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12 五年後

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 柳と保見が修行を始めてから五年後。

 嫋やかな黒髪を腰まで伸ばした女性が、華麗に木々の間を走り抜けていく。何かを追っているようだ。

ぴゅっ

 女性目がけて赤・白・黄の小鬼達が飛びかかる。ふっと軽やかに身を翻すと、小鬼たちの奇襲を交わして後ろへ回り込む。女性のみずみずしい唇が笑んでいる。
しゃ
 その女性が透き通るような声でそう唱えると、小鬼たちは一瞬で人型の紙切れに変化し、ゆらゆらと地面に落ちてふわりと着地した。そっと紙切れを拾い上げ、掌にのせてふぅっと息を吹きかけると、紙切れは勢い良く先ほどの小鬼の姿となって、一直線に飛んでいく。
「柳さん、つかまえた」
 その女性はにっこりとそう言った。小鬼にしがみつかれた柳が、木の上から飛び降りて女性の前に姿を見せた。
「降参だ。式神の扱いにも慣れてきたじゃないか、保見」
 五年間の修行を通して、保見は霊力を立派に使いこなせるようになっていた。そして五年の間に、幼い印象のかつての保見から、見違えるほどの美しい女性へとも成長していた。


 もう保見の霊力を封じる必要も無くなり、結界師達は昨年、それぞれの地へ帰って行った。「また何かあれば必ず駆けつけます。保見さん、お元気で」去っていく者全てが、保見との別れを惜しんだ。中には、保見に想いを寄せる者もあったが、保見の答えは誰に対しても同じだった。いつも、肌身離さず首から下げているとんぼ玉を握りながら、「気持は嬉しいのだけれど……ごめんなさい」そう言って悲しそうな顔をするのだった。
 
 ある日、結界師の一人が保見に尋ねたことがあった。
「そのとんぼ玉、大事にしているようだが……どういった物なんです?」
 そうすると、保見は困ったように笑いながら、
「それが、私にも分からないの。とても大切な物だってことは分かるのだけど……気が付いたら、私の首から下がっていたの。良く分からないのだけどね……宝物なの。ねぇ、きれいでしょ?」
 そう言って、とんぼ玉をすかして見る保見の表情は、いつもうっとりと幸せそうだった。


 保見と柳は麒一の住む紫仙山しせんざんを後にして、今は別の山で修業の日々を送っていた。修行から戻り、昼食を終えてから柳はかしこまって言った。
「保見。そこへ座りなさい」
 保見は、真剣な表情で柳の前に正座した。
「保見。これから重要な話をする。とても重要な話だ。それを聞いたうえで、自分で決めるんだ」
 柳もゆっくりと腰をおろしながら、保見と同じ目の高さになってそう言った。
「決める? 何を決めるのですか?」
「お前の、生き方を、だ」

 柳はコホンと咳払いを一つついてから、
「五年前だったか……保見、お前が自分の霊力を自分で加減できるようになりたいと言って、修行を始めたのは……」
 そう言った。
「もう五年かぁ……。時間なんて気にしてなかったからなぁ」
 保見は無邪気に微笑みながら言った。しかし、柳は保見をじっと見つめながら深刻そうな表情をしている。少しの沈黙に「……柳さん?」と保見が首を傾げる。はっと我に返ったかのように、柳は話を続けた。
「今やお前も十分自分の霊力を制御できるようになった。もう周りに迷惑をかけることもないし、妖怪に狙われたとしても撃退できるだろう……」
 きょとんとした表情で、保見は静かに柳の話を聞いている。
「普通の人間の生活を送りたいなら、これ以上の修行はもう必要ない。そうだろう?」
 保見は少し驚いたような顔をした後、俯きながら「うん……」と言った。
「これからどうしたい? お前の生き方を決めるんだ」
 柳はそう言うとすっと立ち上がって保見に背を向けた。
「霊力を隠しながら、普通の人間の生活をするも良し、僕みたいに霊力を使える者として退治屋になったり、結界師になってみるも良し……。あるいは……」
「柳さん。それって、今すぐ決めなきゃ駄目?」
 不安そうに保見は尋ねた。
「いや……。しかし、いずれ決めねばならないことだ。こればっかりは、お前自身で決めるんだ」
「うん……。分かったよ、柳さん……。そうだよね……いつまでもこのままじゃいられないもんね……。私の生きる道、考えておくね」
 保見は勢い良く立ち上がると言った。
「私の道が決まるまでは、今まで通り稽古をつけてくれるでしょ? 柳さん!」
「……あぁ」
 柳は優しく微笑みながら頷いた。保見も無邪気に微笑み返した。
「もしも……」
 柳は微笑みを解いて、真顔になるとこう告げた。
「もしも、保見が命をかけて退治屋をする覚悟があるのならば……さらなる修行が必要だ。そして、保見はとてつもなく強大な妖怪と対決しなければならなくなるだろう。避けて通れたであろう苦悩、迷い、悲しみが付いて回る……。しかし僕は確信している。保見でなくては奴は倒せない……保見であれば……奴を滅ぼせると……」
「奴って?」
 柳は真っ直ぐ保見を見つめながら言った。
「代々、封じ師の体内に封じられてきた大妖怪……神羅だ」
「前に柳さんが話してくれた妖怪だね……。封じるしかなかった大妖怪を、滅ぼすことなんてできるの?」
「保見なら、きっとできる。さらに修行を積めば……」
 柳は思いとどまって、続きを話すのを中断した。咳払いすると、
「もちろん、普通の少女らしく、人間として暮らしたいのなら、そうするがいい。幼いお前が望んだように……普通に町で暮らし、普通に買い物をし、普通に人と触れ合える……お前が望んだ生活を、今なら送れるはずだ……」
 そう言い終わると、柳はふらっと森の奥へと姿を消してしまった。


 それからの五日間、柳と保見は今までの様に修行の日々を送った。日が落ちて、山の中腹に立てた小屋まで戻ると、夕食の支度をしながら保見が言った。

「柳さん。あのね」
 窯に火を入れながら保見は続けた。
「今日は、はっきりさせてほしいことがあるの。柳さん……何か私にずっと隠してることがあるでしょ?」
 どきっとして柳は保見の方を見ると、保見はまっすぐに柳の目を見つめていた。柳は目を逸らしたくても逸らせない、一種の威圧感を保見の眼差しに感じ、ただじっと見つめ返して黙っていた。
「……」
 柳は沈黙を保っている。
「ねぇ! 柳さん!」
「……分かった。食事の後話そう」
 その日の夕食は、今までにないほど静かだった。茶碗を置く音、汁をすする音、口の中で噛む音までもが互いに良く聞こえるほどだった。
 食器を片づけた後、保見は黙って柳の横に正座した。
 柳は深く溜息を一つ吐き出すと、どこか冷たく、無愛想に続けた。
「……隠していること……だが。お前は僕が何を隠していると思うんだ?」
「それが分からないから聞いてるの」
「……隠していることは、ない」
 柳は遠くを見つめながら無感情に言い放った。
「うそ!」
 保見は身を乗り出して柳に迫った。
「じゃあ、どうしていろんな術を教えてくれたのに、ある術だけは教えてくれないの? 私が教えて欲しいって言っても、それは必要ないって、いつも教えてくれないじゃない!」
 保見はさらに続ける。
「どうして? どうして、忘却術と記憶術だけは教えてくれないの?」
「…………」
「今までだって、何度も違和感があった。私の記憶から、何かが抜け落ちてる……とても大切な何かが……その何かの記憶を、柳さんが忘れさせたんでしょ? ねぇ、どうして? なんでなの?」
 保見は柳ににじり寄って、さらに突き詰めた。
「分かってる……。柳さんのことだもん。きっと何か理由があるんだろうって、分かってるよ? でも、でもっ! どうしてこんなに苦しいんだろうって、最近思うの。何を忘れてしまったのかさえ分からないのに、それを忘れてしまったことが悲しくて悲しくて、どんどん悲しみが大きくなって、わたし我慢ができなくなってきてるの!」
 保見の目には涙が溜まって、いつも以上に瞳がキラキラと瞬いていた。
「お願いよ……柳さん。私、全てを受け入れるから……本当のこと、話して……。そうじゃないと、私、自分の道が決められない……このままじゃ、私、本当の私らしく生きられないと思うの……いくら霊力の使い方を知ることができたって、私じゃない人生なら……嘘でごまかした人生なら……私は本当の意味での幸せにはなれないわ!」
 保見は目をうるませながら訴えた。
「私の幸せを願ってくれるなら……話して……柳さん!」
 保見をみつめたまま、しばらく柳は沈黙していたが、口を開きかけてぐっと歯を食いしばり、
「……保見。世の中には、知らない方が幸せなこともあるんだ。分かってくれ、こればっかりは……話せない」
 そう言った。
「柳さんの馬鹿っ!」
 保見は気がつくと真っ暗闇の外へ飛び出していた。涙がこぼれていた。走りながら何度も「柳さんの馬鹿っ!」と叫んだ。
 人里離れた山中である。いくら叫ぼうが、喚こうが、あっという間に静寂に飲み込まれて消えて行ってしまう。しばらくすると涙も枯れ果て、無力感だけが残った。

「ここにいたのか……保見」
 見晴らしの良い、巨大な一枚岩の絶壁の上。修行で行き詰まったり、嫌なことがあると来る場所。一歩でも足を滑らせたら谷底へ落ちて死んでしまうであろう危険な場所。しかし保見はここに来る度に、ぞっとするような崖の下の地獄と、うっとりするような満点の星々や月明かりの天国に挟まれた現世に立って、「生きている」実感を得るのだった。
「柳さん……」
 保見はそっと首だけで柳の方を一瞬振り返ると、すぐに元のように夜空へ目をやった。今夜は月が明るい。風が吹いていた。
「柳さん、最後のお願い」
 保見はそう言いながら、さらに崖っぷちへと進んでいく。柳は「おいっ!」と声をかけるが、保見は先端までいってくるりと踵を軸にして振り向いた。保見の長い髪がさらさらとたなびいている。
「私、幸せになりたいの。本当の意味での幸せに……。お願い、教えて。私の本当の記憶。無くしてしまった思い出……」
 駄目だと言ったらそのまま飛び降りてしまいそうだと、柳は思った。保見は泣いていた。潤んだ瞳で柳をまっすぐ見つめていた。


「オレにそっくりでさ……ほっとけなかったんだ」
 常葉が杯を片手に柳に語っている。常葉と過ごした最後の夜……暖簾を下げかけた飲み屋に無理を言って、二人で酒を飲んだ。
「可哀想だろ? 妖怪を婿にして、人間に復讐するつもりだったなんて……オレも……もし師匠がいなかったら、保見みたいな恐ろしいこと考えたかもしれないな……なんてさ……。保見もオレと同じだったんだよ。本当は、普通に暮らしたかっただけなんだ。普通の人間みたいに、普通に……」
「後継者にするつもりじゃなかったのか? あののことを」
 柳はつまみの魚をつつきながら言った。
「うん……最初はな。……やっと見つけたって、そう思った。でも……あいつは駄目だ。保見は……普通の人間として世に送り返してやりたいんだ。それを望んでるはずだ。神羅の封じ師なんて……女の子だし……可哀想じゃないか……」
 ふんっと柳は鼻で笑った。
「過去には女の封じ師もいた。女だからという言い分は理解しがたいね。男も女もあるものか。僕はそいういのが気に食わないんだ」
 常葉は酒に弱い。まだ二杯しか飲んでいないのにすっかり真っ赤になって、締りがなくなった口で言った。
「まあ……それはそうだけどよ……」
「だいたい、常葉、貴様はどうなんだ。お前も普通の人間の暮らしを望んでたんだろ? なら、今のお前は、封じ師の現状を後悔しているのか?」
「いや!」
 常葉は素早く否定した。その速さに、柳は一瞬どきりとして身構えた。
「……後悔はしてない……決して。ただ……」
 常葉は切ない表情で言った。
「嬉しそうに笑ったんだよ。オレが、保見の力を封じてやった時にさ……普通の……女の子になったんだって……嬉しそうに、笑ったんだ」


 風が吹いている。保見の髪が揺れている。流れてきた雲が月の光を遮った。再び眩い光が差し込んだ瞬間、柳は口を開いた。
「現実は残酷だ。今までお前に隠してきたことは……お前の幸せを真に願う者から頼まれたからだ。約束したからだ。本来の僕なら、もっと早い段階でお前に打ち明けただろう。そして、こう命じただろう……この先お前の幸せを真に願う者を、お前の手で滅ぼすために修行をしろ、とな」
 保見は険しい表情で柳を見つめた。
「お前の幸せを真に願う者は、お前が霊力を隠しながら、普通の人間の生活をすることを望んでいた。お前の力を封じた時に、幸せそうに微笑むお前のことを見て、そうするのが一番だと思ったそうだ……」
 保見は無意識に首から下げたとんぼ玉をきつく握っていた。心臓がドキドキと大きく騒いでいた。
「耐えられるのか? 全て受け止められるのか? そして……それでお前は幸せになれるのか? 僕には、辛い未来が待っているだけのように思えてならない。……それでもなお……お前が真実を望むのなら……話そう、今すぐに」
「わたし……」
 保見は止まらない涙をそのままにして、まっすぐに柳を見つめて言った。
「わたし……こわい……本当のこと……知るのが……怖い……」
 柳は今にも崩れ落ちそうな保見へゆっくり近づいて行った。そっと保見の肩に手を置き、ゆっくりと抱き寄せ、しっかりと保見の身体を受け止めた。その瞬間、保見はわっと大声で泣き始めた。今まで押し殺してきた声が一気に流れ出ていった。その声は、狼の遠吠えのように、山の隅々まで響き、冷たい空気を振動させた。



 所は黒葺山。遊郭内はざわざわと慌ただしい日を迎えていた。
「姉さん! 箕狐が戻りました!」
 若い遊妖が着物の裾をたくし上げて、大急ぎで白狐嬢の部屋に飛び込んできた。
「箕狐が! 無事だったんだね。最近連絡が無くて心配してたんだ……それで? 常葉は?」
「はい! 常葉はんもご一緒です!」
「なんだって!」
 白狐嬢はぱあっと顔を輝かせて表に飛び出した。
「あっ! お待ちください! 姉さん! それが、皆、少し様子がおかしぃ言うて……」
 後ろから語りかける声など耳に入らなかった。ずっと常葉のことが心配でならなかったのだ。もう五年以上も姿を見ていない。自分に会いにも来ないで一体何をしてたのか。文句の一つでも言ってやらねば気が済まなかった。
 一気に玄関まで飛んで来ると、何やら遊妖達が固まりになって大声を張り上げている。おや? と白狐嬢が思うが早いか、
「姉さん! 駄目どす! 奥へ御隠れになって!」
 遊妖達が八人がかりで白狐嬢を奥へと連れ去っていく。
「ちょいと! あんたたちっ! 何するのさ! お放しよっ! 常葉がきてるんだろ!?」
「姉さん! それが常葉はんと箕狐はんの様子がおかしいんですわ。大勢の妖怪達を引き連れていてぇ……」
「大勢の妖怪!?」
「はぃ……」
 白狐嬢は結局自分の部屋まで連れ戻され、安全が確認できるまで絶対に部屋から出ないでください、と言われ、ふすまを閉められてしまった。胸騒ぎがした。常葉は……無事ではなかったのか……? もしかしてもう……神羅に……

きゃーーーー!

 部屋の外からけたたましい叫び声が、それも沢山聞こえた。遊妖達の声だ……白狐嬢はその叫び声がどんどん大きくなってくるのを感じながら、全身の霊力を充実させ始めた。
(神羅が……復活したのか……。常葉の皮を被ったまま……。だとしたら……)
 白狐嬢は覚悟した。殺されるか、それとも殺すか。来るなら来い。

 ふすま一枚のところまで叫び声が迫ったかと思うと、急にしんとして静まりかえった。不気味な沈黙であった。確かに、ふすまの向こうに神羅は迫っている。何かを企んでいる……白狐嬢は殺気を研ぎ澄ませて身構えた。

 しばらくして、ふすまの向こうから聞きなれた、懐かしい声がした。

「ねえさん……」

「箕狐かい!?」

 白狐嬢は反射的に口を開いてしまった。
「はぃ……。箕狐どす……。入ってもよろしおすか?」
「待て」
 白狐嬢はぴしゃりと言った。
「ねえさん……ごめんなさい……姉さんの常葉はんはもう……死にましたん」
 ふすまの向こうから、箕狐の声は続けた。
「悲しおすなぁ……もぅ、いないんですわぁ……」

 そう言ったきり、箕狐の声は黙ってしまった。
「復活したのかい……神羅が」
 白狐嬢は静かに尋ねた。
「神羅?」
 箕狐の声は、はて? といった調子で返事をした。
「なんですぅ? それ。神羅?」
「とぼけたって……分かってるんだ。一緒にいるんだろ。付け込まれたんだろうねぇ……箕狐。可哀想な子……」
「ふふふっ……」
 箕狐の声は、今度は急に笑い出した。白狐嬢は声のするふすまをじっと睨みながら身構えた。……来るか?
「あはははは! 姉さん! 姉さんの常葉はんは死んだぁですが、うちの常葉はんは生きてますんよぉ! うちだけの常葉はん……誰にも渡さない……もう……うちら二人は離れられんことなりましたん……ふふふふっ……」
「いつまで隠れてるつもりだい! 神羅!」
 白狐嬢が噛みつくように怒鳴ると、ばっとふすまが勢い良く開いた。ふすまの向こうにいるのは神羅……ふすまの向こうにいるのは神羅……ふすまの向こうにいるのは……
「………………と き わ ………………」
 白狐嬢の研ぎ澄ました殺気を帯びた霊力が急速に縮んでいった。五年間、毎日のように想い浮かべていた、常葉の温かな笑顔がそこにあった。太陽のように温かくて眩しくて、全身を包み混んでいくような、満面の無邪気な笑顔がそこにあった。まっすぐ白狐嬢を見つめて、
「姫」
 とそっと呼びかけた。
 白狐嬢は、まるで糸で手繰り寄せられるかのように、ずるずると常葉へ近づいて行った。ずっと、会いたかった。涙がじんわりと溢れてくる。あと三歩で常葉に手が届くところまで白狐嬢が近づいた瞬間、常葉はそれまでの純粋な笑顔をぱっと止めると、にやりと意地悪く笑んで、脇に居た箕狐をばっと抱き寄せて激しく口づけした。
 白狐嬢は、はっと驚愕すると三歩後ずさりした。箕狐は常葉にすがるように抱きつき、熱い息を漏らしながら常葉の唇を求めた。常葉は、そんな箕狐を搔き抱き、舐るように唇を覆った。はふはふと互いの息を漏らしながら、二人の口付けは長く続いた。

「やめ……て……。やめて……。私の前で……常葉の姿で……そんなこと……そんなこと……やめて……」
 白狐嬢は涙で滲んだ目を覆い隠して、その場に崩れ落ちた。

「黒葺山の白狐嬢ともあろう大妖怪が、人間の男一人になんてざまだ……」
 むせび泣く白狐嬢の上から常葉の声が降り注ぐ。
「男を餌に私腹を肥やすのが貴様ら遊妖だろうが……逆に心を奪われるとは……ずいぶん腑抜けたものだ。貴様も、この箕狐も」
 白狐嬢は肩を震わせてうぅ……と声を漏らすだけだった。
「貴様の部下達はかろうじて生かしておいてやったよ……。戦闘向きじゃないからねぇ……彼女たちは。気ばっかり強くて、殺さないように加減するのが難しかったよ……」
「何が……目的だい……? 神羅はん……」
 涙で濡れた瞳にありったけの敵意を込めて、白狐嬢は常葉を睨みつけた。顔を勢いよく振り上げた拍子に涙の滴が玉のように飛び散った。その様子を見降ろしながら、常葉は意地悪くふふっと笑うと、白狐嬢と同じ目線になるよう身をかがめて、白狐嬢の顎をくいっと持ち上げた。
「目的は……まぁ、言ってしまえばただの憂さ晴らし、暇つぶし、嫌がらせかなぁ……すごく苦しませたい奴がオレの中に居てね……。今、オレの中でのた打ち回ってるよ……愉快だろ?」
「常葉がっ!? 死んだんじゃないのかぃ?」
「殺してしまうのは簡単なんだが……今までオレを縛り付けてた憎らしい奴をすぐに楽にさせちまうのは癪でね。考えうるかぎり苦しませてやりたくてさ。まず最初がこの黒葺山。次は……そうだなぁ、あの生意気な兄弟子でもぶち殺すかな。お楽しみは保見ちゃんだねぇ……常葉」
 言い終わると常葉は高笑いした。
「はははははっ! 苦しいだろう? 常葉。実に愉快だよ。ただでは殺さないさ。楽しませてもらう……。さて」
 常葉は箕狐に目で合図して部屋から立ち去らせた。
 五十畳ほどの広い部屋にへたり込んだ白狐嬢とそれを見下ろす常葉、二人だけだった。そっと常葉の手が白狐嬢に伸び、頭を撫でた。
「分かってるんだろ? この手は常葉じゃないって。でも拒めない……哀れだな。あの箕狐もそうだった。君達に恨みは無いけど……恨むなら常葉を恨むんだな」
「殺すなら早くおしよ……」
 力なく白狐嬢はつぶやいた。小さな声だったが、静まり返った部屋の中では十分に聞き取れた。
「そうだな……」
 常葉は白狐嬢の頭から手を離すと、白狐嬢と向き合うようにして座った。
「選ばせてやろう……どちらを選ぶか、君次第だ」
 常葉は静かに続けた。
「オレの妾の一人になって今のオレに尽くすか、最後にオレの中にいる常葉自身に会わせてやるがオレに喰われて死ぬか……どっちがいい?」
 子供でもあやすような優しい声色でそう言った。白狐嬢は目を見開いて固まった。
「あぁ、でも、後者を選ぶなら、今瀕死の君の部下達も喰ってくから、そのつもりで。妾になるなら全部まとめて囲ってあげよう。もちろん、ちゃんと愛してやる……この体でな」
「そんなのっ……そんなの……。……」
 白狐嬢は俯いた。皆を見殺しにできるはずなんてない。でも、こいつの妾になんて……
「前者だ……。皆の手当てを……すぐに頼む……」
「へぇ……。妾になってくれるの? 嬉しいねぇ……」
 白狐嬢はキッと常葉を睨んだ。
「そう怒るなよ。すぐに良くなるさ。オレも常葉も変わらなくなる……要は外見にひどく影響されるのさ。中身なんて重要じゃないってことが……」
「違う!……違う……。私は……私は常葉の中身に惚れたんだよ……大好きだったんだ。あの馬鹿が」
 白狐嬢はうなだれて、枯れて涙も出なくなった目を伏せた。
 常葉はパンパンっと手を打ち鳴らすと、静まり返った屋敷内が騒がしくなった。
「オレが引き連れてきた妖怪共に君の部下達を手当てさせている。……箕狐!」
 襖を開けて箕狐がすっと入ってきた。
「白狐嬢を見張っとけ。自殺しかねんからな」
「嫌だ! 一人にさせておくれよっ! 私はもう……こんなっ……」
「変な気を起すな。貴様は契約を飲んだ。妾としてしっかり働いてもらう……逃げようなどと考えんことだ。妙な真似をした時点で……皆殺しだ」
「鬼!」
 常葉は高笑いしながら立ちあがった。
「鬼 とは、オレにとっては最大の褒め言葉だぞ、白狐嬢!」
 そう言い終わると霧散するかのように一瞬で姿を消した。
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