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第14章

青山家にて⑥

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 優子さんと二人になって経堂駅まで歩きながら、俺はなんとなく声を掛けられずにいた。
 さっきの言葉のショックをまだ拭うことができなくて、いつもどおりに繋いでくれる優子さんの手を握り返すことにすら、少しの怯えが伴った。

 無口な俺が気になったのか、優子さんはこちらを見上げて、
「大丈夫? 疲れちゃったかな?」
 と様子を伺った。
「うん、少し……」
 そう答えながら、わざわざ実家につき合ってもらったのにこんな態度じゃダメだ、と気力を叩き起こす。
「なんか、嫌な話題になってごめんね、優子さん」
 できるだけ普段どおりの声でそう切り出すと、
「ううん、子供のことは気になるだろうなって思ってたから」
「え、そうなの?」
「うん。だから全然気にしてないよ」
 そうか、優子さんは、最初からそのつもりで準備していたんだ。
 だとしたらあの言葉も、母親を安心させるためにわざと言ったのかもしれない。

 そうか、そうだよな。
 だって、俺は自分の気持ちを全部優子さんに伝えているし、子供を持つことより優子さんがいることのほうが大事だってことも、俺の方から離れるなんてことは絶対あり得ないことも、ちゃんとわかってくれているはず。
 それなのに"俺が子供が欲しいと言ったら"なんて、本気で想定するはずがない。

「それより、ご両親ともすごい美形でびっくりしちゃった」
「え、そう?」
「さすが亮弥くんのご両親だなぁって感じ。お母さん見とれちゃうくらい綺麗だったし……お父さんも優しそうで格好良かったなぁ」
「え、優子さん……お父さんに惚れたりしないでね」
 思わずそう言うと、
「亮弥くんまだそんな心配してるの?」
 と優子さんは呆れたように口を尖らせる。
 その顔が可愛くて、つい笑ってしまった。
 優子さんはいつもと変わりない。
 それに安心したから、さっきのことはスルーすることにした。

「この後どうしようか? どこかでお茶でも買ってお饅頭食べる?」
「あ、浅草まで送っていくよ。いつものところで食べよ」
 いつものところとは、あの隅田川の階段だ。
「ほんと? あっちまで来てくれるのなら、うちでお茶入れるよ」
「え、行って大丈夫?」
「五分くらい待っててくれれば」
「全然待つ」

 そうして、浅草へと地下鉄で進んでは来たものの、電車が優子さんの家に近づくにつれ、心が二の足を踏み始めた。
 さっきのモヤモヤした感情が再び胸の辺りに渦巻き始めている。
 ゴトゴトと響く電車の振動と鈍い走行音が、不穏さを増幅させていく。

 あの部屋にわだかまりを持ち込みたくない。
 あの部屋は、俺と優子さんがずっとずっと、お互いの距離を近づける時間を重ねてきた場所だ。
 いつも二人で幸せに過ごしてきた大切な場所。
 そこへ、少なからず優子さんに疑念を感じてしまっている今の俺が入るのは、これまで積み重ねたものを汚してしまうようで、どうにも気が進まなかった。

 電車到着のアナウンスがせわしなく続く浅草駅を出て、地上への階段を上りながら、俺は思い切って優子さんに確認しようと決心した。
 きっと、そんなに気にするようなことじゃないと教えてくれるはずだ。「ああ言ったほうが納得してもらいやすいと思ったの、不安にさせてごめんね」って、きっと言ってくれるはず。
 その言葉さえ聞ければ、このモヤモヤは一瞬で霧散するのだ。

「優子さん、あの……」
「うん?」
 地上に出て、数歩進んだところで立ち止まった。
 同じように駅から出てきた人や、方々から地下鉄を目指す人が、俺達の側を通り抜けていく。
 まだ街灯を灯していない吾妻橋の向こうには、ビルの上にある金色のオブジェが西日を受けて光り輝いている。

「子供の件で優子さんが母に話してたことなんだけど……。その、俺が子供を欲しいって言ったら別れるって言ってたのは……」
「ああ……、まあね、本当にそうなっちゃったら、私にはどうすることもできないし……」
「え?」
「亮弥くんの幸せを邪魔したくはないから、その時は遠慮しないで言ってくれていいからね」
「なに……それ……」
 俺は耳を疑った。
 優子さんは、いつもと変わらない顔で、何の悔しさも滲ませず、当たり前のように、まるでずっと前から決めていたかのように、平然とそんなことを口にした。

「何それ……それって、優子さんは、俺と別れるつもりでいるってこと……?」
 優子さんを直視できない。
 声が震えそうになるのを、喉に力を入れてなんとかこらえる。
「ううん、そうじゃなくて、もし亮弥くんがそういう気持ちになったら、私には引き留められないってこと」
「同じじゃん!」
 少し大きくなった声に、優子さんが驚いた目をする。
「俺……優子さんと別れるなんて考えたこともないし、ずっと一緒にいるつもりでいるよ? なのになんで優子さんはそんなこと考えるの? 優子さんは俺とダメになってもいいと思ってるの?」
「亮弥くん、亮弥くんはまだ若いから、今は恋愛感情だけで判断できるかもしれないけど、これから考えが変わる可能性もあるし、私といるのが苦痛になる時も来るかもしれない。もちろん、私は別れたくないよ。でも亮弥くんには、これからたくさんのものを得られる可能性が私よりずっとあるの。私はその芽を摘みたくない。可能性のある人を、可能性がない側が縛りつけてはいけないと思うの」

 俺は優子さんに対して、初めて怒りを感じた。
 怒りと困惑が、声に圧を加えていく。
「全然意味わかんない。なんでそんな気持ちになれるの? 別れたくないならなんで……なんでもっと我が儘に求めようとしないの? 好きだから離れないでって言ってくれないの? アッサリ諦められるなんておかしいよ! 優子さんは……優子さんは俺への気持ちも博愛で見てるの!?」
 感情に任せてぶつけると、優子さんは少しの間沈黙した。
 何か深く思考を巡らせるように目を伏せて、大きく息をついた後、
「……そうかもしれない。私は亮弥くんが大切だけど、だからこそ幸せでいてほしい。亮弥くんが私と離れることでより幸せになれるのなら、それでもいいと思ってる」
「何だよ……それ……っ」
「ごめんね、理解されないなら仕方ないと思う。でもね、亮弥くん。四十歳とつき合うってそういうことなの。二十代の若々しい熱量はもうない。恋愛感情よりも理性が先に働いてしまう。手放すことにも慣れてしまってる。自分の大切な人の気持ちさえ、本当の意味では信じ切ることができない。これが四十歳と――私と、つき合うってことなの」
 優子さんは真っすぐにこちらを見据えた。
 決して押しつけではなかった。
 ただ事実を述べただけ。
 どちらかというと、訴えだったのだろう。
 優子さん自身、そんな自分を嘆く思いがあるのだろうと俺は感じていた。

 ――それでも。
 足が勝手に動くのを止められなかった。
 俺は黙ったまま優子さんに背を向け、駅へと戻り始めた。
 わかっている。
 絶対にこんなことをしちゃいけない。
 優子さんを置き去りにしては絶対にいけないのだ。
 わかっているのに。

 思えば思うほど足取りは速くなるばかり。
 俺は地下鉄への階段を駆け下りた。
 優子さんが追いかけて来る気配はない。
 そのまま振り返らずに改札を抜けて、発車寸前の電車に飛び乗った。
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