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16 本当の記憶
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「臭うな……」
常葉は鼻を鳴らしてそう言うと、にやりと笑んだ。常葉と保見とは、町や村を1つずつ消し去りながら北へと飛んでいるところだった。常葉は保見の手を引いて、すぐ下に見えていた山へと降り立った。
「保見、人間どもが来るぞ。オレ達を殺しに来る……」
常葉は面白くなってきたと言わんばかりの表情で言った。
「保見、お前も狙われるかもしれん……奴らは危険だ。躊躇なく殺せ。話はするな。奴らは心を惑わす術に長けている。……まぁ、オレから離れなければ危険は無いさ。いいか? ずっとオレのそばに居るんだ。絶対に離れるなよ?」
保見は怯えた表情で言った。
「さっき……町を消しちゃったから、怒ってるの?」
常葉はそっと保見の頭を撫でると、
「心配いらない」
と優しく言った。
「邪魔な奴らは排除すればいいんだ。お前の力に敵う者などいない……」
そうしている間に、ひらひらと黄色の蝶がどこからかふわりと飛んできて、保見と常葉の周りをくるくると舞い始めた。
「人間共の式神だ。触れるな」
常葉が保見に注意した。蝶はふわりと保見に近づくと、追い払おうとする保見の手を掻い潜り、そっと保見の胸元の青いとんぼ玉にとまった。そして、まるで保見に何かを語りかけるかのように静かに羽をパタパタとさせると、すっと飛び立った。保見は無意識のうちにその蝶を追いかけて走りだしていた。
保見が駆けだすのに気付くと、常葉は「待て」と叫び、保見を引き止めようとしたが、次の瞬間、二十人ほどの退治屋が保見と常葉を遮るように立ちはだかった。手には錫杖や数珠、槍等各々の武器を携えている。
「なるほどな」
常葉はそう言うと軍団めがけて突進した。
はぁはぁと息を弾ませながら、保見は黄色い蝶の後を追った。なぜだかその後を追わずにはいられなかった。保見が大切にしていた青いとんぼ玉の首飾り。保見にはそのとんぼ玉がいつから自分の首にかかっていて、どうしてそんなに大切なのかが分からなかった。しかし、確かに大切なものであるということだけは知っていた。とんぼ玉については常葉に聞く気にもなれず、ずっと保見のなかでの疑問として、今までもやもやしていたのだ。自分の記憶はまだ完全に戻っていないのではないか……保見は心のどこかで感じていた疑問に、この蝶が答えてくれるのではないかと、直感で感じ取った。
蝶はひらひらと崖の下へと下っていく。保見は転ばないように慎重に崖を下って行った。崖の下の林を抜けると、一面が花畑の開けた土地に出た。蝶はその花畑へ溶け込むように飛んで入ってしまい、他の蝶たちと見分けがつかなくなってしまった。赤、黄、白、紫と、様々な色の、様々な種類の花が咲き乱れ、様々な蝶たちが飛び交っていた。木々が茂る森の中で、この一帯だけが陽の光が差し込む植物達の楽園となっているようだった。どこかこの世のものとは思えないほどの美しさに溢れていた。
「ほみちゃん」
花畑の中から、声がする。穏やかな、心地良い声の響きであった。保見は声のほうへ顔を向けると、一人の老人がにっこりと花畑のなかから微笑みかけている。
「きっと来てくれると思ったよ。わしは、柳の師匠の麒一じゃ。覚えてないか?」
保見は首を横に振って、不思議そうにこの老人を眺めた。
「そうか……わしの記憶は消されてしまったらしいのぅ……。保見ちゃんは賢い子じゃから、もう感付いているじゃろうが……封印されておった保見ちゃんの記憶は、まだ完全に戻っていないのじゃ……その証拠に、その首飾りにまつわる記憶じゃったり、わしのことを思い出せておらん……。わしのこの顔に見覚えはないか? どこかで会ったことがあったような……」
保見は大きく頷いて、
「あなたの声は、聞き覚えがあります……。どこか、懐かしい……」
保見はそう言うと微笑んだ。麒一はそれを聞くと、満足そうに、
「そうかそうか」
と頷いた。
「本当に、可哀想なことをしてすまん。保見ちゃんにこんなひどいことをするなんてな……しかし、常葉も柳も、保見ちゃんのことを想ってしたことじゃ……許してやってほしい……」
「常葉って、せんせいのことでしょ?」
「あぁ、そうだ。でも、今の常葉はお前の言う先生じゃない……大妖怪の神羅だ。お前の先生は、神羅の中に封じこまれておる……」
麒一は手招きした。
「話をするよりも、確かな方法で伝えよう。保見ちゃんの記憶の封印を……植え付けられた間違った記憶を……全て解いて、本当のことを思い出すんじゃ……」
「また私の記憶を改竄するつもりじゃ? 私、もう誰も信じられない……だって……」
「あぁ、そうじゃろうそうじゃろう……分かるよ。本当に済まない事をした……じゃが、もう大丈夫じゃ。保見ちゃん、術を解くのは、保見ちゃん自身でやるのじゃよ。自分で全てを解くんじゃ。わしはその術を教えに来たのじゃ。柳が保見ちゃんに教えなかった術……記憶術と忘却術の巻物がここにある。保見ちゃんならすぐに習得できるはずじゃ」
麒一は巻物を1本ずつ両手に持って言った。そして保見を真っ直ぐに見つめながら一度力強く頷いた。保見もそれにこたえるかのように一度しっかりと頷くと、花畑へと一歩を進めた。
保見は麒一から二本の巻物を受け取ると、花畑に座り込んで、巻物を広げ、読み始めた。
「分からんことがあれば聞いてくれ。恐らく、保見ちゃんなら読むだけですぐに習得できてしまうじゃろうが……」
「あの……私……怖いんです」
保見は巻物に素早く目を通しながら、顔をあげずに言った。
「本当のことを知って……私は耐えられるのでしょうか……? 柳さんが言ったように、本当のことを知らない方が幸せなんじゃないかって……」
「現実は時に残酷なこともある」
麒一は優しく言った。
「辛いことなど、忘れてしまえればなぁと、何度も思ったことがあったわい。わしもかれこれ、八十年以上生きておるとな……それはもう、うんざりするようなことも沢山じゃった。後悔は沢山ある。しかし、そんな嫌な思い出も含めて、わしはわしなのじゃ。わしはわし自身を放棄することも、忘れることも、できない。それをしてしまえば、全てが嘘になる。それに……」
麒一は夢中で巻物を読む保見を見下ろしながら言った。
「保見ちゃん自身は本当の記憶を欲している。今こうして、食い入るように巻物を読んでいるのが証拠じゃ。生きていると、色んな人が色んなことを言うじゃろう。じゃが、最終的にどうするか決めるのは自分じゃ。他人の為に生きるのではない。自分として生きるのじゃ。本当の幸せは自分で決めるものじゃ……誰かに与えてもらったり、決められるものではない……。保見ちゃんは、保見ちゃんとして、保見ちゃんらしく生きるべきじゃ」
保見は麒一の言葉をしっかりと聞きつつも、一本目の巻物を読解し、二本目の巻物を広げた。
「私、今頭の中じゃ、色んな不安なこと考えてるの。本当の記憶を取り戻したらもしかしてひどい過去があって、立ち直れなくなっちゃうんじゃないかって……。でも、この巻物を読むことを止められないの。私の本能が求めているの。本当の記憶を取り戻すことを……すぐにでも知りたがっているの……本当のことを……。だから、私、取り戻す。記憶を、自分で」
麒一はにっこりと頷いて保見を見守った。そして保見が2本目の巻物を読み終えると、静かに尋ねた。
「何か分からない部分はあったかね?」
「いいえ。大丈夫です。自分で……できると思います」
麒一はにっこりと頷くと、
「本当に賢い子じゃ」
と言って、そっと保見の頭を撫でた。
「頑張るんだよ、保見ちゃん。きっと大丈夫。さてと……わしは行かねばならん……」
麒一は保見を残し、花畑を去ろうと歩き出した。
「どちらへ行かれるのですか?」
振り向いて保見は尋ねた。麒一は振り向かず、保見に背中を向けたまま笑い声を上げると、右手を振りながら森の中へと消えてしまった。保見はなぜか胸騒ぎがした。急いで記憶を取り戻さなければと、そう思った。正座をして、目を閉じて、保見は意識を集中した。本当の自分を取り戻すために、保見は自分にかけられた忘却術と記憶術を解く為に、霊力を練り始めた。
「さてと……やっとお出ましだ。兄弟子さんよ……」
常葉は、足元に倒れている、結界師の一人を蹴り飛ばして脇へよけると、真っ直ぐに柳の方へ歩いて行った。総勢千人超の仲間たちの骸が折り重なって、敷物のように地面を覆っていたその中に、柳は姿を現した。その表情は険しく、怒りの感情を必死に押し殺しているようだった。
「わざわざ死ににきたの? まぁ、オレと保見を引き離したのは上手くいったみたいだけど……どうせ保見も後で殺すつもりだったからね……記憶を取り戻してそっち側についたとしても何の問題も無いね……」
常葉は挑発するように意地悪く笑った。
「それにしても……無駄死になんて可哀想だね……この子たち、ただの噛ませ犬なんでしょ? おおかた、オレの霊力を少しでも消耗させて、君が戦いやすくしようって計画だろうけど、これっぽっちの実力じゃ、いくら束になってかかっても無駄だよ」
柳はさっと右手に携えた錫杖を天高くかざした。その瞬間、雷獣に仕えていた妖怪達が常葉の周りを取り囲んだ。
「ははっ!」
と常葉は笑い声を上げた。
「何だ、人間が駄目なら、妖怪をけしかけようってのか? 君たちも馬鹿だね……人間側につくなんて……全員殺す……」
常葉は両手を高く上げて叫んだ。
「君たち、雷獣の配下の妖怪共だろう? 雷獣がいないってことは、大将を殺されて人間どもに服従したってところだろうね……今君たちの大将と同じところへ送ってあげよう……この雷の術でね!」
そう言い終わると、天が急に黒く曇って、渦を巻いた。バチバチっと閃光を放ったかと思うと、常葉の真上から太い稲妻が一本、地表へと伸び、地面がえぐれ、どかんっという轟音が山中に響いた。
落雷によって巻き起こった砂埃が晴れると、常葉を取り囲む妖怪達は依然そのままそこにあった。柳はにやりとして常葉を眺めた。
「……おのれ……貴様……」
常葉の足元は大きくえぐれ、常葉の着物と髪が黒く焦げて煙が立ち上っていた。一瞬よろけたが、すぐに態勢を立て直して、常葉は震えながら柳を恐ろしい表情で睨みつけた。
「無駄死になんかじゃない……僕の仲間たちは君と戦いながら、君に気づかれないようにうまく結界を張ったのさ。君はその結界内から外へでることは難しいだろうね……。君の攻撃も、その結界の外へは届かない……だからさっきの雷は結界内にいる君自身に落ちたんだ。どうだい? 流石に自分の渾身の一発となると、人間の術に比べて効くんじゃないか?」
「うるさい!」
常葉は怒鳴った。先ほどの一発で、相当頭にきたらしい。呼吸を乱し、肩で息をしながら柳を睨みつけた。
「こんな結界など……本気をだせばすぐに崩せる……いいか? この常葉の皮を破って本当の姿になれば、オレの力はこんなものじゃない……」
「それはどうだか……」
柳は身構えてそう言うと、挑発するように笑って見せた。
一面の花畑。降り注ぐ陽の光の中、保見の堅く閉じられた瞳から、一筋の涙が光を受けてキラキラしながら、みずみずしい桃色の花の上に落ちた。今、保見は、全てを思い出したのだった。
遠くでどかんっという轟音が聞こえた。それは地響きとなって、保見がいる花畑までつたわり、辺りの花々を震えさせた。何かが起きている……きっと神羅と人間がたたかっているのだろう……そう思った。
恐れていた不安など、どこかへ消えていた。今の自分はどうすべきか……保見は記憶を取り戻すと驚くほど冷静に考えていた。今までの自分を、何の戸惑いも無く受け止めていたのだった。それまでの疑問も全て消え去り、やっとしっくりきたような、晴れ晴れとした気持ちもあった。しかし、常葉と神羅のこと、柳のこと、さっきの麒一さんのこと、自分が何かしなくてはという思いが、焦りが、保見の心を揺さぶっていた。
常葉に対しても、柳にたいしても、そして神羅に対しても、不思議に保見は怒りや恨みは感じなかった。それぞれが皆、保見を想ってしたことだった。それを保見自身は望んでいなかったにしても、憎むことはできなかった。
「先生は、私に普通の人間として生きろと言ってくれた。柳さんは、人間として修行をして、神羅を倒すべきだと言っていた。神羅は、人間を超越した存在となって、人間を支配して生きよと言ってくれた……。私は……私は……」
突然、花畑に黒い影が落ちた。保見が見上げると、白い虎の姿に似た、大きな妖怪が、長い毛をなびかせながら保見を見下ろしていた。獰猛そうな目、鋭い爪と牙、頭部には立派な一角……保見は一瞬息を飲んで固まった。
「ほみというのは、おまえか?」
空からその妖怪は尋ねた。低く唸るような声だった。
「はい!」
と保見は上ずった声で答える。
「やっと見つけた」
妖怪はしゅっと保見の脇へ着地すると、首で「背中に乗れ」と合図した。保見は戸惑って、後ずさりした。
「あなた……神羅?」
保見は恐る恐る尋ねた。
「違う。我は雷獣。柳に頼まれた。あぁ、そうだ。条件があったな。おまえ、本当の記憶を取り戻したのか?」
保見は黙って頷いた。
「確かめさせてもらおう。その首飾り、誰に、いつもらった?」
「先生に。常葉にもらったの。一緒に町へ出掛けた帰り道に……買ってくれたの……。その日の夜、私、記憶を封じられたの……。それで……」
「よし!」
保見の話を遮って、雷獣は頷いて次の質問をした。
「おまえはどうしたい? 普通の人間みたいに生きたいか? それとも、あの化け物の神羅と戦うか……もしくは、神羅に味方するか?」
「私も今それを考えてたの!」
「で? どうするのだ」
保見は難しい顔をして黙り込んでしまった。
「急げ。手遅れになる。今、柳が神羅と戦っている……」
「柳さんが!?」
「そうだ。常葉の体ごと、神羅を滅ぼすらしい」
「それじゃあ……先生が……死んじゃう?」
「常葉と神羅が死ぬか、柳が殺されるか、どちらかだろう……」
「嫌だ!」
保見は叫んだ。
「嫌だ! 先生が死ぬのも、柳さんが死ぬのも……どっちも嫌だよ!」
保見の身体は考えるよりも先に動いた。素早く雷獣にまたがると、
「飛んで! 先生と柳さんのところに連れてって! 急いで!」
しっかりとその毛にしがみついた。雷獣は一瞬目を丸くして驚いていたが、
「それがおまえの答えなら、連れていってやろう」
と言って、地を蹴った。空へと翔る風圧で、大量の花弁がぶわっと舞い上がった。花弁は天高くへと連なり、雷獣と保見の後に虹色の弧を描いて揺らめいた。
常葉は鼻を鳴らしてそう言うと、にやりと笑んだ。常葉と保見とは、町や村を1つずつ消し去りながら北へと飛んでいるところだった。常葉は保見の手を引いて、すぐ下に見えていた山へと降り立った。
「保見、人間どもが来るぞ。オレ達を殺しに来る……」
常葉は面白くなってきたと言わんばかりの表情で言った。
「保見、お前も狙われるかもしれん……奴らは危険だ。躊躇なく殺せ。話はするな。奴らは心を惑わす術に長けている。……まぁ、オレから離れなければ危険は無いさ。いいか? ずっとオレのそばに居るんだ。絶対に離れるなよ?」
保見は怯えた表情で言った。
「さっき……町を消しちゃったから、怒ってるの?」
常葉はそっと保見の頭を撫でると、
「心配いらない」
と優しく言った。
「邪魔な奴らは排除すればいいんだ。お前の力に敵う者などいない……」
そうしている間に、ひらひらと黄色の蝶がどこからかふわりと飛んできて、保見と常葉の周りをくるくると舞い始めた。
「人間共の式神だ。触れるな」
常葉が保見に注意した。蝶はふわりと保見に近づくと、追い払おうとする保見の手を掻い潜り、そっと保見の胸元の青いとんぼ玉にとまった。そして、まるで保見に何かを語りかけるかのように静かに羽をパタパタとさせると、すっと飛び立った。保見は無意識のうちにその蝶を追いかけて走りだしていた。
保見が駆けだすのに気付くと、常葉は「待て」と叫び、保見を引き止めようとしたが、次の瞬間、二十人ほどの退治屋が保見と常葉を遮るように立ちはだかった。手には錫杖や数珠、槍等各々の武器を携えている。
「なるほどな」
常葉はそう言うと軍団めがけて突進した。
はぁはぁと息を弾ませながら、保見は黄色い蝶の後を追った。なぜだかその後を追わずにはいられなかった。保見が大切にしていた青いとんぼ玉の首飾り。保見にはそのとんぼ玉がいつから自分の首にかかっていて、どうしてそんなに大切なのかが分からなかった。しかし、確かに大切なものであるということだけは知っていた。とんぼ玉については常葉に聞く気にもなれず、ずっと保見のなかでの疑問として、今までもやもやしていたのだ。自分の記憶はまだ完全に戻っていないのではないか……保見は心のどこかで感じていた疑問に、この蝶が答えてくれるのではないかと、直感で感じ取った。
蝶はひらひらと崖の下へと下っていく。保見は転ばないように慎重に崖を下って行った。崖の下の林を抜けると、一面が花畑の開けた土地に出た。蝶はその花畑へ溶け込むように飛んで入ってしまい、他の蝶たちと見分けがつかなくなってしまった。赤、黄、白、紫と、様々な色の、様々な種類の花が咲き乱れ、様々な蝶たちが飛び交っていた。木々が茂る森の中で、この一帯だけが陽の光が差し込む植物達の楽園となっているようだった。どこかこの世のものとは思えないほどの美しさに溢れていた。
「ほみちゃん」
花畑の中から、声がする。穏やかな、心地良い声の響きであった。保見は声のほうへ顔を向けると、一人の老人がにっこりと花畑のなかから微笑みかけている。
「きっと来てくれると思ったよ。わしは、柳の師匠の麒一じゃ。覚えてないか?」
保見は首を横に振って、不思議そうにこの老人を眺めた。
「そうか……わしの記憶は消されてしまったらしいのぅ……。保見ちゃんは賢い子じゃから、もう感付いているじゃろうが……封印されておった保見ちゃんの記憶は、まだ完全に戻っていないのじゃ……その証拠に、その首飾りにまつわる記憶じゃったり、わしのことを思い出せておらん……。わしのこの顔に見覚えはないか? どこかで会ったことがあったような……」
保見は大きく頷いて、
「あなたの声は、聞き覚えがあります……。どこか、懐かしい……」
保見はそう言うと微笑んだ。麒一はそれを聞くと、満足そうに、
「そうかそうか」
と頷いた。
「本当に、可哀想なことをしてすまん。保見ちゃんにこんなひどいことをするなんてな……しかし、常葉も柳も、保見ちゃんのことを想ってしたことじゃ……許してやってほしい……」
「常葉って、せんせいのことでしょ?」
「あぁ、そうだ。でも、今の常葉はお前の言う先生じゃない……大妖怪の神羅だ。お前の先生は、神羅の中に封じこまれておる……」
麒一は手招きした。
「話をするよりも、確かな方法で伝えよう。保見ちゃんの記憶の封印を……植え付けられた間違った記憶を……全て解いて、本当のことを思い出すんじゃ……」
「また私の記憶を改竄するつもりじゃ? 私、もう誰も信じられない……だって……」
「あぁ、そうじゃろうそうじゃろう……分かるよ。本当に済まない事をした……じゃが、もう大丈夫じゃ。保見ちゃん、術を解くのは、保見ちゃん自身でやるのじゃよ。自分で全てを解くんじゃ。わしはその術を教えに来たのじゃ。柳が保見ちゃんに教えなかった術……記憶術と忘却術の巻物がここにある。保見ちゃんならすぐに習得できるはずじゃ」
麒一は巻物を1本ずつ両手に持って言った。そして保見を真っ直ぐに見つめながら一度力強く頷いた。保見もそれにこたえるかのように一度しっかりと頷くと、花畑へと一歩を進めた。
保見は麒一から二本の巻物を受け取ると、花畑に座り込んで、巻物を広げ、読み始めた。
「分からんことがあれば聞いてくれ。恐らく、保見ちゃんなら読むだけですぐに習得できてしまうじゃろうが……」
「あの……私……怖いんです」
保見は巻物に素早く目を通しながら、顔をあげずに言った。
「本当のことを知って……私は耐えられるのでしょうか……? 柳さんが言ったように、本当のことを知らない方が幸せなんじゃないかって……」
「現実は時に残酷なこともある」
麒一は優しく言った。
「辛いことなど、忘れてしまえればなぁと、何度も思ったことがあったわい。わしもかれこれ、八十年以上生きておるとな……それはもう、うんざりするようなことも沢山じゃった。後悔は沢山ある。しかし、そんな嫌な思い出も含めて、わしはわしなのじゃ。わしはわし自身を放棄することも、忘れることも、できない。それをしてしまえば、全てが嘘になる。それに……」
麒一は夢中で巻物を読む保見を見下ろしながら言った。
「保見ちゃん自身は本当の記憶を欲している。今こうして、食い入るように巻物を読んでいるのが証拠じゃ。生きていると、色んな人が色んなことを言うじゃろう。じゃが、最終的にどうするか決めるのは自分じゃ。他人の為に生きるのではない。自分として生きるのじゃ。本当の幸せは自分で決めるものじゃ……誰かに与えてもらったり、決められるものではない……。保見ちゃんは、保見ちゃんとして、保見ちゃんらしく生きるべきじゃ」
保見は麒一の言葉をしっかりと聞きつつも、一本目の巻物を読解し、二本目の巻物を広げた。
「私、今頭の中じゃ、色んな不安なこと考えてるの。本当の記憶を取り戻したらもしかしてひどい過去があって、立ち直れなくなっちゃうんじゃないかって……。でも、この巻物を読むことを止められないの。私の本能が求めているの。本当の記憶を取り戻すことを……すぐにでも知りたがっているの……本当のことを……。だから、私、取り戻す。記憶を、自分で」
麒一はにっこりと頷いて保見を見守った。そして保見が2本目の巻物を読み終えると、静かに尋ねた。
「何か分からない部分はあったかね?」
「いいえ。大丈夫です。自分で……できると思います」
麒一はにっこりと頷くと、
「本当に賢い子じゃ」
と言って、そっと保見の頭を撫でた。
「頑張るんだよ、保見ちゃん。きっと大丈夫。さてと……わしは行かねばならん……」
麒一は保見を残し、花畑を去ろうと歩き出した。
「どちらへ行かれるのですか?」
振り向いて保見は尋ねた。麒一は振り向かず、保見に背中を向けたまま笑い声を上げると、右手を振りながら森の中へと消えてしまった。保見はなぜか胸騒ぎがした。急いで記憶を取り戻さなければと、そう思った。正座をして、目を閉じて、保見は意識を集中した。本当の自分を取り戻すために、保見は自分にかけられた忘却術と記憶術を解く為に、霊力を練り始めた。
「さてと……やっとお出ましだ。兄弟子さんよ……」
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「わざわざ死ににきたの? まぁ、オレと保見を引き離したのは上手くいったみたいだけど……どうせ保見も後で殺すつもりだったからね……記憶を取り戻してそっち側についたとしても何の問題も無いね……」
常葉は挑発するように意地悪く笑った。
「それにしても……無駄死になんて可哀想だね……この子たち、ただの噛ませ犬なんでしょ? おおかた、オレの霊力を少しでも消耗させて、君が戦いやすくしようって計画だろうけど、これっぽっちの実力じゃ、いくら束になってかかっても無駄だよ」
柳はさっと右手に携えた錫杖を天高くかざした。その瞬間、雷獣に仕えていた妖怪達が常葉の周りを取り囲んだ。
「ははっ!」
と常葉は笑い声を上げた。
「何だ、人間が駄目なら、妖怪をけしかけようってのか? 君たちも馬鹿だね……人間側につくなんて……全員殺す……」
常葉は両手を高く上げて叫んだ。
「君たち、雷獣の配下の妖怪共だろう? 雷獣がいないってことは、大将を殺されて人間どもに服従したってところだろうね……今君たちの大将と同じところへ送ってあげよう……この雷の術でね!」
そう言い終わると、天が急に黒く曇って、渦を巻いた。バチバチっと閃光を放ったかと思うと、常葉の真上から太い稲妻が一本、地表へと伸び、地面がえぐれ、どかんっという轟音が山中に響いた。
落雷によって巻き起こった砂埃が晴れると、常葉を取り囲む妖怪達は依然そのままそこにあった。柳はにやりとして常葉を眺めた。
「……おのれ……貴様……」
常葉の足元は大きくえぐれ、常葉の着物と髪が黒く焦げて煙が立ち上っていた。一瞬よろけたが、すぐに態勢を立て直して、常葉は震えながら柳を恐ろしい表情で睨みつけた。
「無駄死になんかじゃない……僕の仲間たちは君と戦いながら、君に気づかれないようにうまく結界を張ったのさ。君はその結界内から外へでることは難しいだろうね……。君の攻撃も、その結界の外へは届かない……だからさっきの雷は結界内にいる君自身に落ちたんだ。どうだい? 流石に自分の渾身の一発となると、人間の術に比べて効くんじゃないか?」
「うるさい!」
常葉は怒鳴った。先ほどの一発で、相当頭にきたらしい。呼吸を乱し、肩で息をしながら柳を睨みつけた。
「こんな結界など……本気をだせばすぐに崩せる……いいか? この常葉の皮を破って本当の姿になれば、オレの力はこんなものじゃない……」
「それはどうだか……」
柳は身構えてそう言うと、挑発するように笑って見せた。
一面の花畑。降り注ぐ陽の光の中、保見の堅く閉じられた瞳から、一筋の涙が光を受けてキラキラしながら、みずみずしい桃色の花の上に落ちた。今、保見は、全てを思い出したのだった。
遠くでどかんっという轟音が聞こえた。それは地響きとなって、保見がいる花畑までつたわり、辺りの花々を震えさせた。何かが起きている……きっと神羅と人間がたたかっているのだろう……そう思った。
恐れていた不安など、どこかへ消えていた。今の自分はどうすべきか……保見は記憶を取り戻すと驚くほど冷静に考えていた。今までの自分を、何の戸惑いも無く受け止めていたのだった。それまでの疑問も全て消え去り、やっとしっくりきたような、晴れ晴れとした気持ちもあった。しかし、常葉と神羅のこと、柳のこと、さっきの麒一さんのこと、自分が何かしなくてはという思いが、焦りが、保見の心を揺さぶっていた。
常葉に対しても、柳にたいしても、そして神羅に対しても、不思議に保見は怒りや恨みは感じなかった。それぞれが皆、保見を想ってしたことだった。それを保見自身は望んでいなかったにしても、憎むことはできなかった。
「先生は、私に普通の人間として生きろと言ってくれた。柳さんは、人間として修行をして、神羅を倒すべきだと言っていた。神羅は、人間を超越した存在となって、人間を支配して生きよと言ってくれた……。私は……私は……」
突然、花畑に黒い影が落ちた。保見が見上げると、白い虎の姿に似た、大きな妖怪が、長い毛をなびかせながら保見を見下ろしていた。獰猛そうな目、鋭い爪と牙、頭部には立派な一角……保見は一瞬息を飲んで固まった。
「ほみというのは、おまえか?」
空からその妖怪は尋ねた。低く唸るような声だった。
「はい!」
と保見は上ずった声で答える。
「やっと見つけた」
妖怪はしゅっと保見の脇へ着地すると、首で「背中に乗れ」と合図した。保見は戸惑って、後ずさりした。
「あなた……神羅?」
保見は恐る恐る尋ねた。
「違う。我は雷獣。柳に頼まれた。あぁ、そうだ。条件があったな。おまえ、本当の記憶を取り戻したのか?」
保見は黙って頷いた。
「確かめさせてもらおう。その首飾り、誰に、いつもらった?」
「先生に。常葉にもらったの。一緒に町へ出掛けた帰り道に……買ってくれたの……。その日の夜、私、記憶を封じられたの……。それで……」
「よし!」
保見の話を遮って、雷獣は頷いて次の質問をした。
「おまえはどうしたい? 普通の人間みたいに生きたいか? それとも、あの化け物の神羅と戦うか……もしくは、神羅に味方するか?」
「私も今それを考えてたの!」
「で? どうするのだ」
保見は難しい顔をして黙り込んでしまった。
「急げ。手遅れになる。今、柳が神羅と戦っている……」
「柳さんが!?」
「そうだ。常葉の体ごと、神羅を滅ぼすらしい」
「それじゃあ……先生が……死んじゃう?」
「常葉と神羅が死ぬか、柳が殺されるか、どちらかだろう……」
「嫌だ!」
保見は叫んだ。
「嫌だ! 先生が死ぬのも、柳さんが死ぬのも……どっちも嫌だよ!」
保見の身体は考えるよりも先に動いた。素早く雷獣にまたがると、
「飛んで! 先生と柳さんのところに連れてって! 急いで!」
しっかりとその毛にしがみついた。雷獣は一瞬目を丸くして驚いていたが、
「それがおまえの答えなら、連れていってやろう」
と言って、地を蹴った。空へと翔る風圧で、大量の花弁がぶわっと舞い上がった。花弁は天高くへと連なり、雷獣と保見の後に虹色の弧を描いて揺らめいた。
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