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第5章

2 緊急事態③

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 駒形橋こまがたばしを渡って墨田区役所を抜けて、向島むこうじまICから首都高に乗った。
 土曜の夜、二十時を回った高速道路は比較的空いていて、このまま目的地まで安定した速度で進めそうだ。

 緑の標識と灰色のフェンス。等間隔に並ぶ街灯。
 代わり映えしない景色が延々と後ろに流れていく。
 事故の知らせの直後だから神経が過敏になっているのだろう、怖いからゆっくりでいいと伊月が言うので、安全な速度を守りながら左車線を走行した。

 車に乗せる時ってろくな時じゃねぇな、と、前回の推し活事件を思い出しながら考える。
 普段は俺たちの間に深刻な空気が流れることなんてほぼないのに、あの日と今日は、伊月も俺も、一人では消化できないものを抱えている。
 それでも、支え合うことはできるんだろう。
 万全じゃなくても、思いやることはできる。
 あの日の伊月がそうだったし、今日の俺もそうだ。
 崩れそうな伊月を見ていたら、さっきまでの悩みは頭から消えた。

 沈黙をかき消すために流しているFMラジオでは、男性のパーソナリティーがリスナーからの投稿を楽しそうに読んでいた。
 内容はあまり真面目に聞いていなかったが、緩いテンションの明るい声色は、黒く塗りつぶされた空の下を不安の根源へと向かって進んでいく重苦しい気持ちを、少しは和らげてくれているように感じられた。

 それにしても、このまま俺の車=不穏みたいなイメージがつくのも嫌だし、今度どこか遊びにでも連れていってやろうかな。
 初夏の気持ちのいい季節が近いから、土日を使って一泊で――そういうとき、一緒に寝るのがデフォルトのソフレは変な空気にならずに誘えるから気楽でいい。

「ごはん、食べていいですか?」
 伊月は足元に置いていた袋を、カサカサという音とともに持ち上げた。
「食べられそうか?」
「わからないけど、気が紛れるし元気出るかもしれないから……」
「そうだな、食え」
「先輩は?」
「俺は病院で待ってる間に食べるからいい。上のほうがお前のだから」
「はい」

 皿を一つ取り出して袋を足元に戻し、伊月はラップを開けた。
 冷えたご飯の匂いとともに、チリソースと炒めた挽き肉がふわっと香る。
「スプーン入ってただろ」
「ありました。はぁ……気乗りしないのにおいしそう」
 その言葉に、思わず笑いそうになったのを、なんとかこらえた。

 カチャカチャとスプーンの音がした後、少しの間があって、伊月がうん、と言った。
「めっちゃおいしい」
「そうか」
「なんだろうこれ、何の香りですか? なんかスパイスっぽい……」
「チリパウダーだろ」
「ちりぱうだー……。いい香りでさっぱりしててトマトの酸味もあって、食欲ないのに食べやすい……」
「偶然だけどよかったな。冷たくないか?」
「まだちょっとあったかいです。はぁ……。おいしい」
 ため息と感想のアンバランスさがおかしくて、今度はこらえられずに笑ってしまったが、それを聞いた伊月もつられたのか笑い声をこぼした。

「なんで先輩こんなに何でも作れるんですか?」
「なんでって……レシピ見てるからじゃね?」
「え?」
「料理なんてレシピがすべてだろ」
「ええー! 違いますよ! 私はレシピ見てもこんなにおいしく作れません!」
「え、なんでだよ」
「いや私が聞きたい」
「材料と作り方を見たら仕上がりの味がイメージできるだろ? それでおいしそうだなと思ったものは、そのとおりに作ればおいしい」
「すみません、何言ってるか全部わかりません」
「あっそ……」
「はぁ、いいなぁ、自分の手でおいしいものを生み出せるって」
「やればいいじゃん」
「天才が言うやつ」
「レシピがまずいときもあるから、そこだけ気をつければいい」
「レシピがまずい。初めて聞く言葉」
 伊月が笑う。 
 どうやら見事に気は紛れたらしい。

 やっぱり暗い顔をしているのは伊月らしくない。
 いつでもくだらないことで感情豊かになって、好きなように言いたいことを言って、幸せそうに笑っていてほしい。
 そう思ってしまうのは、よくある“男のエゴ”なんだろうか。

 ラジオは夜のドライブにぴったりの、どこか儚げでありながら疾走を駆り立てるような、ジャジーな楽曲を流し始めていた。
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