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第8章
それぞれの思い③
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こちらを見上げるキャットアイが、捨て猫みたいに不安げに震えている。
「俺はお前への気持ちを、恋愛感情だと認定した。俺は伊月が好きだ。女として」
伊月がショックを受けたのが、色の消えた顔から伝わってきた。
「嘘……」
「嘘じゃない」
「いや、だって」
伊月はもう思考を切り替えたらしく、一転俺に抗議の意志を向ける。
「先輩今まで一瞬もそんな素振り見せなかったじゃないですか。それなのに急にそんなこと言うのおかしくないですか?」
さすが、考えが現実に即しているからド正論にたどり着くのが早い。
「実は俺もそう思っていた」
「やっぱりそう思ってたんじゃないですか!」
「そう思ってはいたけど、でもな、どう考えても、好きでもない奴に無意識でキスするなんて非常識なことを、俺がするわけがないんだよな」
「は?」
「は?」
「理由それだけですか?」
「とりあえずは」
「いやいやいやいや、理雄先輩、恋愛を舐めないでください! 恋愛っていうのはですね!」
伊月は体ごとこちらに向き直し、ソファに両手をついて身を乗り出す。
「もっとこう、片時も離れていたくなかったり、毎晩でも電話して声を聞きたかったり、愛を伝えてほしかったりですね、会えないと淋しくて、不安で、姿を見るだけで胸がときめいて、目の前にいたら抱きしめたくなって、そういう気持ちを自分で制御できないくらいになって、苦しくて、切なくて……そういうやつですよ!」
「そう言われると、そういうのはないな」
「ほら、ないじゃないですか! 先輩のは恋愛じゃないです! 私は認めません。絶対認めない」
「そんな全力で否定しなくても……」
「だって、先輩が私のこと好きって言ったら」
そこまで言うと伊月は顔を歪めて、
「……もう一緒にいられなくなる。そんなのやだ……、先輩を、失いたくない――!」
両手で顔を覆って、泣き出してしまった。
そんなに? ――と、別に答えが分かれたからといって、すぐに離れなきゃいけないわけでもないのに、伊月が泣くほどのことか? と、俺は不思議に思った。
同時に少し呆れたし、不謹慎ながら、面白い奴だなとも思ってしまった。
「あのさ、泣くほどだったら、俺のこと好きになれば?」
「だから好きだって言ってるじゃないですか……!」
「あっそ……」
伊月にとって、好きと恋愛感情は別物なんだろう。例のZee様の話からも、それはわかっている。
俺はたぶん逆で、恋愛感情に切り替わる境界が曖昧なタイプなのだ。
思い返せば最初から伊月をかわいいと思っていたし、居心地が良かったし、抱きしめることに抵抗もなくて、当たり前のように愛情もあった。
それが最初から恋愛感情だったかと聞かれたら、おそらくそうではなかっただろうし、今もその気持ちが急変したとは思わない。
それでも、俺の中では、この結論に至った明確な理由があった。
あの夜、妙に他人行儀な伊月を見た時に、俺はそれを、もどかしく思った。
違うだろ、って。なんで俺に遠慮するんだって。
もっと思いきり頼って甘えればいいのに、こんな時に、そんなふうに、鈴鹿家の長女に戻って他人みたいに線を引くなって。
それはつまり――。
「俺も、お前と同じだ、伊月。お前にとって一番近しい存在でありたいし、お前もそうであってほしい。でもそう思った先でああなったということは、気持ちを分類するなら、恋愛だと思う」
「そんなの、結局結果論じゃないですか……っ」
伊月は反論しながら、止まらない涙を拭う。
「結果がすべてだろ、こんなのは。だからな、俺はお前への気持ちをとりあえず恋愛感情に認定するけど」
「とりあえず認定してる時点でなんか違うぅ」
「いいからいったん認定させてくれ。で、その上で、これまでどおりのソフレ関係でいる。何も変わらない。だから余計な心配するな」
「それは先輩が伊月ちゃんを好きだから離れなくて済むようにそう言うんでしょ? でもそんなのむりです。続くわけがない。だって、好きになったら絶対に手を出したくなる。もし私がそれを拒否することが続いたら……先輩、私を、嫌いになるでしょう?」
顔を上げた伊月は、涙で頬をいっぱいに濡らし、ぐしゅぐしゅの目に悲しそうに諦めを湛えて、それでも懇願するように、俺を見つめる。
「は? あのな……」
そういうことをしないって話をしてんだよ――そう言い掛けて、でもその伊月の目が、あまりにも切実で、絶望に満ちていて、自分の認識と目の前にあるものとのギャップに、何かがおかしい、と、気づく。
……まてよ。
さっき伊月は、「先輩ならいいと思わなくもない」けど「避けられるなら避けたい」と言っていた。
つまり、逆に言うと受け入れることもできるくらいの気持ちはあるということだ。
それなのに、今度はそれを拒絶して関係が終わることを本気で恐れている。
しかも、拒否することが「続いたら」……?
伊月にその気がないのに何度も求めたら、俺のほうが嫌われるのが普通じゃね……?
なんか、変だな……?
あ、もしかして――。
考えているうちに、あることに思い当たる。
その途端、頭の中で何かが連鎖するように噛み合っていく気がした。
もしかして、伊月はこれまでずっと、自分の本心を押し殺して相手の欲求に応えてきたんじゃないだろうか。
そうしないと相手が離れてしまうから?
空気を読んで拒絶することができなかった?
それとも応えることを強いられた?
――わからないけど、伊月はおそらく、したくない側の人間なのだ。
だから物理的に受け入れられなくはないけど、感情的には回避したいと思っていて――。
そうか、だからこそ、それがない関係を求めて、俺みたいな奴を探していたのか。
思えば伊月は最初からそう言っていた。ソフレだったら、何かに応えようとせずに安心できる、と。
ソフレにこだわって健全な関係を築こうとするのは、恋愛とは別の強い絆を持つボーイズグループへの憧れからだと思ってたけど……違う。逆だ。
体の関係から逃れたいからこそ、健全な絆を欲して、それを当たり前に持っているボーイズグループを羨ましく思い、憧れたんだ。
そう考えると、俺の気持ちが変わってしまうことが、こいつにとっては俺が思うよりも大問題なんだということも、納得がいく。
「伊月……」
その不安を拭ってやりたいと思い、動かしかけた手を、思いとどまってぐっと握りしめる。
今はそんな雑な行動に出るのではなく、互いが納得できるように、言葉できちんと伝えないといけない。
「俺は離婚のトラウマがあって、仮にお前から迫られたとしても、応えようと思えるかわからないくらいだ。だからお前が恐れているようなことは起こらない。少なくとも、俺は求めてない」
伊月の瞳は少しだけ和らぎ、それでもまだ半信半疑に、俺の本心をうかがおうとする。
「お前が言うように、まだはっきり恋愛感情を自覚できていない部分もある。でも俺はああいうことを、しないというよりは、生理的に拒絶するような人間だ。それなのにしたんだから、潜在的に気持ちがあるんだろう。この前はそんな可能性を考えていなかったから事故が起きたけど、自分で把握していれば、無意識に繰り返すことはないと思う。だからもし、俺が恋愛感情を持ってもお前が何も変わらないでいてくれるなら、この先も今までどおりの健全なソフレ関係でいられる。――俺はそう結論づいた」
伊月はしばらくはうまく呑み込めない様子で、少しだけ納得いかなそうな顔をしていた。
それから、ゆっくりと視線を下げて俯くと、両手でぎゅっと、俺の服の裾を掴んだ。
「本当に? ……無理してないですか?」
「無理してない。むしろ、そういうことをせずに済むほうがありがたい」
それでもまだ迷いがあるのか、伊月は黙り込む。
これ以上何も言えることがない俺は、黙って伊月の心が追いつくのを待った。
「ずっと……聞けなかったんですけど……」
遠慮がちな声。
「何があったんですか? 前の奥さんと……」
ドクンと心臓が不穏な音を立てる。
言いたくない。
知られたくないのではなく、言葉にしたくない。
でも、言うのが近道だということも、同時に理解している。
この先も伊月と居ようと思うなら、共有しておいたほうが、お互いに安心できるだろう。
強く耳を打つ鼓動を、ぐっと飲み込む。
そして、光景を思い出さないよう努めながら、口を開いた。
「――夜中に、なんか気持ちいいなと思って目を覚ましたら、上に……裸の妻が乗ってた」
伊月が息を呑むのがわかった。
空気が張り詰める。
胸の辺りに込み上げる不快感を抑えようと、思わず口元に手を当てる。
「……嫉妬の感情とか、暴力的な意志や、甲高い怒鳴り声、性的な視線や要求――で、フラッシュバックする」
もっと前段の関係性から順を追って説明しないと伝わらない、そう思いながらも、これだけ伝えるのがやっとだった。
服の裾に加えられていた力が、緩んでいく。
きっと引いただろう。
十年以上も引きずるにはあまりにくだらなく、男のくせに情けなくもあって――。
「いや、夫婦なんだから仕方ないだろって、気持ちよかったんならいいだろって、思うかもしれないけど……」
それでも俺は、あのおぞましい出来事に耐えきれなくて、性器を切り落としたいとすら思った。
伊月のほうを見られないまま言葉に詰まっていたら、急にふわりと甘い匂いが漂った。
それに気づくのが早いか、首に回された腕に引き寄せられて、体が傾く。
そのまま、慣れた感触の体に、きつく抱きしめられた。
「いいわけない」
迷いのない口調で、伊月は断言する。
「それは尊厳の問題です」
その言葉に驚いて、俺は何も反応できないまま、ただ茫然とした。
「辛かったですね、先輩……」
伊月は俺の頭を撫でながら慰めるように言う。
それから肩に顔をうずめると、抱きしめる腕に力を込め直して――。
「……悔しい……ッ」
声を掠れさせながら、泣きそうな声で怒りを滲ませた。
ああ――。
俺は伊月を強く抱きしめ返した。
やっぱり伊月が好きだ。
ただただ、そう強く思った。
この気持ちが恋愛か、恋愛じゃないか、そんなことはどうだっていい。
ただ、伊月という替えの利かない存在を、この先も手放したくはない。
こんなにも強い気持ちで一緒にいたいと思える人間には、後にも先にも二度と出会えないだろう。
「……伊月」
腕を緩め、きつくしがみついたままの伊月の、柔らかな髪を撫でた。
「伊月、ありがとう。ごめんな、変な話をして」
伊月は黙ったまま、ゆっくりと体を離す。
そして、浮かせていた腰をソファに下ろすと、正面からじっと俺の目を見つめた。
もう涙は影を潜めていた。
代わりにその目に宿っているのは、何やら強い意志。
真剣な顔をして、これから大事なことを言うのだと、覚悟を込めた瞳で――伊月は口を開く。
「先輩、大丈夫です。これからは、私が先輩を守りますから」
思いがけないその言葉に、一瞬呆気に取られた。
が、その伊月の意志を受けて、思い浮かんだ返事は一つしかない。
表情を変えることなく反応を待つ伊月。
その揺るぎない瞳の前に、俺は迷わずスッと手を出した。
「イヤ、そういうのはちょっとイイです……」
「私か!」
その後俺たちはすっきりとした気持ちでいつもどおりごはんを食べて、一緒に寝て、朝には抱き合った状態で目が覚めた。
そんなふうにして、ゴールデンウイークが明けても、従来どおりにソフレ関係が継続している。
「俺はお前への気持ちを、恋愛感情だと認定した。俺は伊月が好きだ。女として」
伊月がショックを受けたのが、色の消えた顔から伝わってきた。
「嘘……」
「嘘じゃない」
「いや、だって」
伊月はもう思考を切り替えたらしく、一転俺に抗議の意志を向ける。
「先輩今まで一瞬もそんな素振り見せなかったじゃないですか。それなのに急にそんなこと言うのおかしくないですか?」
さすが、考えが現実に即しているからド正論にたどり着くのが早い。
「実は俺もそう思っていた」
「やっぱりそう思ってたんじゃないですか!」
「そう思ってはいたけど、でもな、どう考えても、好きでもない奴に無意識でキスするなんて非常識なことを、俺がするわけがないんだよな」
「は?」
「は?」
「理由それだけですか?」
「とりあえずは」
「いやいやいやいや、理雄先輩、恋愛を舐めないでください! 恋愛っていうのはですね!」
伊月は体ごとこちらに向き直し、ソファに両手をついて身を乗り出す。
「もっとこう、片時も離れていたくなかったり、毎晩でも電話して声を聞きたかったり、愛を伝えてほしかったりですね、会えないと淋しくて、不安で、姿を見るだけで胸がときめいて、目の前にいたら抱きしめたくなって、そういう気持ちを自分で制御できないくらいになって、苦しくて、切なくて……そういうやつですよ!」
「そう言われると、そういうのはないな」
「ほら、ないじゃないですか! 先輩のは恋愛じゃないです! 私は認めません。絶対認めない」
「そんな全力で否定しなくても……」
「だって、先輩が私のこと好きって言ったら」
そこまで言うと伊月は顔を歪めて、
「……もう一緒にいられなくなる。そんなのやだ……、先輩を、失いたくない――!」
両手で顔を覆って、泣き出してしまった。
そんなに? ――と、別に答えが分かれたからといって、すぐに離れなきゃいけないわけでもないのに、伊月が泣くほどのことか? と、俺は不思議に思った。
同時に少し呆れたし、不謹慎ながら、面白い奴だなとも思ってしまった。
「あのさ、泣くほどだったら、俺のこと好きになれば?」
「だから好きだって言ってるじゃないですか……!」
「あっそ……」
伊月にとって、好きと恋愛感情は別物なんだろう。例のZee様の話からも、それはわかっている。
俺はたぶん逆で、恋愛感情に切り替わる境界が曖昧なタイプなのだ。
思い返せば最初から伊月をかわいいと思っていたし、居心地が良かったし、抱きしめることに抵抗もなくて、当たり前のように愛情もあった。
それが最初から恋愛感情だったかと聞かれたら、おそらくそうではなかっただろうし、今もその気持ちが急変したとは思わない。
それでも、俺の中では、この結論に至った明確な理由があった。
あの夜、妙に他人行儀な伊月を見た時に、俺はそれを、もどかしく思った。
違うだろ、って。なんで俺に遠慮するんだって。
もっと思いきり頼って甘えればいいのに、こんな時に、そんなふうに、鈴鹿家の長女に戻って他人みたいに線を引くなって。
それはつまり――。
「俺も、お前と同じだ、伊月。お前にとって一番近しい存在でありたいし、お前もそうであってほしい。でもそう思った先でああなったということは、気持ちを分類するなら、恋愛だと思う」
「そんなの、結局結果論じゃないですか……っ」
伊月は反論しながら、止まらない涙を拭う。
「結果がすべてだろ、こんなのは。だからな、俺はお前への気持ちをとりあえず恋愛感情に認定するけど」
「とりあえず認定してる時点でなんか違うぅ」
「いいからいったん認定させてくれ。で、その上で、これまでどおりのソフレ関係でいる。何も変わらない。だから余計な心配するな」
「それは先輩が伊月ちゃんを好きだから離れなくて済むようにそう言うんでしょ? でもそんなのむりです。続くわけがない。だって、好きになったら絶対に手を出したくなる。もし私がそれを拒否することが続いたら……先輩、私を、嫌いになるでしょう?」
顔を上げた伊月は、涙で頬をいっぱいに濡らし、ぐしゅぐしゅの目に悲しそうに諦めを湛えて、それでも懇願するように、俺を見つめる。
「は? あのな……」
そういうことをしないって話をしてんだよ――そう言い掛けて、でもその伊月の目が、あまりにも切実で、絶望に満ちていて、自分の認識と目の前にあるものとのギャップに、何かがおかしい、と、気づく。
……まてよ。
さっき伊月は、「先輩ならいいと思わなくもない」けど「避けられるなら避けたい」と言っていた。
つまり、逆に言うと受け入れることもできるくらいの気持ちはあるということだ。
それなのに、今度はそれを拒絶して関係が終わることを本気で恐れている。
しかも、拒否することが「続いたら」……?
伊月にその気がないのに何度も求めたら、俺のほうが嫌われるのが普通じゃね……?
なんか、変だな……?
あ、もしかして――。
考えているうちに、あることに思い当たる。
その途端、頭の中で何かが連鎖するように噛み合っていく気がした。
もしかして、伊月はこれまでずっと、自分の本心を押し殺して相手の欲求に応えてきたんじゃないだろうか。
そうしないと相手が離れてしまうから?
空気を読んで拒絶することができなかった?
それとも応えることを強いられた?
――わからないけど、伊月はおそらく、したくない側の人間なのだ。
だから物理的に受け入れられなくはないけど、感情的には回避したいと思っていて――。
そうか、だからこそ、それがない関係を求めて、俺みたいな奴を探していたのか。
思えば伊月は最初からそう言っていた。ソフレだったら、何かに応えようとせずに安心できる、と。
ソフレにこだわって健全な関係を築こうとするのは、恋愛とは別の強い絆を持つボーイズグループへの憧れからだと思ってたけど……違う。逆だ。
体の関係から逃れたいからこそ、健全な絆を欲して、それを当たり前に持っているボーイズグループを羨ましく思い、憧れたんだ。
そう考えると、俺の気持ちが変わってしまうことが、こいつにとっては俺が思うよりも大問題なんだということも、納得がいく。
「伊月……」
その不安を拭ってやりたいと思い、動かしかけた手を、思いとどまってぐっと握りしめる。
今はそんな雑な行動に出るのではなく、互いが納得できるように、言葉できちんと伝えないといけない。
「俺は離婚のトラウマがあって、仮にお前から迫られたとしても、応えようと思えるかわからないくらいだ。だからお前が恐れているようなことは起こらない。少なくとも、俺は求めてない」
伊月の瞳は少しだけ和らぎ、それでもまだ半信半疑に、俺の本心をうかがおうとする。
「お前が言うように、まだはっきり恋愛感情を自覚できていない部分もある。でも俺はああいうことを、しないというよりは、生理的に拒絶するような人間だ。それなのにしたんだから、潜在的に気持ちがあるんだろう。この前はそんな可能性を考えていなかったから事故が起きたけど、自分で把握していれば、無意識に繰り返すことはないと思う。だからもし、俺が恋愛感情を持ってもお前が何も変わらないでいてくれるなら、この先も今までどおりの健全なソフレ関係でいられる。――俺はそう結論づいた」
伊月はしばらくはうまく呑み込めない様子で、少しだけ納得いかなそうな顔をしていた。
それから、ゆっくりと視線を下げて俯くと、両手でぎゅっと、俺の服の裾を掴んだ。
「本当に? ……無理してないですか?」
「無理してない。むしろ、そういうことをせずに済むほうがありがたい」
それでもまだ迷いがあるのか、伊月は黙り込む。
これ以上何も言えることがない俺は、黙って伊月の心が追いつくのを待った。
「ずっと……聞けなかったんですけど……」
遠慮がちな声。
「何があったんですか? 前の奥さんと……」
ドクンと心臓が不穏な音を立てる。
言いたくない。
知られたくないのではなく、言葉にしたくない。
でも、言うのが近道だということも、同時に理解している。
この先も伊月と居ようと思うなら、共有しておいたほうが、お互いに安心できるだろう。
強く耳を打つ鼓動を、ぐっと飲み込む。
そして、光景を思い出さないよう努めながら、口を開いた。
「――夜中に、なんか気持ちいいなと思って目を覚ましたら、上に……裸の妻が乗ってた」
伊月が息を呑むのがわかった。
空気が張り詰める。
胸の辺りに込み上げる不快感を抑えようと、思わず口元に手を当てる。
「……嫉妬の感情とか、暴力的な意志や、甲高い怒鳴り声、性的な視線や要求――で、フラッシュバックする」
もっと前段の関係性から順を追って説明しないと伝わらない、そう思いながらも、これだけ伝えるのがやっとだった。
服の裾に加えられていた力が、緩んでいく。
きっと引いただろう。
十年以上も引きずるにはあまりにくだらなく、男のくせに情けなくもあって――。
「いや、夫婦なんだから仕方ないだろって、気持ちよかったんならいいだろって、思うかもしれないけど……」
それでも俺は、あのおぞましい出来事に耐えきれなくて、性器を切り落としたいとすら思った。
伊月のほうを見られないまま言葉に詰まっていたら、急にふわりと甘い匂いが漂った。
それに気づくのが早いか、首に回された腕に引き寄せられて、体が傾く。
そのまま、慣れた感触の体に、きつく抱きしめられた。
「いいわけない」
迷いのない口調で、伊月は断言する。
「それは尊厳の問題です」
その言葉に驚いて、俺は何も反応できないまま、ただ茫然とした。
「辛かったですね、先輩……」
伊月は俺の頭を撫でながら慰めるように言う。
それから肩に顔をうずめると、抱きしめる腕に力を込め直して――。
「……悔しい……ッ」
声を掠れさせながら、泣きそうな声で怒りを滲ませた。
ああ――。
俺は伊月を強く抱きしめ返した。
やっぱり伊月が好きだ。
ただただ、そう強く思った。
この気持ちが恋愛か、恋愛じゃないか、そんなことはどうだっていい。
ただ、伊月という替えの利かない存在を、この先も手放したくはない。
こんなにも強い気持ちで一緒にいたいと思える人間には、後にも先にも二度と出会えないだろう。
「……伊月」
腕を緩め、きつくしがみついたままの伊月の、柔らかな髪を撫でた。
「伊月、ありがとう。ごめんな、変な話をして」
伊月は黙ったまま、ゆっくりと体を離す。
そして、浮かせていた腰をソファに下ろすと、正面からじっと俺の目を見つめた。
もう涙は影を潜めていた。
代わりにその目に宿っているのは、何やら強い意志。
真剣な顔をして、これから大事なことを言うのだと、覚悟を込めた瞳で――伊月は口を開く。
「先輩、大丈夫です。これからは、私が先輩を守りますから」
思いがけないその言葉に、一瞬呆気に取られた。
が、その伊月の意志を受けて、思い浮かんだ返事は一つしかない。
表情を変えることなく反応を待つ伊月。
その揺るぎない瞳の前に、俺は迷わずスッと手を出した。
「イヤ、そういうのはちょっとイイです……」
「私か!」
その後俺たちはすっきりとした気持ちでいつもどおりごはんを食べて、一緒に寝て、朝には抱き合った状態で目が覚めた。
そんなふうにして、ゴールデンウイークが明けても、従来どおりにソフレ関係が継続している。
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