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第7章
3 なんでも聞く日①
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仕事を終えて、時刻は午後六時五十分。
私は新橋駅で地下鉄を降りて、JRの改札前で彼が来るのを待っている。
二月は特別な日が多い。
図らずも祝日だったため九年経った今でも忘れられなくなってしまった、初デートの日。
そしてバレンタインデー。
さらに今日は二月二七日、亮弥くんの誕生日だ。
私の誕生日が三月四日なので、間の週末でまとめてお祝いしようという話になっていたのだけど、せっかくだからごはんだけでも一緒に食べようと、昨日予定変更したのだ。
さすがの私も、誕生日と知っていて一人で過ごさせるほど鬼ではなかったらしい。
喧騒とともに、片や人を吸い込み片や吐き出していく改札を、壁際に立ってボンヤリと眺めていると、ふっと馴染みのある顔が目に飛び込んだ。
向こうはこちらに気づくと軽く手を挙げて、例にもれず吐き出されるように人波に乗って改札をすり抜けてきた。
「お待たせしました」
亮弥くんは爽やかな笑顔を見せた。
仕事用のシックなコートの下に覗くスラックス、そして革靴。
片手に下げたビジネスバッグ。
仕事終わりの亮弥くんは、少し頼もしく見えて、私も自然に頬が緩む。
「お誕生日おめでとう」
「ハハ、ありがとうございます!」
「仕事、無事に切り上げられたんだね」
「どうせ終わらないから、潔く明日に回してきた」
「ほんと? 明日大丈夫かな?」
「大丈夫大丈夫、まだ期限まで余裕ある案件だから」
亮弥くんは私の手を取って、銀座口のほうに歩き出した。
「どこに行く? 亮弥くん何か食べたいものある?」
そう尋ねると、亮弥くんは足を止めて、
「あー……、今日ってもしかして、俺の希望なんでも聞いてくれる日、的な……?」
「うん、聞くよ~。誕生日だからね」
「ホント? どこでも連れてってくれる?」
「私の財布で足りるとこなら」
「いや、お金はいいんだけど……、実を言うと、その……」
亮弥くんが言い淀んだので、私は不思議に思って彼を見上げた。
「そんな真っすぐな目されると言いにくいんだけど……、その」
「何? 言って?」
「ホテルに行きたい」
「ホテル? いいけど、予約なしで大丈夫かな?」
「あ、いや、ホテルでディナーじゃなくて、ラブホテルのほう」
「あ、そっち?」
おそらく秘書の得意技で顔には出なかったと思うけど、私は心の中で、亮弥くんそういう刺激が欲しかったのか!! と驚いた。
「いや、違うの。そういう目的じゃなくて、その、二人きりでリラックスして過ごせる場所がいいっていうか……、俺の家は優子さん呼べる状態じゃないし、かといって優子さん家行ったら泊まりたくなっちゃうし、だから、二、三時間だけ二人でゆっくりまったりできたらな……って。いや、ダメなら全然、個室居酒屋とかで! 半個室でも!」
ビシッ、ビシッと手のひらを前に出して強調する亮弥くん。
その一生懸命な様子を見ながら、なるほど一理ある、と思った。
「いいよ、ラブホテル。行こう」
「え、いいの?」
「うん。いつもと違っていいんじゃない」
「マジで!」
「それじゃ、ごはんはどこかで買って持ち込む感じでいいのかな?」
「そうだね、そうしよう」
それから二人でラブホテルの検索を始めた。
新橋周辺には無さそうなので、上野、湯島方面まで行くことにした。
電車で移動しながらあーでもないこーでもないと二人でスマホの画面を見せ合って、新しくてキレイそうなホテルをいくつか候補に挙げた。
こんなことまで、亮弥くんとならお互い気負わず意見を自由に言い合えて、楽しいと感じられた。
私は過去、そんなに相手に気を遣っていたのだろうか。
正樹の時もそうだっただろうか。
いつも、相手の考えを尊重して、意見が異なる時は相手のプライドを傷つけないように、遠まわしに、柔らかく……。
間違いを指摘する時も、疑問形にしたり、自分が勘違いしていたようなフリをしたりして、相手が自分で気づけるように促して……。
思い返すとそんなことばかりやっていた気がする。
もちろん、無理しているという自覚はなく、そうするのが相手への愛情だと思っていたし、苦ではなかった。
と思っていた。
でも亮弥くんと出会って、自分がこれまでどれほど心を抑えつけてきたかを知った気がする。
例えば今日何を食べたいか、みたいな、本当に些細なことすら、相手を優先して、融通して、自分の気持ちを後回しにしてきた。私は合わせられるから、と。
今は、ちょっとくらいワガママも言える。
こうしたほうがいいんじゃない? と直接提案もできる。
こういうのはあまり好きじゃない、とキチンと伝えられる。
そして亮弥くんはそれを聞いて嫌な顔ひとつしない。
そんな人もいるのだ、この世には。
湯島のホテルに向かう前に、上野のデパ地下でお惣菜を買い、その後コンビニに寄って、飲み物とケーキをゲットした。
手をつないで、スマホで地図を確認しながらホテルに向かう途中、足取りが軽くなっている自分に気づく。
「なんかこういうの楽しいね。ワクワクしちゃう」
「ね、俺も楽しい。優子さんが乗ってきてくれて良かった。ドン引きされるかと思った」
「いや、この年でドン引きしたら、逆にドン引きするでしょ?」
「しないよ!」
「ほんとかなぁ」
私は亮弥くんをじろりと横目で見上げた。
「ほんとほんと! え、もしかして無理してる?」
「してないよ」
「ほんとかなぁ」
亮弥くんは私のセリフと声色と目つきを再現した。
「もう、真似しないで」
ぼす、と体当たりすると、亮弥くんは楽しそうにアハハと笑った。
その笑顔を見て、よしよし、誕生日は順調だなと私は思った。
私は新橋駅で地下鉄を降りて、JRの改札前で彼が来るのを待っている。
二月は特別な日が多い。
図らずも祝日だったため九年経った今でも忘れられなくなってしまった、初デートの日。
そしてバレンタインデー。
さらに今日は二月二七日、亮弥くんの誕生日だ。
私の誕生日が三月四日なので、間の週末でまとめてお祝いしようという話になっていたのだけど、せっかくだからごはんだけでも一緒に食べようと、昨日予定変更したのだ。
さすがの私も、誕生日と知っていて一人で過ごさせるほど鬼ではなかったらしい。
喧騒とともに、片や人を吸い込み片や吐き出していく改札を、壁際に立ってボンヤリと眺めていると、ふっと馴染みのある顔が目に飛び込んだ。
向こうはこちらに気づくと軽く手を挙げて、例にもれず吐き出されるように人波に乗って改札をすり抜けてきた。
「お待たせしました」
亮弥くんは爽やかな笑顔を見せた。
仕事用のシックなコートの下に覗くスラックス、そして革靴。
片手に下げたビジネスバッグ。
仕事終わりの亮弥くんは、少し頼もしく見えて、私も自然に頬が緩む。
「お誕生日おめでとう」
「ハハ、ありがとうございます!」
「仕事、無事に切り上げられたんだね」
「どうせ終わらないから、潔く明日に回してきた」
「ほんと? 明日大丈夫かな?」
「大丈夫大丈夫、まだ期限まで余裕ある案件だから」
亮弥くんは私の手を取って、銀座口のほうに歩き出した。
「どこに行く? 亮弥くん何か食べたいものある?」
そう尋ねると、亮弥くんは足を止めて、
「あー……、今日ってもしかして、俺の希望なんでも聞いてくれる日、的な……?」
「うん、聞くよ~。誕生日だからね」
「ホント? どこでも連れてってくれる?」
「私の財布で足りるとこなら」
「いや、お金はいいんだけど……、実を言うと、その……」
亮弥くんが言い淀んだので、私は不思議に思って彼を見上げた。
「そんな真っすぐな目されると言いにくいんだけど……、その」
「何? 言って?」
「ホテルに行きたい」
「ホテル? いいけど、予約なしで大丈夫かな?」
「あ、いや、ホテルでディナーじゃなくて、ラブホテルのほう」
「あ、そっち?」
おそらく秘書の得意技で顔には出なかったと思うけど、私は心の中で、亮弥くんそういう刺激が欲しかったのか!! と驚いた。
「いや、違うの。そういう目的じゃなくて、その、二人きりでリラックスして過ごせる場所がいいっていうか……、俺の家は優子さん呼べる状態じゃないし、かといって優子さん家行ったら泊まりたくなっちゃうし、だから、二、三時間だけ二人でゆっくりまったりできたらな……って。いや、ダメなら全然、個室居酒屋とかで! 半個室でも!」
ビシッ、ビシッと手のひらを前に出して強調する亮弥くん。
その一生懸命な様子を見ながら、なるほど一理ある、と思った。
「いいよ、ラブホテル。行こう」
「え、いいの?」
「うん。いつもと違っていいんじゃない」
「マジで!」
「それじゃ、ごはんはどこかで買って持ち込む感じでいいのかな?」
「そうだね、そうしよう」
それから二人でラブホテルの検索を始めた。
新橋周辺には無さそうなので、上野、湯島方面まで行くことにした。
電車で移動しながらあーでもないこーでもないと二人でスマホの画面を見せ合って、新しくてキレイそうなホテルをいくつか候補に挙げた。
こんなことまで、亮弥くんとならお互い気負わず意見を自由に言い合えて、楽しいと感じられた。
私は過去、そんなに相手に気を遣っていたのだろうか。
正樹の時もそうだっただろうか。
いつも、相手の考えを尊重して、意見が異なる時は相手のプライドを傷つけないように、遠まわしに、柔らかく……。
間違いを指摘する時も、疑問形にしたり、自分が勘違いしていたようなフリをしたりして、相手が自分で気づけるように促して……。
思い返すとそんなことばかりやっていた気がする。
もちろん、無理しているという自覚はなく、そうするのが相手への愛情だと思っていたし、苦ではなかった。
と思っていた。
でも亮弥くんと出会って、自分がこれまでどれほど心を抑えつけてきたかを知った気がする。
例えば今日何を食べたいか、みたいな、本当に些細なことすら、相手を優先して、融通して、自分の気持ちを後回しにしてきた。私は合わせられるから、と。
今は、ちょっとくらいワガママも言える。
こうしたほうがいいんじゃない? と直接提案もできる。
こういうのはあまり好きじゃない、とキチンと伝えられる。
そして亮弥くんはそれを聞いて嫌な顔ひとつしない。
そんな人もいるのだ、この世には。
湯島のホテルに向かう前に、上野のデパ地下でお惣菜を買い、その後コンビニに寄って、飲み物とケーキをゲットした。
手をつないで、スマホで地図を確認しながらホテルに向かう途中、足取りが軽くなっている自分に気づく。
「なんかこういうの楽しいね。ワクワクしちゃう」
「ね、俺も楽しい。優子さんが乗ってきてくれて良かった。ドン引きされるかと思った」
「いや、この年でドン引きしたら、逆にドン引きするでしょ?」
「しないよ!」
「ほんとかなぁ」
私は亮弥くんをじろりと横目で見上げた。
「ほんとほんと! え、もしかして無理してる?」
「してないよ」
「ほんとかなぁ」
亮弥くんは私のセリフと声色と目つきを再現した。
「もう、真似しないで」
ぼす、と体当たりすると、亮弥くんは楽しそうにアハハと笑った。
その笑顔を見て、よしよし、誕生日は順調だなと私は思った。
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