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プロローグ

1 出航

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 海の向こうに行けば、今よりマシな生活になるだろうか――。
 アレム・シャミーレは船の甲板から水平線を見つめていた。周囲には陸地どころか船ひとつ見当たらない。海面は穏やかに凪いでいるが、強烈な日差しで海の果ては揺らめいていた。祖国のカガニアを出て五日経ったが、目的地のネイバリーまではあと二十日かかる。ネイバリーが手配した船は、アレムと船員達合わせて二十名ほどを乗せて航海している。この人数を乗せるには十分すぎるほど立派な船だ。カガニアの港にやって来たこの船は、国内で一番大きな貨物船とそう変わらない大きさだった。たかだか婚約者候補の一人を迎えに来るのにこんなに立派な船を寄越すとは、やはりネイバリーはカガニアとは国の規模が桁違いである。アレムは改めて船全体を見渡した。船員の一人と目が合うと、アレムを見つめていたらしいその人物は慌てて作業に戻って行った。
 ひとつに括ったアレムの長い髪が海風に靡く。紫がかった銀色の髪は水面のようにキラキラと陽光を反射していた。褐色の肌はカガニア人特有のものだが、アレムの輝く髪色と紫の瞳は国内でも珍しい。黒いまつ毛にくっきりと囲われた少し釣り気味の目はとても印象的で、アレムと目が合ったものは思わず目を逸らすことが多かった。もっとも、カガニアでアレムと目を合わせる者はほとんどいないのだが――。
「まったく、どうせ働かないんだから、部屋にいればいいものを!」
 背後から飛んできた不快な声がアレムの耳に刺さる。振り返ると通訳として付いてきた小太りの中年男性がアレムを睨みつけていた。彼の名はジャドと言い、毎日飽きもせずアレムに愚痴を浴びせてくる。まだ昼間だと言うのに、ジャドは瓶を片手に酒を煽っていた。既に相当呑んだのか、鼻は真っ赤で目は充血している。
「まったく……。王子の端くれと言ったって、母親は身分が低いし、その母親は死んだっていうのに働きもせずいつまでも城に居座って、世間知らずの王子様が羨ましいよ!」
 アレムは表情ひとつ変えずにジャドを横目で見た。
 アレムの母アミナは踊り子だった。その美しさを見そめられ、十八歳の頃に三十も年上の国王と結婚し、アミナは第四王妃となった。財産目当てと騒がれ、身分が低いため他の王妃からは蔑まれた。アレムを産んで数年後、彼女は病に倒れ若くしてこの世を去った。残されたアレムの周囲に味方はいなかった。そのため王宮内でアレムは息を潜めて生活していた。国王だけはアレムを可愛がっていたため、王宮から追い出されることは無かった。しかしアレムは父親である国王が好きでは無かったし、居心地の悪い王宮から逃げ出したかった。王宮内でアレムを見つけた者は見なかったふりをするか、罵詈雑言を浴びせてくるかのどちらかだった。
 通訳のジャドは口から泡を飛ばしながらまだアレムの悪口を言っている。アレムはこういうときの対処法を心得ていた。
 目を閉じるように、心を閉じるのだ。
 心に黒い布を被せるイメージをして、相手の方を向いたまま少し焦点をずらす。すると相手の声がただの『音』になる。キーキー、ザーザー。何を言われても『音』なのでそこに意味など無い。アレムの心には届かない。男の言葉をアレムはこうして聞き流した。
 この船の船員は全員ネイバリー人で、カガニア語が分かるのはアレムとジャドの二人しかいない。それをいいことにジャドはカガニア語で言いたい放題言っているのだ。ジャドが出す『騒音』が一息ついたタイミングで、アレムはジャドに背を向け部屋に向かった。「せめて今回の役目くらいはきちんと務めて国の役に立つんだな!」と後ろでジャドが叫んでいた。部屋に戻るとベッドの奥の丸い窓から海を眺め、国を出ることになった経緯を思い出していた。

 航海に出る数週間前のこと、アレムは大臣に呼び出された。アレムが呼び出されるのは国王から顔が見たいと言われたときくらいしか無く、王族の会議もパーティも、一度も声がかかったことが無い。それが大臣から突然の呼び出し……? こんなことは初めてで、アレムはどうせよくない話だろうと思いつつ大臣の執務室へ足を踏み入れた。そこには大臣と秘書の二人が待っていた。大臣はアレムが入ってくると書類を書いていた手を止め立ち上がった。彼はジロリと飛び出した目でアレムを見つめ、口髭に手を当てた。
「単刀直入に言うが、ネイバリー国の王子に嫁いでこい」
 アレムは耳を疑った。
「は……? 王子……? 嫁ぐ……!?」
 大臣はアレムの混乱をよそに話をつづける。
「ネイバリーの第三王子が男の婚約者を探しているそうだ。何でも大変な遊び人で手をつけられないから早々に男と結婚させようとしているらしい。ネイバリーは婚外子に王位継承権は無いからな」
 必死に大臣の言葉を噛み砕くと、おそらくネイバリーに貞操観念の低い王子が居て、ネイバリー国としてはあちこちで子どもを作られることを危惧している。そこで子どもが出来ないよう、万一よそで作ったとしても相続出来ないよう、男と結婚させようとしているということか――。
 アレムはあんぐりと口を開いた。同性婚はカガニアでも稀に見るが、王族が同性婚と言うのは聞いたことがない。海外では一般的なのだろうか? 
「カガニアの資源を守るため、ネイバリーの力を借りたいという我が国の意向だ。国の使命として必ず婚約者の地位を手に入れてこい」
 アレムは黙って話を聞いていた。資源、というのはおそらく昨年カガニア近海で発見された海底鉱石のことだろう。この鉱石は熱や光を取り出せることから世界中で発掘が進められている。カガニアは海に浮かぶ小国である。一番近い大陸まで船で二十日はかかる。閉鎖的な国柄であり、他国との貿易などの交流はほとんど無い。輸出できるほどの資源が無いカガニアに積極的に介入しようという国はこれまで特にいなかった。しかし海底鉱石の発見により、孤立していたカガニアという島国に強国達が目の色を変えて近づいて来るようになった。カガニアから北西に二十日航海して辿り着くアイワン国と、反対側の北東へ二十五日航海して辿り着くネイバリー国は世界一・二を争う大国で度々衝突を繰り返している。小さな島国が生き残るにはどちらかに与するのが確かに得策だろう。タイミングよく婚約者探しの話が舞い込み、カガニアはそれに飛びついたということか。
「まぁ、お前にピッタリの役目だと思うぞ。このままここにいたってお前に将来は無いし、見た目くらいしか取り柄が無いからな」
 大臣は口髭をなぞりながらアレムを下から上まで舐めるように眺めた。
 不躾な目線に不快感を露わにしないようアレムは視線を逸らした。自分に拒否権がないことは明らかだった。しかし大臣が言うように、このまま一生カガニア王宮の亡霊のように生きるよりはいいのかもしれない。カガニアにとってはアレム以上の適任はいないだろう。体よく王宮から追い出し、更にはネイバリーの支援を期待できるのだから。
「……分かりました」
 大臣はアレムの返事に満足気に頷いた。

 こうしてアレムは異国の王子の元へ婚約者候補として赴くことになったのだった。
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