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第15章

それからの日々①

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 スマホのアラームがいつもどおりのつまらないメロディで朝を知らせる。
 抵抗する瞼を無理やり開けると、カーテンが朝日を透かして部屋をぼんやりと照らしていた。
 アラームを止めようとスマホを掴む。
 途端に目に入った通知欄の空虚さに、今日もまた現実を突きつけられた。
 あれから三日が過ぎたけど、亮弥くんから連絡はない。

 悪いのは私だということは重々わかっている。
 本来なら私から連絡して謝るべきなのだ。
 でも、謝ったところでそもそもの考えが変わらないのなら、亮弥くんを苦しめ続けるだけになってしまう。
 この前の話を聞いて、受け入れられないと亮弥くんが感じたのなら、このまま幕を引くのがきっと正解なのだろう。
 私にできるのは、亮弥くんの結論を待つことだけだ。
 それすらもう、来ないのかもしれないけれど。

 こんな状況になってしまったことを、私は至極冷静に受け止めていた。
 亮弥くんのことが大好きで、大切で、手放したくないと思っていた。
 なのに、こうしていざ離れてしまったらやっぱり、それはそれで仕方ないと思えてしまっている自分がいる。
 口先の強がりではなく、心の底からこういう人間であるという事実。
 それが亮弥くんを傷つけた。

 俺のことも博愛で見てるの、という亮弥くんの言葉が未だに胸をえぐる。
 そんなつもりはなかった。
 でも、そう言われるとわからなくなった。

 大切に思う。
 できる限り気持ちに寄り添って理解したいと思う。
 幸せでいてほしいと願う。
 辛いことが少なければいいと願う。
 苦しみを取り除いてあげたいと思う。

 それはきっと、誰もが好きな人に対して持っている気持ちなのではないだろうか?
 私はその対象範囲が、普通よりちょっと広いだけだ。
 むしろ亮弥くんに対しては、他の誰に対するよりも深い愛情を持っているからこそ、自分が幸せを阻害する立場になってしまったら離れるしかない、という結論になる。
 それでも亮弥くんには、この気持ちは恋愛感情とは別物に映り、恋人として何か欠けていると感じられたのだろう。

 それを不思議に思うほど鈍感ではない。
 わかっている。亮弥くんは何も間違ってない。
 私がおかしいのだ。
 もっと言えば博愛なんて関係なくて、「亮弥くんはこの先もずっと私を愛し続けてくれる」――ただそれだけのことが信じられない、私の冷めきった心の問題だ。
 だからこそ、どうすることもできない。

 そんなことを考えながらも、体はルーティンどおりに動いて順調に出勤準備を終え、私はスーツのジャケットを羽織って通勤バッグを手に取った。
 土曜日には準備済みだった退職願が、バッグの中で数日間眠ったままになっている。
 この部屋で亮弥くんに話を聞いてもらってから、もう一度ビジョンを練り直した。
 東京で――亮弥くんの側でやっていく方向で、ずいぶん軌道修正した。
 そのおかげで、自分が目指している方向がより明確になって、いい感触が掴めていた。
 だから退職願を書いた。
 あとは泊さんに渡すだけだった。
 でも――。

 このまま亮弥くんとの縁が終わってしまったとして、私は東京で、新しいビジョン通りにやっていけるのだろうか?
 一人でも踏み出すことができるのだろうか?
 そこを不安に思う気持ちがあって、ためらってしまった。

 ――だけど。

 せっかく亮弥くんに背中を押してもらって、自分が本当に望む道へ踏み出す準備ができたのに、結局あきらめて元の生活に戻ってしまったら、二人で過ごした時間さえ無意味に終わってしまうんじゃないだろうか。
 元々、一人のままでも「いつかは」と思ってきたことだ。
 だから私は進む。
 亮弥くんがいなくても。
 
「何ソレ……」
 始業早々に差し出された退職願を見て、泊さんは困惑した様子で固まってしまった。
 封筒を受け取ろうともせず、ただただ私の手元を見下ろしている。
「すみません。よく考えた結果なんです」
「いや、だって……。片瀬ちゃん、諦めるって」
「はい。……なのでこれは、諦めた結果です」
「そんな……」
 泊さんのショックそうな顔を見て、私は胸が痛んだ。
 私を認めてくれていた唯一の人を裏切ってしまったことを、思い知らされるようだった。
「もう転職先決まってるの?」
「いえ、辞めてからのんびり探そうかなと」
「それなら考え直せない? 片瀬ちゃんいなくなると、俺も社長も困るし……」
 そう言われて、少しだけ決心が鈍りそうになった。
 亮弥くんが戻らなければ、私を必要としてくれる場所はもうここだけしかない。
 ここを失ったら、私には本当に何もなくなってしまう。

 でも、ここに留まることが私の望む生き方なのだろうか?
 それが"NO"だということは、もうずっと前からわかっている。
「泊さん、ごめんなさい。もう決めたんです。今まで本当に、お世話になりました」
 頭を下げると、少しの間の後で、封筒が泊さんの手に渡っていった。

 それから人事部に話が行って、社長の耳に入ったのは一日の予定が全て終わった夕方だった。
 私は社長に呼ばれて、社長室へと入っていった。
「聞いたよ、辞めちゃうんだって?」
「すみません……」
 応接台に促されたので、私は社長と向き合ってソファに座った。
「やっぱりここの仕事が嫌だったの?」
「いえ、嫌ではないんです。ただ……もっとできることがあるんじゃないかと思って……」
「前向きな退職なんだね」
「そうです。本当に、そのとおりです」
「まあ、片瀬さんは頭のいい人だから、それを望んでいるのであれば、きっとそのほうがいいんだろうね。僕としては残念だけど……」
「申し訳ありません」
「それで、いつまでなの?」
「はい、それが、退職日自体は七月末なんですけど、中野さんに調べてもらったら、有給休暇の残日数がけっこうあって、実質もう十日くらいしか出勤できないみたいで」
「えっ、そんなに少ないの?」
「申し訳ないです……。でも、引継に関しては資料も作ってあるので、新しい人が決まれば三日もあれば十分かと……最悪電話でのサポートでも大丈夫だと思います」
「そうか……」
 社長はソファの背にもたれて腕を組み、「いや、残念だな……」ともう一度漏らした。
「僕はね、君の実力を買っていたんだよ。いつも心地よく仕事ができる環境を作ってくれて、本当によく気が回るし、笑顔も良いしね。周りの人たちもね、君を信頼していたようだから。……ハハ、僕がね、"泊くんに聞いてみて"って言っても、"じゃあ片瀬さんに相談してみます"って返す人が多くてね。皆の信頼があるのは泊じゃなくて片瀬さんなんだなって思ってたんだよ」
「そうなんですか……」
 思いがけないことを言われて、私は複雑な気持ちになった。
「その辺りもね、僕はとても評価していて、僕の秘書として必要だと思ってきたし、頼りにしてた。でも、そうか……。いや、残念だな」

 胸が痛む。
 社長からそんな言葉が聞けるとは思っていなかったし、そんな風に見てくれてるとも思ってなかった。
 嬉しくて、泣きそうだった。
 反面、どうしてそれをもっと早く伝えてくれなかったんだろうと、悔しい気持ちにもなった。
 今更そんな風に言われても、長年の空虚な気持ちは埋まらない。
 もどかしいまま積み重ねてしまった時間は取り消せない。
 決心が固まってからでは、もう遅い。

「もう本当に、思い留まることはできないの?」
「申し訳ありません。そう言っていただけて、とても嬉しいんですけど……」
「そうか。いや、以前から異動を希望していることは聞いてたけどね。僕としては手放すのが惜しかったし、泊くんもどうしても君にいてほしいって言うから……」
「――え?」
 頭が理解するより先に、鳩尾辺りがズンと痛んだ。
「どういうことですか? 泊さんが……?」
「泊くんも君をかなり頼ってたからね。あいつはおっちょこちょいなとこあるから、君がよくフォローしてくれてたでしょ? 異動を諦めてもらえるならそのほうが助かるっていうのが、僕と泊くんの共通認識だったから……」
 社長の口調からは、おかしなことを言っているという認識が全く感じられない。

 どういうこと?
 泊さんは、私を秘書に留めるように社長に進言していた――?
 そんな――。

 社長の帰りを見送って、秘書室に戻ったけど、泊さんの顔を見られなかった。
「社長なんて言ってた?」と声を掛けられて、なんて返したか覚えてない。
 何も思い出せない。
 自宅に帰り着いて、電気もつけずに部屋の真ん中まで来ると、私の膝はカクンと折れた。
 視界が降下して、床が近づくとともに衝撃が響く。
 その途端、一斉に涙がこぼれだした。

 泊さんは私を応援していなかった。
 私の異動に協力してくれていなかった。
 それどころか、異動できないようにし向けていた。
 何年も何年も、泊さんの言葉を疑ったことなんて一度もなかった。
 懺悔されるたびに心を傷めてきた私は、いったい何だったのだろう。
 裏切られていたのは私のほうだったんだ。
 悔しくて苦しくて、私は声を上げて泣いた。
 だから人間が嫌いなんだ。
 平気で嘘をついて騙して、人の心はどうしてこんなにも醜いんだろう。
 なんでこんなに傷つけられないといけないんだろう。
 もう本当に、何もかもが嫌だ。
 
 やがて頭に冷静さが戻って、泣き声は次第に弱まりただの呼吸へと変わっていった。
 涙も止まって、大きくひと呼吸ついて、こんなことで泣いても仕方ないと顔を上げた。

 その瞬間――。

 亮弥くんの優しい微笑みが脳裏に浮かんだ。
 私の良い部分にもダメな部分にも寄り添って味方でいてくれた、世界中にただ一人の存在。
 それが今はもうないことを思って、私はさらに泣いた。
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