっとクレアの肩を支えていた女神の手が、フィルへと向けられる。

それだけで、フィルは死を覚悟した。

足がガクガクと震え、冷や汗が止まらない。

圧倒的強者から向けられた殺意に、フィルの体は生きることを諦めた。

けれど、それを止めたのはクレアだった。



「…いいのです」



クレアは涙を瞳いっぱいに溜めながら、フィルに向けられていた女神の手を握った。

許してくれたのだと、フィルは思った。

縋るようにクレアを見て、すぐに違うと気付かされる。

クレアの瞳は、諦めに満ちていた。



「7年です」



そしてぽつりとクレアは呟いた。

フィルにはそれが、なんの数字か分からなかった。



「7年。あの人が…死んでから、まだ7年です。あの人の存在も、あの人と婚約をしていた私のことも、人はどんどん忘れていく。忘れて、あの人を犠牲に得た平和を、まるで元からあったみたいに過ごしていくだけ」



だからもういいのですと、クレアは再び呟いた。



「あの人が命をかけて守った国だから、私もこの国を支えようとして来ました。けれど、あの人が…勇者として旅立つ前に、唯一私に残してくれた指輪を、あの人への想いを、持つことが罪だと言うなら、私はもう、この国では生きていけない」



その言葉で、ようやくフィルは自分が何をしたのか、何故クレアがあれ程悲しんでいたのか、理解した。

勇者は魔王の元へ行き、帰らぬ人となった。

骨の一欠片も帰って来ず、つまりクレアのしていた指輪は、勇者の形見だったのだろう。

そしてフィルはそれを、その指輪を、もう戻ってこない場所に投げてしまった。


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