砂丘

金合歓

文字の大きさ
上 下
2 / 3

2

しおりを挟む
 男は喜びに浸り、うつ伏せた姿勢のまま身じろぎもしないでいた。背にある砂丘の砂粒が時折静かに転がる音を波斯ペルシャの踊り子の銀の鈴に例えてみたり、重たい品々を運ぶ隊商がよじ登ってくる様子を想像してみたりして、ほくそ笑みもした。
 けれども、夢の種はすぐに尽きてしまい、男は窓の外を見やることしかできなくなってしまった。
 丸いガラス球に入った街路灯の光。細かく赤い葉々を繁らせた、背の高い並木。褐色と真珠色の煉瓦を交互に並べた鋪道。
(ああそうか、そんな時刻か)
 人影のない通りを見て、いや、人影のない通りを一人歩いてくる若い女を見て、男はそう思った。
 毎晩、太陽が大地の深くに沈み切った時刻に、彼女は男の下宿の前を通り過ぎていく。周りに人がいる場面に遭遇したことがないので比べようがないが、並の女よりは幾分背が高いように思われる。齢は18,19といったところだろうが、舞台役者のような、輪郭が濃く見える化粧をしているので、40くらいの齢にみえてしまう。この町に舞台など洒落たものはないから、おそらく男相手の仕事でもしているのだろう。
 彼女は月や街路灯の明かり、それに木々の影にまみれて、すぐそこまでやってきた。いつもの夜ならば、男は布団にもぐり込んで、女が、そして夜が過ぎ去るのを待つのだが、今夜に限ってはそんな風に時を費やすのが愚かに思えた。

「やあ、そこのお嬢さん!マドモワゼール!セニョリータ!」

 男は窓を開け放ち、女に呼び掛けた。

「君のガウン、素敵なアラベスク模様だね。もしかして、君、砂漠なんかに興味があるかい?」

 女は下宿のちょうど前に立ち止まり、2階にある男の部屋を見上げた。彼女の顔は案外と彫りが深く、高い鼻の影なのか、深い眼窩の影なのか、あるいは黒いアイシャドウをしているのか、目の周りがやけに暗く見えた。あたかも死神か亡霊のようにさえ思われるくらいだ。それでも橙色の口紅を厚く塗った彼女の唇が微笑を送ると、生の力がみなぎり、それを受けた男の瞳は輝くのだった。

「こんばんは。」

 女の声は、並木の赤い葉々が互いに擦れ合う音によく似ていた。

「砂漠は好きよ。海よりかは、ずっと。」

 それを聞いて、男は受けた微笑をそのまま女の方へ返した。

「それならちょうどいい。今、僕の背中の上に砂丘が一つあるんだ。ね、よかったら見に来ない?」

「あら、初対面の男の方の部屋には、さすがに上がれないわ。職場で禁止されているの。」

「そうかい。じゃあ、月をごらんよ。」

 男が指さした先、黒々とした天に掛けられた金の鏡を見て、女はいささか驚いたようだった。砂丘を背負って寝転ぶ男の姿が、確かにそこに映り込んでいたし、女自身の暗い目元も、その景色の上に重なるように映っていた。

「本当に砂丘だわ…それに、あれは私の目?駱駝の影みたいに、あなたの砂丘に乗っかってるのね。」

「ふうん、駱駝の影か…僕は、この砂の山を背負った僕自身が駱駝みたいだって思ってたんだけど。それはそうと、やっぱり君の目で直接見てほしいな。」

「それじゃ、あした。あしたの昼間に、友達と一緒にあなたの部屋に行くわ。ナイチンゲールみたいな声の友達なの。あなたの砂丘にぴったりよ!」

 そう言うと、微笑を湛えたまま彼女は軽やかに身をひるがえし、歩き去っていった。
 男は後姿を見送りながら、喜びで胸をいっぱいにさせた。そして、その胸の内で強く思った。
 僕の心は体を抜け出して天に舞い上がりそうだ。ああ、本当に体なんか要らない気分だ、と。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】君の世界に僕はいない…

春野オカリナ
恋愛
 アウトゥーラは、「永遠の楽園」と呼ばれる修道院で、ある薬を飲んだ。  それを飲むと心の苦しみから解き放たれると言われる秘薬──。  薬の名は……。  『忘却の滴』  一週間後、目覚めたアウトゥーラにはある変化が現れた。  それは、自分を苦しめた人物の存在を全て消し去っていたのだ。  父親、継母、異母妹そして婚約者の存在さえも……。  彼女の目には彼らが映らない。声も聞こえない。存在さえもきれいさっぱりと忘れられていた。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

骸骨と呼ばれ、生贄になった王妃のカタの付け方

ウサギテイマーTK
恋愛
骸骨娘と揶揄され、家で酷い扱いを受けていたマリーヌは、国王の正妃として嫁いだ。だが結婚後、国王に愛されることなく、ここでも幽閉に近い扱いを受ける。側妃はマリーヌの義姉で、公式行事も側妃が請け負っている。マリーヌに与えられた最後の役割は、海の神への生贄だった。 注意:地震や津波の描写があります。ご注意を。やや残酷な描写もあります。

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...