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第五章 北国レインガルドへ

4 マクレーニー博士

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 真っ直ぐ進み、最後に広い階段を登ると踊り場の奥に入り口がある。扉からようやく建屋に入った。一行は応接室へ通された。廊下は冷えていたが、部屋の中はとても暖かくアレムはほっと一息ついた。案内をしてくれた人達はあとでまた来ますと言って立ち去り、ネイバリー一行だけが残された。ウィルエルがアレムの手袋、マフラー、コートを脱がせてくれた。アレムは子どものようで恥ずかしかったが嬉しくもあり、むず痒い気持ちになった。用意してあったお茶を飲み休息していると、ドアをノックする音が聞こえた。ドアが開くと、そこには車椅子に乗った老人がいた。老人は髪も髭も白く眼鏡をかけており、アレムを見ると目を見開いた後にっこりと笑った。付き人に車椅子を押され、アレムとウィルエルの前までやってきた。
 ウィルエルに「お久しぶりです」と挨拶をした後、老人はアレムの方に体を向けた。
「アレム様初めまして。ツイル・マクレーニーと申します。お会いできて光栄です」
 老人はカガニア語で挨拶をした。アレムは久々に聞く母国語に胸が一杯になった。
「この通り足が不自由で……、このような姿勢で申し訳ございません」
「とんでもない、気にしないでください。こちらこそお会いできて嬉しいです、マクレーニー博士」
 アレムはカガニア語で答えると博士と握手した。
 ウィルエルとアレムは博士に促され席についた。博士は自分とカガニアの関係について語ってくれた。
 話によると博士は現在七十歳で、三十代の頃二年ほどカガニアにいたそうだ。ネイバリーからカガニアへ使節として送られたが、当時のカガニアは今以上に閉鎖的だったので相手にしてもらえずすぐに追い返された。しかし帰路の船が嵐で難破し、博士はカガニアの海岸へ流れ着いた。地元の人たちは博士を見つけると手厚く看護をしてくれた。そのうち政府に見つかったが、帰りの手段が無いためカガニアへ海外の情報を提供する役割としてしばらく過ごしていた。その間数回商船に乗って帰るチャンスはあったが、一部の要人へネイバリー語を教えていたことなどから見送り、帰国するのは事故から二年後になった。博士も現地にいる間カガニア語を研究して話せるようになった。博士はその後何度もカガニアへ行こうとしたが世界大戦の影響で叶わず、その後病気を患い遠出できなくなったということだった。
 ときおり出てくる聞き慣れた地名が感慨深く、アレムは博士の話を頷きつつ聞いていた。生きているうちにまたカガニアの人と会えて嬉しいと博士は感激した様子で語ってくれた。
「ではそろそろ宜しいだろうか?」
 ずっとカガニア語で話していたため、ウィルエルが話がひと段落したタイミングを見計らって声をかけた。
「お待たせいたしましたウィルエル王子。ついつい熱く語ってしまいましたな」
 博士は髭を撫でながらイタズラっぽく笑った。そこからはウィルエルがネイバリー語でアレムへ質問し、博士が通訳することになった。
「好きな食事は?」
「本当に全部美味しい、全部好きです」
「何か欲しいものは?」
「特にありません」
「困っていることは?」
「全然無いです」
 アレムは正直に答えていたが、ウィルエルの表情はなんとなく納得いっていないように見えた。
「心細い思いをしていないか?」
「カガニアにいる時よりずっといい暮らしです」
「カガニアに戻りたくないか?」
「……いえ、それは無いです……」
 段々とウィルエルの顔が険しくなっているように見え、アレムの声は弱々しくなっていった。
「武術の心得が?」
「母が……カガニアの国技である武闘の女性チャンピオンで、手ほどきを受けていました」
 通訳の際、博士が国技であるケマイについて簡単に紹介をしてくれた。周囲はなるほどという顔をしていた。
「アレムの母は…………君が幼いときに亡くなったと聞いたが、一人で鍛錬を?」
 アレムは言葉が詰まった。異母兄のミシュアルに一方的に蹂躙される様子を思い出した。
「親族も……得意なので……ときどき手合わせをしていました」
 視線を落とし声を絞り出した。ウィルエルの視線を感じる。沈黙が流れ、うまく息ができなかった。
「アレムともっと話をしたいので博士意外席を外してくれ」
 ウィルエルがそう言い、部屋にはアレム、ウィルエル、マクレーニー博士の三人が残された。アレムは何を聞かれるのか怖く、俯いて拳を握りしめていた。ウィルエルはそんなアレムの肩に手を置いた。
「怯えないで大丈夫。だけどまだ聞きたいことがある。アレム、君がネイバリーに来た時に怪我をしていた理由を教えてくれ」
 アレムの心臓がドクリと脈打った。体から血の気が引いていく。全身痣だらけだったアレム。何も触れてこないので忘れてくれたかと思っていたが、そうではなかったらしい。
「カガニアで……暴漢に襲われました」
 用意していた答えを恐る恐る口にしたが、これには博士も驚いたようだった。ウィルエルはアレムの手を握った。
「周囲の人は? 怪我をしたのはアレムだけだったのか?」
「はい、そうです」
 アレムの体には無数の噛み跡やキスマークがあった。その“暴行”がどういうものだったかはウィルエルはよく分かっているだろう。アレムはウィルエルの顔を見ることができなかった。
「嫌なことを思い出させてすまない。何か要望があればいつでも言ってくれ。力になりたい」
 ウィルエルはアレムを抱きしめてくれた。しかしアレムは自分が汚い存在であると再び思い知らされた。
 それからウィルエルはアレムが来てから起こった事件について、状況を説明してくれた。アレムの母の肖像画が紛失した件については犯人の使用人は解雇済みだが、プランド教の信者である可能性が高いこと、先日の教会前での襲撃事件はプランド教との関連を決定する証拠集めをしていることを教えてくれた。いずれもプランド教が関与しているため、厳しい捜査を行っている。襲撃事件は新聞記事に載ってしまったため世間に広まったが、アレムの奮闘の目撃証言が数多く寄せられ、アレムへの同情と賞賛の声が集まっているそうだ。
 マクレーニー博士の元にもこのニュースは届いていたらしい。自分のことが世間に広く知られていることにアレムは戸惑った。実際の自分は何の教養もない汚れた人間なのにと、皆を騙しているような気持ちになってしまった。
 するとマクレーニー博士が一冊の分厚いボロボロのノートを取り出し、ウィルエルに手渡した。
「よかったらこれをもらって頂けませんか」
 ウィルエルが柔らかい皮の表紙を捲ると、ハッとした顔で中を見つめ、アレムヘ見せてくれた。それは手書きのカガニア語辞典だった。びっしりと言葉が埋め尽くされている。
「かなり古く汚いですし、個人的に使っていたものなのでお渡しするのは悩みましたが……。お二人に会って、私がこのまま持っているよりお渡しした方がいいと思いました」
 博士はネイバリー語で話した後、カガニア語でもアレムに説明してくれた。そしてアレムの目を見てカガニア語で語りかけた。
「アレム様、その辞書がお役に立てば幸いです。けれど、一番大切なのは伝えようとする心です。どんなに言語を勉強しても心がなければ通じ合えない。心は時に言葉の壁を超えます。どうか諦めないで頂きたい」
 そして博士はアレムの手を握った。博士の目は年老いて少し濁っているが、緑の瞳の奥に爛と輝く光があった。
「あなたには、幸せになる権利があるのです」
 アレムが呆然としている内にウィルエルが従者達を呼び戻した。部屋は再び騒がしくなり、皆が楽しそうに談笑していた。アレムは何か聞かれれば答えていたが、頭の中ではずっと博士に言われたことを考えていていた。アレムはこれまで自分の幸せな未来など思い描いた事が無かった。もしかして努力すれば手に入るのだろうか、そもそも、自分はどうなりたいのか……。自問自答するが答えは出なかった。
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