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第5章

2 緊急事態①

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 冷水に浸けたレタスをザルにあげて水気を切り、フライパンを熱し始めた。
 サラダ油をひと回し入れ、挽き肉とみじん切りにした玉ねぎを炒めながら、時計を見る。
 もうすぐ伊月が来る。

 昨日の今日だ。
 決して良いとは言えない空気で別れたまま、休日に入ってしまった。
 伊月からは何も説明がなく、こっちからも何を言うべきかわからず、添い寝に来る予定はどうするのかと思っていたら、午後になって「今夜八時くらいでいいですか?」というメッセージが届いた。
 ……気にしてないのか?
 ということは気になりつつも、断るのもなんか違うだろうと思ったので、「可」と返信した。

 あんな別れ方をしたのに、普通に来るって言うんだから、わからん……。
 怒ってるように見えたのは俺の気のせいだったんだろうか。
 いや、席への戻りが遅くなったことを怒っていたのかもしれない。
 でもその割には、伊月らしくない当たりの強さがあったような気がした。
 嫉妬、のような感情が滲んでいるようにも見えた。
 ――俺の苦手な感情だ。

 伊月があんな態度を見せるとは思っていなかったから驚いたし、怯えすら感じてしまった。
 いやでも、本人が違うって言っていたし……。
 たったあれだけのやり取りで邪推するのは、伊月に対して失礼だろう。

 そう自分に言い聞かせている側から、十年以上も前の、薄らいでいた記憶が蘇ってくる。

「なんで遅くなったの⁉ 仕事でこんなに遅くなるはずがない。浮気してるんでしょ!」
 仕事でトラブルがあって、対処に追われて終電で帰宅する日が続いた時だ。家に帰り着くやいなや、ヒステリックな声で怒鳴られた。
「私を抱かない分、よそで発散してるんでしょ!? 正直に言いなさいよ!!」

 数年間聞かされ続けたキンキンと耳の奥に響く甲高い声は、俺の中から情さえも奪い、代わりに拒絶心と軽蔑を植え付けていく一方だった。

 事あるごとに浮気を疑って責め立てる相手の、あまりの被害妄想に引いてしまい、きちんと向き合おうとしなかった俺にも原因はあるのだろう。
 だが、話を聞く気がない相手と話をすることほど無駄な時間はないし、そういう人間とうまくやれるわけがない。
 どんな事情があれ、最後にはこっちが謝って事を収めるしかないのだからと、過程を省いて「もういい、悪かった」などと適当に終わらせるのが常だった。

 俺は元来の気質としては気が長い方だが、だからこそ、思い込みだけで怒鳴り散らしてくる相手の気持ちが全く理解できず、ただただ苦痛だった。
 ただただ苦痛を積み重ね続けた結婚生活だった。
 そして――。

 いや、これ以上は思い出したくない。
 あの金切り声の記憶だけで、もう吐き気がしている。

 伊月があんなふうになるとは思いたくない。
 でも、あの経験以来、あの女を連想させる言動に触れると、どうしても重なってしまうのだ。
 もう二度とあんな目には遭いたくないという拒絶心から、ずいぶんと手前で線を引くようになった。

 もし、もしこの後来た伊月が昨日のことを引きずっていたら――。
 理不尽に怒りをぶつけてくるようなことがあったら――。
 俺は、この先伊月といられるだろうか。
 それどころか、この後の時間を過ごすことすら、ままならないかもしれない。

 タコスミートを作り終えて使い終わった調理器具を洗っていたら、インターホンが鳴ったので、画面に映ったエントランスの伊月の姿を確認してから解錠ボタンを押した。

「こんばんは~」
 玄関にやってきた伊月は、いつもどおりの笑顔を見せた。
 その様子にひとまずホッとする。
「めっちゃいい匂い。今日ごはん何ですか?」
 鍵を閉めて靴を脱ぎながら、スリッパを出してやった俺にわくわくと目を輝かせて聞いてくる。
「今日はタコライス」
「タコライス!! わ~い!」
 テンション高。
 どうやら完全に俺の考えすぎだったようだ。

 でも万一の可能性もあるし、後でちゃんと気持ちを聞いてみよう。
 不安の芽は早めに摘んでおきたい。
 それに、たとえあれが嫉妬の表れだったとしても、伊月とあの女では内容が違うかもしれないし、話すことで互いの気持ちを知ることができれば、解決するかもしれない。
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