上 下
56 / 59
第8章

それぞれの思い③

しおりを挟む
 こちらを見上げるキャットアイが、捨て猫みたいに不安げに震えている。
「俺はお前への気持ちを、恋愛感情だと認定した。俺は伊月が好きだ。女として」
 伊月がショックを受けたのが、色の消えた顔から伝わってきた。
「嘘……」
「嘘じゃない」
「いや、だって」
 伊月はもう思考を切り替えたらしく、一転俺に抗議の意志を向ける。
「先輩今まで一瞬もそんな素振り見せなかったじゃないですか。それなのに急にそんなこと言うのおかしくないですか?」
 さすが、考えが現実に即しているからド正論にたどり着くのが早い。

「実は俺もそう思っていた」
「やっぱりそう思ってたんじゃないですか!」
「そう思ってはいたけど、でもな、どう考えても、好きでもない奴に無意識でキスするなんて非常識なことを、俺がするわけがないんだよな」
「は?」
「は?」
「理由それだけですか?」
「とりあえずは」
「いやいやいやいや、理雄先輩、恋愛を舐めないでください! 恋愛っていうのはですね!」
 伊月は体ごとこちらに向き直し、ソファに両手をついて身を乗り出す。

「もっとこう、片時も離れていたくなかったり、毎晩でも電話して声を聞きたかったり、愛を伝えてほしかったりですね、会えないと淋しくて、不安で、姿を見るだけで胸がときめいて、目の前にいたら抱きしめたくなって、そういう気持ちを自分で制御できないくらいになって、苦しくて、切なくて……そういうやつですよ!」
「そう言われると、そういうのはないな」
「ほら、ないじゃないですか! 先輩のは恋愛じゃないです! 私は認めません。絶対認めない」
「そんな全力で否定しなくても……」
「だって、先輩が私のこと好きって言ったら」
 そこまで言うと伊月は顔を歪めて、
「……もう一緒にいられなくなる。そんなのやだ……、先輩を、失いたくない――!」
 両手で顔を覆って、泣き出してしまった。

 そんなに? ――と、別に答えが分かれたからといって、すぐに離れなきゃいけないわけでもないのに、伊月が泣くほどのことか? と、俺は不思議に思った。
 同時に少し呆れたし、不謹慎ながら、面白い奴だなとも思ってしまった。
「あのさ、泣くほどだったら、俺のこと好きになれば?」
「だから好きだって言ってるじゃないですか……!」
「あっそ……」

 伊月にとって、好きと恋愛感情は別物なんだろう。例のZee様の話からも、それはわかっている。
 俺はたぶん逆で、恋愛感情に切り替わる境界が曖昧なタイプなのだ。
 思い返せば最初から伊月をかわいいと思っていたし、居心地が良かったし、抱きしめることに抵抗もなくて、当たり前のように愛情もあった。
 それが最初から恋愛感情だったかと聞かれたら、おそらくそうではなかっただろうし、今もその気持ちが急変したとは思わない。
 それでも、俺の中では、この結論に至った明確な理由があった。

 あの夜、妙に他人行儀な伊月を見た時に、俺はそれを、もどかしく思った。
 違うだろ、って。なんで俺に遠慮するんだって。
 もっと思いきり頼って甘えればいいのに、こんな時に、そんなふうに、鈴鹿家の長女に戻って他人みたいに線を引くなって。
 それはつまり――。

「俺も、お前と同じだ、伊月。お前にとって一番近しい存在でありたいし、お前もそうであってほしい。でもそう思った先でああなったということは、気持ちを分類するなら、恋愛だと思う」
「そんなの、結局結果論じゃないですか……っ」
 伊月は反論しながら、止まらない涙を拭う。
「結果がすべてだろ、こんなのは。だからな、俺はお前への気持ちをとりあえず恋愛感情に認定するけど」
「とりあえず認定してる時点でなんか違うぅ」
「いいからいったん認定させてくれ。で、その上で、これまでどおりのソフレ関係でいる。何も変わらない。だから余計な心配するな」
「それは先輩が伊月ちゃんを好きだから離れなくて済むようにそう言うんでしょ? でもそんなのむりです。続くわけがない。だって、好きになったら絶対に手を出したくなる。もし私がそれを拒否することが続いたら……先輩、私を、嫌いになるでしょう?」
 顔を上げた伊月は、涙で頬をいっぱいに濡らし、ぐしゅぐしゅの目に悲しそうに諦めを湛えて、それでも懇願するように、俺を見つめる。
「は? あのな……」
 そういうことをしないって話をしてんだよ――そう言い掛けて、でもその伊月の目が、あまりにも切実で、絶望に満ちていて、自分の認識と目の前にあるものとのギャップに、何かがおかしい、と、気づく。

 ……まてよ。
 さっき伊月は、「先輩ならいいと思わなくもない」けど「避けられるなら避けたい」と言っていた。
 つまり、逆に言うと受け入れることもできるくらいの気持ちはあるということだ。
 それなのに、今度はそれを拒絶して関係が終わることを本気で恐れている。
 しかも、拒否することが「続いたら」……? 
 伊月にその気がないのに何度も求めたら、俺のほうが嫌われるのが普通じゃね……?
 なんか、変だな……?

 あ、もしかして――。
 考えているうちに、あることに思い当たる。
 その途端、頭の中で何かが連鎖するように噛み合っていく気がした。

 もしかして、伊月はこれまでずっと、自分の本心を押し殺して相手の欲求に応えてきたんじゃないだろうか。
 そうしないと相手が離れてしまうから?
 空気を読んで拒絶することができなかった?
 それとも応えることを強いられた?
 ――わからないけど、伊月はおそらく、の人間なのだ。
 だから物理的に受け入れられなくはないけど、感情的には回避したいと思っていて――。

 そうか、だからこそ、それがない関係を求めて、俺みたいな奴を探していたのか。

 思えば伊月は最初からそう言っていた。ソフレだったら、何かに応えようとせずに安心できる、と。
 ソフレにこだわって健全な関係を築こうとするのは、恋愛とは別の強い絆を持つボーイズグループへの憧れからだと思ってたけど……違う。逆だ。
 体の関係から逃れたいからこそ、健全な絆を欲して、それを当たり前に持っているボーイズグループを羨ましく思い、憧れたんだ。
 そう考えると、俺の気持ちが変わってしまうことが、こいつにとっては俺が思うよりも大問題なんだということも、納得がいく。

「伊月……」
 その不安を拭ってやりたいと思い、動かしかけた手を、思いとどまってぐっと握りしめる。
 今はそんな雑な行動に出るのではなく、互いが納得できるように、言葉できちんと伝えないといけない。

「俺は離婚のトラウマがあって、仮にお前から迫られたとしても、応えようと思えるかわからないくらいだ。だからお前が恐れているようなことは起こらない。少なくとも、俺は求めてない」
 伊月の瞳は少しだけ和らぎ、それでもまだ半信半疑に、俺の本心をうかがおうとする。

「お前が言うように、まだはっきり恋愛感情を自覚できていない部分もある。でも俺はああいうことを、しないというよりは、生理的に拒絶するような人間だ。それなのにしたんだから、潜在的に気持ちがあるんだろう。この前はそんな可能性を考えていなかったから事故が起きたけど、自分で把握していれば、無意識に繰り返すことはないと思う。だからもし、俺が恋愛感情を持ってもお前が何も変わらないでいてくれるなら、この先も今までどおりの健全なソフレ関係でいられる。――俺はそう結論づいた」

 伊月はしばらくはうまく呑み込めない様子で、少しだけ納得いかなそうな顔をしていた。
 それから、ゆっくりと視線を下げて俯くと、両手でぎゅっと、俺の服の裾を掴んだ。
「本当に? ……無理してないですか?」
「無理してない。むしろ、そういうことをせずに済むほうがありがたい」
 それでもまだ迷いがあるのか、伊月は黙り込む。
 これ以上何も言えることがない俺は、黙って伊月の心が追いつくのを待った。

「ずっと……聞けなかったんですけど……」
 遠慮がちな声。
「何があったんですか? 前の奥さんと……」
 ドクンと心臓が不穏な音を立てる。

 言いたくない。
 知られたくないのではなく、言葉にしたくない。
 でも、言うのが近道だということも、同時に理解している。
 この先も伊月と居ようと思うなら、共有しておいたほうが、お互いに安心できるだろう。

 強く耳を打つ鼓動を、ぐっと飲み込む。
 そして、光景を思い出さないよう努めながら、口を開いた。

「――夜中に、なんか気持ちいいなと思って目を覚ましたら、上に……裸の妻が乗ってた」
 伊月が息を呑むのがわかった。
 空気が張り詰める。
 胸の辺りに込み上げる不快感を抑えようと、思わず口元に手を当てる。
「……嫉妬の感情とか、暴力的な意志や、甲高い怒鳴り声、性的な視線や要求――で、フラッシュバックする」
 もっと前段の関係性から順を追って説明しないと伝わらない、そう思いながらも、これだけ伝えるのがやっとだった。

 服の裾に加えられていた力が、緩んでいく。
 きっと引いただろう。
 十年以上も引きずるにはあまりにくだらなく、男のくせに情けなくもあって――。
「いや、夫婦なんだから仕方ないだろって、気持ちよかったんならいいだろって、思うかもしれないけど……」
 それでも俺は、あのおぞましい出来事に耐えきれなくて、性器を切り落としたいとすら思った。

 伊月のほうを見られないまま言葉に詰まっていたら、急にふわりと甘い匂いが漂った。
 それに気づくのが早いか、首に回された腕に引き寄せられて、体が傾く。
 そのまま、慣れた感触の体に、きつく抱きしめられた。

「いいわけない」
 迷いのない口調で、伊月は断言する。
「それは尊厳の問題です」
 その言葉に驚いて、俺は何も反応できないまま、ただ茫然とした。
「辛かったですね、先輩……」
 伊月は俺の頭を撫でながら慰めるように言う。
 それから肩に顔をうずめると、抱きしめる腕に力を込め直して――。
「……悔しい……ッ」
 声を掠れさせながら、泣きそうな声で怒りを滲ませた。
 
 ああ――。
 俺は伊月を強く抱きしめ返した。
 やっぱり伊月が好きだ。
 ただただ、そう強く思った。

 この気持ちが恋愛か、恋愛じゃないか、そんなことはどうだっていい。
 ただ、伊月という替えの利かない存在を、この先も手放したくはない。
 こんなにも強い気持ちで一緒にいたいと思える人間には、後にも先にも二度と出会えないだろう。

「……伊月」
 腕を緩め、きつくしがみついたままの伊月の、柔らかな髪を撫でた。
「伊月、ありがとう。ごめんな、変な話をして」
 伊月は黙ったまま、ゆっくりと体を離す。
 そして、浮かせていた腰をソファに下ろすと、正面からじっと俺の目を見つめた。

 もう涙は影を潜めていた。
 代わりにその目に宿っているのは、何やら強い意志。
 真剣な顔をして、これから大事なことを言うのだと、覚悟を込めた瞳で――伊月は口を開く。

「先輩、大丈夫です。これからは、私が先輩を守りますから」

 思いがけないその言葉に、一瞬呆気に取られた。
 が、その伊月の意志を受けて、思い浮かんだ返事は一つしかない。
 表情を変えることなく反応を待つ伊月。
 その揺るぎない瞳の前に、俺は迷わずスッと手を出した。

「イヤ、そういうのはちょっとイイです……」
「私か!」

 その後俺たちはすっきりとした気持ちでいつもどおりごはんを食べて、一緒に寝て、朝には抱き合った状態で目が覚めた。
 そんなふうにして、ゴールデンウイークが明けても、従来どおりにソフレ関係が継続している。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

総受けルート確定のBLゲーの主人公に転生してしまったんだけど、ここからソロエンドを迎えるにはどうすればいい?

寺一(テライチ)
BL
──妹よ。にいちゃんは、これから五人の男に抱かれるかもしれません。 ユズイはシスコン気味なことを除けばごくふつうの男子高校生。 ある日、熱をだした妹にかわって彼女が予約したゲームを店まで取りにいくことに。 その帰り道、ユズイは階段から足を踏みはずして命を落としてしまう。 そこに現れた女神さまは「あなたはこんなにはやく死ぬはずではなかった、お詫びに好きな条件で転生させてあげます」と言う。 それに「チート転生がしてみたい」と答えるユズイ。 女神さまは喜んで願いを叶えてくれた……ただしBLゲーの世界で。 BLゲーでのチート。それはとにかく攻略対象の好感度がバグレベルで上がっていくということ。 このままではなにもしなくても総受けルートが確定してしまう! 男にモテても仕方ないとユズイはソロエンドを目指すが、チートを望んだ代償は大きくて……!? 溺愛&執着されまくりの学園ラブコメです。

俺だけ毎日チュートリアルで報酬無双だけどもしかしたら世界の敵になったかもしれない

亮亮
ファンタジー
朝起きたら『チュートリアル 起床』という謎の画面が出現。怪訝に思いながらもチュートリアルをクリアしていき、報酬を貰う。そして近い未来、世界が一新する出来事が起こり、主人公・花房 萌(はなぶさ はじめ)の人生の歯車が狂いだす。 不意に開かれるダンジョンへのゲート。その奥には常人では決して踏破できない存在が待ち受け、萌の体は凶刃によって裂かれた。 そしてチュートリアルが発動し、復活。殺される。復活。殺される。気が狂いそうになる輪廻の果て、萌は光明を見出し、存在を継承する事になった。 帰還した後、急速に馴染んでいく新世界。新しい学園への編入。試験。新たなダンジョン。 そして邂逅する謎の組織。 萌の物語が始まる。

ココログラフィティ

御厨 匙
BL
【完結】難関高に合格した佐伯(さえき)は、荻原(おぎわら)に出会う。荻原の顔にはアザがあった。誰も寄せつけようとしない荻原のことが、佐伯は気になって仕方なく……? 平成青春グラフィティ。 (※なお表紙画はChatGPTです🤖)

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

本当のことを言うと

香桐れん
BL
寮の自室で呆然とする櫂(かい)。 その様子を目の当たりにしたルームメイトの匠海(たくみ)は――。 BLにカテゴライズしていますが、 あくまでプラトニックな心理的BLです。 BLというよりはLGBT恋愛小説に近いかもしれません。 異性関係に関する描写があります。 苦手な方はご注意ください。   エブリスタ投稿済み作品。 その他小説投稿サイトにも投稿させていただいております。    --- 表紙作成:かんたん表紙メーカー 写真素材:Na Inho

クラスメイトでご当地アイドルの推しとのツーショットチェキが100枚に到達しました。〜なぜか推しは僕と普通のツーショット写真が撮りたいらしい〜

アイリスラーメン
恋愛
ご当地アイドル〝くまま〟の熱狂的なファンの山本隼兎(やまもとはやと)。くままとのツーショットチェキの枚数がついに100枚に到達する。 そんな隼兎に密かに想いを寄せているのは、クラスメイトの小熊明香里(こぐまあかり)。 彼女の正体は隼兎が推しに推しまくっているご当地アイドルの〝くまま〟だ。 彼女は本気で推し活をする隼兎に恋をする。 だからこそチェキではなく普通のツーショット写真を撮りたがるが、隼兎はファンとしてスキャンダルを恐れ、普通のツーショット写真を拒み続ける。 ファンとして最後まで全力で応援したい隼兎と密かに想いを寄せるご当地アイドルのくまま。 実は隼兎も葛藤と頑固たる決意があるらしく……。 もどかしさたっぷりの推し活ラブコメ、開幕!!

日本語しか話せないけどオーストラリアへ留学します!

紫音@キャラ文芸大賞参加中!
ライト文芸
「留学とか一度はしてみたいよねー」なんて冗談で言ったのが運の尽き。あれよあれよと言う間に本当に留学することになってしまった女子大生・美咲(みさき)は、英語が大の苦手。不本意のままオーストラリアへ行くことになってしまった彼女は、言葉の通じないイケメン外国人に絡まれて……? 恋も言語も勉強あるのみ!異文化交流ラブコメディ。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...