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第16章
1 賭け②
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しばらくして戻ってきた優子さんと、いつもの隅田川の階段のところに移動した。
白い雲が覆い尽くしている空に雨の気配はなく、明るさは十分にあるものの、頭の上に覆い被さる首都高の重苦しさも相俟ってか、どこか閉塞的な空気が漂っている。
湿っぽい風が抜けていく川沿いの階段を、優子さんについて一番下まで降りていき、テラスの淵までやって来た。
濁った川面は、白い空のせいで一段と透明度を下げている。
なんとなく二人とも防護柵に手をかけて、しばらくの間無言で川を眺めていた。
向こう岸では相変わらず、水上バスを待つ観光客がぎゅうぎゅうにひしめき合っている。
「この間は本当にごめん」
俺は優子さんの横顔を伺いながら、話を切り出した。
「あとこうして会いに来るのが遅くなってしまったことも……。正直、俺もあの後すぐには優子さんと向き合える気持ちになれなくて。……いや本当に正直に言うと、しばらくは拗ねてたってのが大きいんだけど。優子さんからは何も連絡がないし、本当に俺がいなくなっても平気なんだなって思うと、なんか悲しいし悔しいしで……」
別れたくない気持ちがあるなら優子さんから連絡してくれればいいって、思ってしまっていた。
「でも、何日か経って改めて思い返してみたら、あの流れだと優子さんから連絡するの難し過ぎない? って気づいて……。俺から動かないとダメな気がして、でもただ謝っても意味がない気がして、もう一度、どうして喧嘩になったのか検証してみようって思った。それで、思い出せる限り優子さんの言葉を書き出してみて、考えていたら、"あ、俺全然わかってなかったし、すげー悪かったじゃん"って気づいて」
「亮弥くんは何も悪くないよ」
優子さんは力のない声でつぶやく。
「いやまず、感情的になって、優子さんの話まともに聞かずに声を荒げた時点でもう、俺が完全に悪い。その後置き去りにしたのも最悪だし。それに、信じてもらえなくても良いって前提でつき合い始めたのに、いつの間にか当然信頼してもらえてるものと思ってしまったのも間違ってた。本当にごめんなさい」
俺は優子さんの方に体ごと向いて頭を下げた。
顔を上げると、優子さんは悲しそうな目で俺を見つめ、
「ううん、それが当たり前で、亮弥くんは何も悪くないよ。それに応えられない私側の問題だってことは、よくわかってる」
「いやいや、それは全然違くて」
俺は慌てて手を振った。
「俺、どうしてあんなに感情的になってしまったのか、改めて分析してみたんだけど、優子さんに信じてもらえてないってことは、実際のところ、問題じゃなかったの。そのことに傷ついたんじゃなく……、俺が辛いと思ったのは、一つだけ」
本当に、ただ一点だけで。
「優子さんに俺を手放す気持ちがあるっていう、それだけが、本当に辛くて……」
「亮弥くん……」
「でもそれが、俺への愛情だっていうことも、だからこそどう変えようもないことも、あの時は全くわかってなかったけど、今はよくわかってる。優子さんは俺を手放そうとしてるんじゃなく、俺の気持ち次第で身を引くつもりでいるってだけなことも。……でもね、それでもやっぱり俺は辛い。別れを想定できてしまう時点で、結局必要とされていないんじゃないかって気持ちが拭い去れない。だからこそ、そこへの解決策が見つからない限りは、無責任に優子さんに連絡できなくて……。俺は優子さんみたいに頭が良くないから、なかなか答えが見つからなくて、結論を出すのにすごく時間が掛かっちゃったんだけど」
俺はまた対岸の方へ向き直した。
まだしがみつこうとしている俺を憐れんでいるかのような、優子さんの悲しそうな顔を見ていると、決心が鈍りそうだった。
「……さらに言うと、なんとか結論を出しはしたものの、あまりに日が経ち過ぎてたから、もう待ってくれてないかもしれない。連絡しても返事をもらえないかもしれない。そしたら二度と会えないまま終わってしまうんじゃないかって不安になって……。どうしても顔を見て話がしたかったから、なんとかどこかで優子さんを直接捕まえられないかなって考えてたら、姉ちゃんから優子さんの退職の話を聞いて。その日だったら姉ちゃん経由で退勤時間を把握できるだろうし、人目にもつきにくいかもしれないと思って。それで今日まで待つ感じになって、余計遅くなりました……」
「……愛美ちゃん、私達がこんな状態だって知ってたの?」
「いや、そこは一応、サプライズで迎えに行きたいからって言ってごまかしました……」
「そっか」
「そのほうがややこしくないと思って」
「うん、ありがとう……」
「それで、本題なんだけど」
「……うん」
優子さんは水面に視線を落とす。
俺は軽く深呼吸をして、気合いを入れ直した。
「優子さんが、俺がいつか子供が欲しくなって優子さんと離れようとするかもしれない、って思ってるとしたら、現実にそれが起こらないって証明できれば問題なくなるわけじゃん。じゃあそれができるのはいつなんだろうって考えたんだけどさ、それって、俺が子供作れなくなる時まで来なくね? それって何十年後? 男っていくつになったら子供作れる可能性なくなるの?? って思ったわけ。その時が来ない限り、優子さんが俺を認めてくれないんだとしたら、俺達の関係ってどこまで行っても進展しなくない? って。気持ちはこんなにはっきりしてるのに、それを理解してもらえないままなんだとしたら、俺達いつまで距離を保って生きていかないといけないの? はっきり言って、俺はそんなの耐えられない」
「そうだよね……」
「でも、そもそも現時点では子供が欲しいなんて思ってないし、そんなの問題にならないくらい俺は優子さんを好きだし、大切だし、優子さんも同じ気持ちでいてくれてるって、俺は思ってる」
「……それは」
俺は返事を遮って優子さんの手を掴み上げた。
ここで「もう気持ちがない」なんて言わせるわけにはいかない。
優子さんは言葉を止め、驚いた目で俺を見上げる。
相変わらずの華奢で細い指。
俺は持っていたクラッチバッグを地面に手放して、両手でその手を包んだ。
祈るような気持ちで優子さんの瞳を見つめながら、賭けに出る。
「俺のこと信じてくれなくて良いよ。疑ってても良い。いつか手放すつもりでいたって構わない。でもその代わり、優子さん――すぐにでも俺と結婚して?」
俺を見つめる瞳が大きく見開く。
包まれた手は次第に力をなくし、重みが加わっていく。
俺はその手を、しっかりと握りしめて続けた。
「俺はずっと……今も、本当に、優子さんのことだけが大好きで……、この先どんなことがあっても、優子さんと一緒に生きていきたいし、他にどんな素晴らしいものが手に入るとしても、そこに優子さんがいないんじゃ俺には何の価値もない。将来のことはわからないかもしれない、でも、それを考えてこの先何年も無駄にしてしまうくらいなら、気持ちがはっきりしている今をまず二人で生きようよ。優子さんが別れる覚悟をしてようが、結婚さえしていてくれるなら俺は全然平気だし、当然その考えを取り除けるように努力もしていく。なんならこの際別居婚でもいいし、優子さんが心地良いように全部決めてくれて良い。全部譲歩する。その代わりたった一つだけ。俺は優子さんに選んでもらえたっていう実感が欲しい。優子さんに、俺が選ぶのは優子さんだけなんだって知ってほしい。それさえ叶えば俺は十分だから。だから――お願い、俺と、結婚してください」
縋るような思いで伝え終えた時だった。
優子さんは、悲しそうに、今にも泣きそうに表情を歪める。
反射的に不安がよぎった俺の前で、
「ごめんなさい……っ」
苦しそうな声で言いながら、思い切り頭を下げた。
優子さんの手に引っ張られて俺の両手も下がる。
その瞬間、内臓がひんやりと体温をなくすのがわかった。
白い雲が覆い尽くしている空に雨の気配はなく、明るさは十分にあるものの、頭の上に覆い被さる首都高の重苦しさも相俟ってか、どこか閉塞的な空気が漂っている。
湿っぽい風が抜けていく川沿いの階段を、優子さんについて一番下まで降りていき、テラスの淵までやって来た。
濁った川面は、白い空のせいで一段と透明度を下げている。
なんとなく二人とも防護柵に手をかけて、しばらくの間無言で川を眺めていた。
向こう岸では相変わらず、水上バスを待つ観光客がぎゅうぎゅうにひしめき合っている。
「この間は本当にごめん」
俺は優子さんの横顔を伺いながら、話を切り出した。
「あとこうして会いに来るのが遅くなってしまったことも……。正直、俺もあの後すぐには優子さんと向き合える気持ちになれなくて。……いや本当に正直に言うと、しばらくは拗ねてたってのが大きいんだけど。優子さんからは何も連絡がないし、本当に俺がいなくなっても平気なんだなって思うと、なんか悲しいし悔しいしで……」
別れたくない気持ちがあるなら優子さんから連絡してくれればいいって、思ってしまっていた。
「でも、何日か経って改めて思い返してみたら、あの流れだと優子さんから連絡するの難し過ぎない? って気づいて……。俺から動かないとダメな気がして、でもただ謝っても意味がない気がして、もう一度、どうして喧嘩になったのか検証してみようって思った。それで、思い出せる限り優子さんの言葉を書き出してみて、考えていたら、"あ、俺全然わかってなかったし、すげー悪かったじゃん"って気づいて」
「亮弥くんは何も悪くないよ」
優子さんは力のない声でつぶやく。
「いやまず、感情的になって、優子さんの話まともに聞かずに声を荒げた時点でもう、俺が完全に悪い。その後置き去りにしたのも最悪だし。それに、信じてもらえなくても良いって前提でつき合い始めたのに、いつの間にか当然信頼してもらえてるものと思ってしまったのも間違ってた。本当にごめんなさい」
俺は優子さんの方に体ごと向いて頭を下げた。
顔を上げると、優子さんは悲しそうな目で俺を見つめ、
「ううん、それが当たり前で、亮弥くんは何も悪くないよ。それに応えられない私側の問題だってことは、よくわかってる」
「いやいや、それは全然違くて」
俺は慌てて手を振った。
「俺、どうしてあんなに感情的になってしまったのか、改めて分析してみたんだけど、優子さんに信じてもらえてないってことは、実際のところ、問題じゃなかったの。そのことに傷ついたんじゃなく……、俺が辛いと思ったのは、一つだけ」
本当に、ただ一点だけで。
「優子さんに俺を手放す気持ちがあるっていう、それだけが、本当に辛くて……」
「亮弥くん……」
「でもそれが、俺への愛情だっていうことも、だからこそどう変えようもないことも、あの時は全くわかってなかったけど、今はよくわかってる。優子さんは俺を手放そうとしてるんじゃなく、俺の気持ち次第で身を引くつもりでいるってだけなことも。……でもね、それでもやっぱり俺は辛い。別れを想定できてしまう時点で、結局必要とされていないんじゃないかって気持ちが拭い去れない。だからこそ、そこへの解決策が見つからない限りは、無責任に優子さんに連絡できなくて……。俺は優子さんみたいに頭が良くないから、なかなか答えが見つからなくて、結論を出すのにすごく時間が掛かっちゃったんだけど」
俺はまた対岸の方へ向き直した。
まだしがみつこうとしている俺を憐れんでいるかのような、優子さんの悲しそうな顔を見ていると、決心が鈍りそうだった。
「……さらに言うと、なんとか結論を出しはしたものの、あまりに日が経ち過ぎてたから、もう待ってくれてないかもしれない。連絡しても返事をもらえないかもしれない。そしたら二度と会えないまま終わってしまうんじゃないかって不安になって……。どうしても顔を見て話がしたかったから、なんとかどこかで優子さんを直接捕まえられないかなって考えてたら、姉ちゃんから優子さんの退職の話を聞いて。その日だったら姉ちゃん経由で退勤時間を把握できるだろうし、人目にもつきにくいかもしれないと思って。それで今日まで待つ感じになって、余計遅くなりました……」
「……愛美ちゃん、私達がこんな状態だって知ってたの?」
「いや、そこは一応、サプライズで迎えに行きたいからって言ってごまかしました……」
「そっか」
「そのほうがややこしくないと思って」
「うん、ありがとう……」
「それで、本題なんだけど」
「……うん」
優子さんは水面に視線を落とす。
俺は軽く深呼吸をして、気合いを入れ直した。
「優子さんが、俺がいつか子供が欲しくなって優子さんと離れようとするかもしれない、って思ってるとしたら、現実にそれが起こらないって証明できれば問題なくなるわけじゃん。じゃあそれができるのはいつなんだろうって考えたんだけどさ、それって、俺が子供作れなくなる時まで来なくね? それって何十年後? 男っていくつになったら子供作れる可能性なくなるの?? って思ったわけ。その時が来ない限り、優子さんが俺を認めてくれないんだとしたら、俺達の関係ってどこまで行っても進展しなくない? って。気持ちはこんなにはっきりしてるのに、それを理解してもらえないままなんだとしたら、俺達いつまで距離を保って生きていかないといけないの? はっきり言って、俺はそんなの耐えられない」
「そうだよね……」
「でも、そもそも現時点では子供が欲しいなんて思ってないし、そんなの問題にならないくらい俺は優子さんを好きだし、大切だし、優子さんも同じ気持ちでいてくれてるって、俺は思ってる」
「……それは」
俺は返事を遮って優子さんの手を掴み上げた。
ここで「もう気持ちがない」なんて言わせるわけにはいかない。
優子さんは言葉を止め、驚いた目で俺を見上げる。
相変わらずの華奢で細い指。
俺は持っていたクラッチバッグを地面に手放して、両手でその手を包んだ。
祈るような気持ちで優子さんの瞳を見つめながら、賭けに出る。
「俺のこと信じてくれなくて良いよ。疑ってても良い。いつか手放すつもりでいたって構わない。でもその代わり、優子さん――すぐにでも俺と結婚して?」
俺を見つめる瞳が大きく見開く。
包まれた手は次第に力をなくし、重みが加わっていく。
俺はその手を、しっかりと握りしめて続けた。
「俺はずっと……今も、本当に、優子さんのことだけが大好きで……、この先どんなことがあっても、優子さんと一緒に生きていきたいし、他にどんな素晴らしいものが手に入るとしても、そこに優子さんがいないんじゃ俺には何の価値もない。将来のことはわからないかもしれない、でも、それを考えてこの先何年も無駄にしてしまうくらいなら、気持ちがはっきりしている今をまず二人で生きようよ。優子さんが別れる覚悟をしてようが、結婚さえしていてくれるなら俺は全然平気だし、当然その考えを取り除けるように努力もしていく。なんならこの際別居婚でもいいし、優子さんが心地良いように全部決めてくれて良い。全部譲歩する。その代わりたった一つだけ。俺は優子さんに選んでもらえたっていう実感が欲しい。優子さんに、俺が選ぶのは優子さんだけなんだって知ってほしい。それさえ叶えば俺は十分だから。だから――お願い、俺と、結婚してください」
縋るような思いで伝え終えた時だった。
優子さんは、悲しそうに、今にも泣きそうに表情を歪める。
反射的に不安がよぎった俺の前で、
「ごめんなさい……っ」
苦しそうな声で言いながら、思い切り頭を下げた。
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