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第8章

1 四十歳①

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「あ、もしもし。こんばんは。……うん、見たよメール。……ありがとう。四十歳になりました。……ね、早いね。……うん、うんありがとう。……そうなんだ。……アハハ。そうだね。……うん。……お父さんもいる? うん、ちょっと代わって。……あ、もしもし、優子です……」

 三月四日。
 私はついに四十歳の大台に乗った。
 仕事を終えてスマホを見ると、父、母、妹からそれぞれお祝いメールが入っていた。
 家に帰り着いて、誕生日くらいはと、両親に電話を入れたところだ。
「うん、それじゃ、……うん、そっちもね、お互いに。もう若くないから。アハハ。……うん、ありがとう。おやすみなさい」
 電話を切って、デスクチェアーにもたれかかった。
 誕生日と言っても、家族への連絡が終われば、それ以上することもない。
 時計を見ると、八時半を回ったところ。
 亮弥くんはまだ仕事中だろう。こっちからメール入れるのもなんか虚しいし、連絡来るまでは黙っててもいいか。

 部屋はしんと静まり返っている。
 テレビでもつけようかと思ってPCの前に座ったけど、イマイチそういう気分にもなれない。
 私は天井を見上げながらため息をついた。
 そして、散歩でもしてこようと、立ち上がった。

 何かの節目を一人で何もせずに過ごしていると、もがきたい気持ちになることがある。
 誕生日はその最たるものかもしれない。
 誕生日は特別だと洗脳されているのだろうか、その日を特別に過ごすのが苦手でありながら、何もなく過ごしてしまうのもまた、苦痛なのだ。
 一人が淋しいわけではない。
 でも虚しさは感じているかもしれない。

 だから、今日の夜ごはんは自炊をやめて、お気に入りの定食屋で銀鮭を食べてきた。
 脂が乗ってほっこりした銀鮭に、数種の小鉢とご飯、お味噌汁が品よく並べられたその定食は、私にとってささやかなご馳走だ。
 自分以外の誰かにごはんを出してもらえると、それが飲食店であっても幸せを感じるものだ。
 でも一人の夜はまだまだ長い。

 スマホと鍵だけコートのポケットに入れて、夜の路地をぺたぺたと歩く。
 いつもこのくらい身軽でいられたら最高なのにな……、と思いながらなんとなく足が向いたのは、隅田川沿いの階段。
 亮弥くんとつき合うことを決めた、あの階段だ。

 この時間に一人で暗いところは良くないよな……と思いながら、街灯の当たる明るいところを進んでいくと、親水テラスへと降りていく広い階段の中段辺りに、仲睦まじそうな若いカップルが座っているのが見えた。
 この人達がいるなら大丈夫か、と思い、少し距離を取って二人が視界に入る場所に座った。
 対岸の灯りを映す川面が、水の流れに揺らめいてキラキラと光るのを眺めながら、この地に移り住んでもう十二年も経つことを思った。

 正樹と別れて自由になった私は、自分の生きやすさを一番に考えられるようになり、本社に通いやすい都内に引っ越してきた。
 地下鉄銀座線の始発駅である浅草界隈は、その頃はわりと手頃な家賃で借りられた。
 手頃と言っても狭い新築マンションで八万円くらい……だけど、通勤の利便性と浅草一帯の景観の良さを買うなら、そのくらい出しても良いと思えた。
 そういえば住み初めた頃は、この世界的観光地に暮らしているというのが、可笑しくて不思議な気持ちだったな、と懐かしく思い出す。
 それもいつの間にか当たり前になって、この辺りは庭みたいな感覚になった。
 十二年も住んでいれば、本来の非日常も日常として自然に肌になじむようになる。
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