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第12章
1 遭遇①
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「拓ちゃん、ちょっといい?」
月曜日の午前中、社長を会議に見送ってから手が空いたので、私は隣の役員秘書室に行って同僚の拓ちゃんをコッソリ呼び出した。
「どうしたんですか?」
部屋の外まで招き出して、周りに誰もいないことを確認してから、小声で切り出す。
「あのね、ちょっと相談というか、話したいことがあって……。会社じゃ話しにくいんだけど、今日帰りに少しだけ外で話す時間もらえないかな?」
「あー……、まあ今日は全員早くはける予定だから大丈夫だと思います」
「うちも多分十八時前には帰るから、早めに切り上げる。終わり次第虎ノ門駅待ち合わせでいい? 三十分くらいで済むと思う」
「わかりました。じゃ、喫茶店とかですよね」
「そうだね、私はごはん食べながらでもいいけど、お家で食べられた方がいいでしょ?」
「助かります」
そんなわけで拓ちゃんに時間を確保してもらった。
話とは、転職のことだ。
具体的に話が進む前に、考え方がフラットで事実をそのまま受け止めてくれるタイプ、かつ私が抜けたら確実に迷惑をかけるであろう立場の拓ちゃんにまず伝えておきたいと私は考えた。
それは、拓ちゃんなら自分の都合で物を言ったりせず、秘密を漏らしたりもせず、理解した上で私の離脱後に備えてくれるだろうという信頼があるからだ。
彼のような人はとても珍しいと思うし、一緒に仕事できなくなるのは残念でもある。
とはいえ、それ以上に強い気持ちで自分の人生を選択するからには、このくらいの損失は仕方のないことだ。
生きる場所を変えることは、慣れ親しんだ環境を手放すということ。惜しんでいる場合ではない。
夕方、社長が予定より早く帰ったので、私は先に会社を出た。
虎ノ門駅で拓ちゃんが来るのを待っていたら、十八時十五分頃に「今出ました」とメールが入った。
ほどなくして満員の地下鉄から吐き出されてきた拓ちゃんと合流。
私達は入り組んだ地下通路を抜けて、反対車線側の階段を上っていった。
「ごめんね、急がせちゃった?」
「いえ、こっちも予定どおり全員帰ってくれたので」
「いつもこうならいいのにね」
「本当に。自分の仕事が終わっても無駄に引きずられるので困ります」
「あはは、だよね。そこの先にあるコーヒーショップでいい? けっこうゆったりしてて好きなんだ」
「どうぞ、お任せします」
階段を上りきり、地上の大通り沿いに出る。
まだ日が沈む前。
絶え間ない車の音と、どこか活気のある仕事帰りのサラリーマン達の声。
週が明けたばかりの月曜日でも、元気に飲み屋に繰り出す人は多い。
「青山さん、ごはん食べて帰りましょうよぉ~」
ふと、そんな声が耳に入る。
青山という名字が珍しいなと思い、私は反射的にそちらを振り返った。
「いいじゃないですかぁ~」
ゆるふわボブのキュートな顔立ちで、レースブラウスにハイウエストワイドパンツというファッションの、妙に甘ったるい声のその女の子は、隣にいる男性の腕を両手で掴み、引っ張る。
その腕の先にある相手の顔を見て、私は頭を殴られたような衝撃を感じて足を止めた。
――え?
「どうしました?」
拓ちゃんが尋ねる声は、私の外を素通りしていく。
亮弥くんが女の子と歩いている。
腕を掴まれて。
「ちょっと、離してくだ……」
その時亮弥くんの両眼が私を捉えた。
交差した視線に電流が走る。
ハッとした顔になって立ち止まると、隣の子もつられて足を止めた。
「優子さん……」
心臓がドクドクと音を立てる。
ゾワゾワと得体のしれない何かが鳩尾あたりを這い回る。
「片瀬さんのお知り合いですか?」
拓ちゃんの声に、はっと我に返る。
私は頭を秘書モードに切り替えて、冷静な心で表情を緩めた。
「うん、そうなの。愛美ちゃんの弟さん」
「ああー。そう言われると似てますね」
「優子さん、あの……」
亮弥くんが、弁解しようと一歩踏み出す。
「え~、青山さんってお姉さんいるんだぁ」
女の子の声に再びハッとした亮弥くんは、腕を掴んだままだった手を迷惑そうに押しのけた。
「マジでやめてください。とにかく俺、会社に戻るんで。お疲れ様でした」
そう言ってから私達のほうを向き、
「見苦しい所をお見せしてすみません。失礼します」
と苦々しい顔で頭を下げて、彼女を置き去りにしたまま歩いていってしまった。
彼女には申し訳ないけど、亮弥くんの冷たい対応を見て安心している自分がいた。
あの腕に他の女性の手が絡まっていることに激しい嫌悪感を覚えた本物の自分の心が、すうっと鎮まっていく。
「青山さんって女嫌いなのかなぁ~。誘ってもお茶にもつき合ってくれなくてぇ」
彼女は質問するともなくそう呟くと、拗ねた感じで踵を返して信号を渡っていった。
そうなのか。と、私は少し顔が緩んでしまった。
亮弥くん、女の子の誘いに乗らないんだ。
嬉しい。
よかった、何もなくて。
「なんか、変なとこに遭遇してしまいましたね。何もしてないのに悪いことした気分」
「ほんとだね。……拓ちゃんごめん、ちょっとだけ電話してもいい?」
亮弥くんはきっと今、私に誤解されていないかと気が気じゃないだろう。
それに、異性とのツーショットを見てしまったのは私だけではない。
「どうぞ。今の彼にですか?」
「うん。……あのね、愛美ちゃんの弟さん、実は私の恋人なんです……」
「えっ!」
拓ちゃんは珍しく目を見開いて驚いた。
「年甲斐もなくすみません」
「いえ、それは全然。でもそれじゃ今のアレ、お互いにマズイもの見ちゃった感じですよね」
「申し訳ない」
「いやいや、それは大変なことなのでどうぞ電話してください」
「ごめんね、手短に済ませるから」
月曜日の午前中、社長を会議に見送ってから手が空いたので、私は隣の役員秘書室に行って同僚の拓ちゃんをコッソリ呼び出した。
「どうしたんですか?」
部屋の外まで招き出して、周りに誰もいないことを確認してから、小声で切り出す。
「あのね、ちょっと相談というか、話したいことがあって……。会社じゃ話しにくいんだけど、今日帰りに少しだけ外で話す時間もらえないかな?」
「あー……、まあ今日は全員早くはける予定だから大丈夫だと思います」
「うちも多分十八時前には帰るから、早めに切り上げる。終わり次第虎ノ門駅待ち合わせでいい? 三十分くらいで済むと思う」
「わかりました。じゃ、喫茶店とかですよね」
「そうだね、私はごはん食べながらでもいいけど、お家で食べられた方がいいでしょ?」
「助かります」
そんなわけで拓ちゃんに時間を確保してもらった。
話とは、転職のことだ。
具体的に話が進む前に、考え方がフラットで事実をそのまま受け止めてくれるタイプ、かつ私が抜けたら確実に迷惑をかけるであろう立場の拓ちゃんにまず伝えておきたいと私は考えた。
それは、拓ちゃんなら自分の都合で物を言ったりせず、秘密を漏らしたりもせず、理解した上で私の離脱後に備えてくれるだろうという信頼があるからだ。
彼のような人はとても珍しいと思うし、一緒に仕事できなくなるのは残念でもある。
とはいえ、それ以上に強い気持ちで自分の人生を選択するからには、このくらいの損失は仕方のないことだ。
生きる場所を変えることは、慣れ親しんだ環境を手放すということ。惜しんでいる場合ではない。
夕方、社長が予定より早く帰ったので、私は先に会社を出た。
虎ノ門駅で拓ちゃんが来るのを待っていたら、十八時十五分頃に「今出ました」とメールが入った。
ほどなくして満員の地下鉄から吐き出されてきた拓ちゃんと合流。
私達は入り組んだ地下通路を抜けて、反対車線側の階段を上っていった。
「ごめんね、急がせちゃった?」
「いえ、こっちも予定どおり全員帰ってくれたので」
「いつもこうならいいのにね」
「本当に。自分の仕事が終わっても無駄に引きずられるので困ります」
「あはは、だよね。そこの先にあるコーヒーショップでいい? けっこうゆったりしてて好きなんだ」
「どうぞ、お任せします」
階段を上りきり、地上の大通り沿いに出る。
まだ日が沈む前。
絶え間ない車の音と、どこか活気のある仕事帰りのサラリーマン達の声。
週が明けたばかりの月曜日でも、元気に飲み屋に繰り出す人は多い。
「青山さん、ごはん食べて帰りましょうよぉ~」
ふと、そんな声が耳に入る。
青山という名字が珍しいなと思い、私は反射的にそちらを振り返った。
「いいじゃないですかぁ~」
ゆるふわボブのキュートな顔立ちで、レースブラウスにハイウエストワイドパンツというファッションの、妙に甘ったるい声のその女の子は、隣にいる男性の腕を両手で掴み、引っ張る。
その腕の先にある相手の顔を見て、私は頭を殴られたような衝撃を感じて足を止めた。
――え?
「どうしました?」
拓ちゃんが尋ねる声は、私の外を素通りしていく。
亮弥くんが女の子と歩いている。
腕を掴まれて。
「ちょっと、離してくだ……」
その時亮弥くんの両眼が私を捉えた。
交差した視線に電流が走る。
ハッとした顔になって立ち止まると、隣の子もつられて足を止めた。
「優子さん……」
心臓がドクドクと音を立てる。
ゾワゾワと得体のしれない何かが鳩尾あたりを這い回る。
「片瀬さんのお知り合いですか?」
拓ちゃんの声に、はっと我に返る。
私は頭を秘書モードに切り替えて、冷静な心で表情を緩めた。
「うん、そうなの。愛美ちゃんの弟さん」
「ああー。そう言われると似てますね」
「優子さん、あの……」
亮弥くんが、弁解しようと一歩踏み出す。
「え~、青山さんってお姉さんいるんだぁ」
女の子の声に再びハッとした亮弥くんは、腕を掴んだままだった手を迷惑そうに押しのけた。
「マジでやめてください。とにかく俺、会社に戻るんで。お疲れ様でした」
そう言ってから私達のほうを向き、
「見苦しい所をお見せしてすみません。失礼します」
と苦々しい顔で頭を下げて、彼女を置き去りにしたまま歩いていってしまった。
彼女には申し訳ないけど、亮弥くんの冷たい対応を見て安心している自分がいた。
あの腕に他の女性の手が絡まっていることに激しい嫌悪感を覚えた本物の自分の心が、すうっと鎮まっていく。
「青山さんって女嫌いなのかなぁ~。誘ってもお茶にもつき合ってくれなくてぇ」
彼女は質問するともなくそう呟くと、拗ねた感じで踵を返して信号を渡っていった。
そうなのか。と、私は少し顔が緩んでしまった。
亮弥くん、女の子の誘いに乗らないんだ。
嬉しい。
よかった、何もなくて。
「なんか、変なとこに遭遇してしまいましたね。何もしてないのに悪いことした気分」
「ほんとだね。……拓ちゃんごめん、ちょっとだけ電話してもいい?」
亮弥くんはきっと今、私に誤解されていないかと気が気じゃないだろう。
それに、異性とのツーショットを見てしまったのは私だけではない。
「どうぞ。今の彼にですか?」
「うん。……あのね、愛美ちゃんの弟さん、実は私の恋人なんです……」
「えっ!」
拓ちゃんは珍しく目を見開いて驚いた。
「年甲斐もなくすみません」
「いえ、それは全然。でもそれじゃ今のアレ、お互いにマズイもの見ちゃった感じですよね」
「申し訳ない」
「いやいや、それは大変なことなのでどうぞ電話してください」
「ごめんね、手短に済ませるから」
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