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8 保見と柳
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「起きたか?」
むくっと布団から起き上がった保見に向かって、柳がそっと話しかけた。
「気分はどうだ?」
「りゅう……さん?」
あぁ、と柳は保見の隣へしゃがみ込むと、保見の脈をとった。異常はないようだ。
「柳さん。私ね、何か夢を見ていたみたいなの……とても楽しい夢……。でも、どんな夢だったか、どうしても思い出せなくて……」
「そうかい」
布団にじっと目を落として懸命に思い出そうとしている保見を見て、柳はこの少女を哀れに思った。
「腹が減らないか? もう昼だぞ? さぁ、起きるんだ」
うん、と保見は返事をして起き上がると、首に下がる、大きな青いとんぼ玉に気がついた。なんだろう、こんなの付けていたっけ? 保見には全く覚えがなかった。しかし、保見はこれがとても大切なものだという、そんな気がしてならなかった。とんぼ玉を左手でそっとつまんで光にかざしてみる。銀河と稲妻がチカチカと輝いていた。保見はうっとりとしながら、
「きれい……。すごくきれい……」
そう呟いた。
保見が目覚めた頃、常葉は緑淵の河童を、大量のきゅうりを携えて訪問していた。
「この前は世話になったからね。約束通り、きゅうりを沢山持ってきたよ」
河童は喜んで両手にきゅうりを持ちながらさくさくと食べ始めた。
「そういやあの婿探しの少女には会えたの?」
きゅうりをかじりながら河童は尋ねた。
「うん……。お蔭さんでね」
河童は「そいつは良かった」というと、きゅうりの山から新たなきゅうりを掴んでさくさく食べた。河童はご機嫌な様子で、もぐもぐと口を動かしながら話しだした。
「そうそう、あんたの好きな噂話。あの大妖怪が復活したって話、知ってるか?」
「……あぁ」
「本当かどうか怪しいもんだがね……見たって奴がいるんだ。どうやら人間の皮を被って暴れているらしいよ」
「そうかい」
常葉はそっけない返事しかしなかったので、河童は話題を変えた。
「北の雷獣を知ってるか?」
「あぁ、良く暴れまわっているらしいね。有名だよ」
「そいつが、人間を喰おうとこっちへ南下してきてるらしいよ。オレらの間じゃあ、やっかいに巻き込まれないように雷獣が北へ帰るまでは極力陸へ上がらないようにって勧告がでてるんだ」
「人間を喰う? なんでまた……」
「なんでも、その少女の霊力が半端なく強いんだってよ。大妖怪が復活なんて噂もあるもんだから、その少女を喰って力を増して備えようってことじゃないかな? その少女は何でも、村を一瞬で吹き飛ばしたってえくらいだから……」
常葉は一瞬で青ざめた。その少女とは保見のことだ……間違いない。保見が危ないことを、柳に知らせなければ……保見を守れるのは、柳しかいない。
(やっかいなことになってしまった……)
できるだけ巻き込みたくなかった。普通の女の子として、普通に暮らせるように……そう思っていたのに……。しかし……どうもそうはいかないようだ。今、普通の人間界に保見を送り込んだとしても、妖怪達が保見に襲い掛かるだろう。どうしたって平穏には暮らせない。
「河童さん、有難う。少し……用事を済ませてくるよ……また後で」
常葉は弾かれたように駆けだしてその場を離れた。
(できるだけ霊力を消費したくなかったが……やむを得ない……事は一刻を争う)
柳なら気づいてくれるはずだ……常葉は地面に胡坐をかいて懐から短刀を取り出し柄の部分を口にくわえた。
頭の笠を外し脇に置くと、両手でありったけの髪の毛を後頭部にまとめ、左手で束ねると、口元の短刀を右手に取り、束ねた髪をバッサリと切り落とした。切られた髪はバラバラと地面へ散らばるかと思うと、地に着く紙一重のところでふわっと制止して地に垂直に毛先を起した。常葉は何かを念じながら右手でその髪の上を撫でるような動作をすると、髪の毛一本一本がさわさわと蠢き出し、最後に一度大きく髪を払いのけるように腕を動かすと、そよそよと風に乗って飛んで行ってしまった。
(これで一先ず、事態は柳に伝わるはずだ……頼む……間に会ってくれ……)
保見が気がかりだが、自分の心配もしなければならなかった。神羅を外へ出さないようにする。これが重大なのである。そして、できるだけ遠くへ。そう、保見からできるだけ離れなければならない。常葉は河童の元へと引き返して行った。
(柳……保見を……守ってくれ……)
「飯はもういいだろう? 宿をでるぞ。支度しろ」
箸をもったまま、上の空でぼんやりする保見を見るに見かねて柳はそう言った。
「柳さん……私、なにかおかしいの。どうして私、ここにいるんだろう? 私、前は風を巻き起こしたり、雷を落としたり、色んなことができたの。でも、今はできないの……どうしてだっけ?」
やれやれ、と思いながら、柳はふうっと溜息を一つつくと、箸をもったまま固まっている保見の隣へ腰をおろして、落ち着いた様子で話し始めた。
「お前が望んだんだろ? 普通の人間になりたいって」
うん、と保見はこくんと頷く。
「僕がそれを叶えてやろうって話をしただろ? 忘れたのか?」
「うん……思い出せない」
苦い顔で保見は首をかしげる。
「僕が、お前の力を封じてやったのさ。これからお前は、普通の人間として暮らすんだ。僕はお前を人間界に送り届けてやる。お前は僕を信じてついてくればいい」
うん……、と保見は困ったように箸を置いた。
「ねぇ、柳さん。柳さんは私のこと、そんな風に呼ぶんだっけ? お前って呼ばれると、冷たい感じがする……」
ピクリと柳の眉がかすかに波打った。
「前は……ほみって呼んでくれた気がする……。それに……」
何だ? と柳が急いで尋ねると、びくっとして保見は「何でもない」と答えて俯いた。
(まぁ……記憶を無くした者はしばらくのうちはこのように困惑するが……そのうち全てを受け入れて、違和感も感じ無くなるはずだ……。記封の十段式だ。一生、常葉のことを思い出すことはない)
「柳さん」
保見の声で我に返ると、柳は保見に目をやる。
「支度、できたよ。どこに行くの?」
二人は宿を出て、太陽に向かって歩き始めた。朝日が眩しく二人を照らした。
「柳さん、この道、前に通ったよね? ほら、あそこの着物屋さん」
はしゃぎながら保見は指をさした。
「そうだったか?」
と柳は気のない返事をして、急かすように早足で歩いて行く。
「あっ! 蕎麦屋だよ?」
柳は見向きもしないでただ、
「よそ見をしないで付いてこい」
と言った。保見はなんだか悲しくなってきた。とんぼ玉が売っている小物屋もあっという間に通り過ぎてしまった。
土手の上へあがると、柳は保見を振り返った。保見はむすっと口を尖らせて柳を見上げた。そんな保見に、できるだけ優しい声で柳は言った。
「これからお前を引き取ってくれる人のところへ連れていく。3日間はかかる。宿をとって休み休み行く。疲れたらそう言え、休憩をとる。いいか?」
うん……、と保見はうなずいたが、口を尖らせたまま不満そうな表情を浮かべている。柳が、
「何だ? 何か言いたそうだな」
と問うと、保見は言った。
「引き取ってくれる人って、誰?」
「旅館の女将さ」
「どんな人? どうしてその人が私を引き取ってくれることになったの?」
「それは……」
常葉がお前のために探して見つけてくれたのだよ、と言おうとして、柳はぐっとその言葉を飲み込んだ。
(常葉のことは話せないな……)
「僕の知り合いさ。ちょうど人手も足りないし、店を手伝ってくれる若い子が欲しいと聞いてね。丁度良いだろ?」
不安そうな保見を見て、ふうっと溜息をつくと、
「大丈夫さ。面倒見の良い、優しい女将さんだ。最初は分からないことだらけだろうけど、一つずつ覚えていけばいい。お前と同じくらいの女の子も数人泊まり込みで働いているそうだ。仲良くなれるさ」
「仲良く……。友達……──ミコちゃん!」
「?」
「私、箕狐ちゃんっていう友達がいるの! 会いに行くって、そう言ったよね?」
(常葉と約束したのか……?)
柳は短く咳払いすると、そうだったか? と言って歩き出した。しかし、保見は立ち止ったまま後に付いてこない。
「おい! どうした!」
振り返り、少し大きい声で問うと、保見は怒ったように言った。
「行かない! 私は箕狐ちゃんに会えなくなるのやだ!」
柳は困惑した表情で、やれやれと首を振った。
「何を言ってるんだ? 会いに行けばいいだろう? 休みくらい貰えるさ」
「だって、言ったじゃない! 人間と一緒に普通に暮らしたいなら箕狐ちゃんみたいな妖怪と会わない方がいい。見えてる妖怪も、見えないふりをして、普通の人間みたいにしてなくちゃいけないって……」
「箕狐ちゃんは妖怪だったのか……。みこ……箕狐か。黒葺山の、箕狐のことか?」
保見はこくんと頷くと、続けた。
「箕狐ちゃんに会えなくなるなんて、そんなの嫌だって言ったら、先生は分かったって言った! 先生はっ……先生……。──先生って誰?」
保見は目を大きく見開いて頭を抱えしゃがみこんだ。柳は焦って保見に駆け寄る。
「大丈夫か? しっかりしろ! いいか、何も考えるな。僕を見ろ」
「柳さん……」
保見は、柳に言われた通りに柳の顔を見つめた。呼吸が荒く、額から汗が噴き出して、視界が揺れる。どうしたんだろう……自分はどうしちゃったんだろう……保見はそう想いながら、声を絞り出した。
「柳さん……。先生って……誰? 私、私、知らないのに……知ってる……。教えて……柳さんなら、先生のこと知ってるでしょう?」
柳は驚いた。記憶封じ術の最高方式の十段で閉じ込めたはずの「常葉にまつわる記憶」を、この少女は今まさに無理やりこじ開け、思いだそうとしているのだ。柳自身でさえ、術の心得なしに、自らの力だけで十段記憶封じを破ることは不可能であるはずだ。しかし、この少女は……。
「止めるんだ。保見。考えるな。思い出そうとするな」
「嫌! 先生は……先生はっ……」
仕方ない、と柳は背負っていた荷物を急いで解き、中から小さな小瓶を取り出した。そして、小瓶の蓋をキュッと抜くと、うずくまる保見の体を起して、鼻先に小瓶の口を近づけて嗅がせた。しばらくすると保見はトロンとした表情になり、おとなしくなった。
(やれやれ……やっと落ち着いたか……。精神弛緩剤を使うことになるとはな……。常葉が霊力を封じていたはずなのに……恐ろしい娘だ)
保見はぼんやりと上の空を眺めている。大丈夫か、という柳の声に、うん、と小さく答えると立ち上がった。空を鳥が横切っていく。
「鳥はいいなぁ……自分の翼で、どこまでも飛んで行けて……。自由に、遠くまで飛んで行けて……。私にも翼があったらなぁ……。生まれ変わったら、今度は鳥になりたいなぁ……」
「保見…………」
「いいなぁ……」
さわさわ……
保見になんと声をかけたら良いのか戸惑っている柳の首筋に、何かがちくっと刺さるような感触がした。虫か? と思い、パシッと手を当ててみる。手ごたえは無かった。首元から手を離して掌を見ると糸のような黒い細かいものがさわさわと蠢いている。
(──髪の毛! 常葉の念を感じる……!)
柳は荷物の中から、無地の白い手ぬぐいを取り出し、地面に急いで広げた。保見はぼんやりとそんな柳の様子を眺めている。
さわさわさわ…………
髪が一瞬にして手拭の上に集まり、まるで筆で文字を書くがごとく、右上から文字の形を成して固定されていく。その内容は、
「雷獣が保見を狙っている……!?」
柳はすぐさま霊感を研ぎ澄ませ、近くの妖気を探った。
(もうすぐそこまで来ているではないか!)
柳は荷物を背負い、保見の手をとった。保見はぼんやりと柳を眺めながら、
「柳さん、もう行くの? 旅館へ?」
「いやっ!」
柳は、ぐいっと保見の手をひいて、早足で歩きだした。
「旅館の件は無しだ。厄介なことになった。とにかく急ぐんだ。走れ!」
保見は薬のせいでうまく歩けず、足がもつれて転んでしまった。柳は無言のままさっと保見を抱き上げて、走りだした。
「じゃあ、今度はどこに行くの?」
「今は少し黙れ! お前の命にかかわる危機なんだ。雷獣という化け物が、お前を喰おうと狙っているらしい。来るぞ」
「私を? 食べるの?」
保見はぼんやりとしたまま、柳の腕の中でおとなしくなった。しばらく黙っていたかと思うと、眠そうな声で言った。
「もういいよ。私、生まれ変わったら、鳥になるから……もう、いいよ、柳さん。わたし、妖怪に食べられても、いいよ」
「馬鹿!」
柳は息を切らしながら怒鳴った。必死な表情だった。
「来世だとか、生まれ変わりだとか、そんなあるかどうかも分からない馬鹿なこと言うな! 今生きなくてどうする? お前は僕が引き受けると、約束したんだ。死なせやしないさ」
「約束? 誰と?」
柳は走りながら、汗だくになりながら、吐き捨てるように言った。
「お前の言う、先生とさ!」
むくっと布団から起き上がった保見に向かって、柳がそっと話しかけた。
「気分はどうだ?」
「りゅう……さん?」
あぁ、と柳は保見の隣へしゃがみ込むと、保見の脈をとった。異常はないようだ。
「柳さん。私ね、何か夢を見ていたみたいなの……とても楽しい夢……。でも、どんな夢だったか、どうしても思い出せなくて……」
「そうかい」
布団にじっと目を落として懸命に思い出そうとしている保見を見て、柳はこの少女を哀れに思った。
「腹が減らないか? もう昼だぞ? さぁ、起きるんだ」
うん、と保見は返事をして起き上がると、首に下がる、大きな青いとんぼ玉に気がついた。なんだろう、こんなの付けていたっけ? 保見には全く覚えがなかった。しかし、保見はこれがとても大切なものだという、そんな気がしてならなかった。とんぼ玉を左手でそっとつまんで光にかざしてみる。銀河と稲妻がチカチカと輝いていた。保見はうっとりとしながら、
「きれい……。すごくきれい……」
そう呟いた。
保見が目覚めた頃、常葉は緑淵の河童を、大量のきゅうりを携えて訪問していた。
「この前は世話になったからね。約束通り、きゅうりを沢山持ってきたよ」
河童は喜んで両手にきゅうりを持ちながらさくさくと食べ始めた。
「そういやあの婿探しの少女には会えたの?」
きゅうりをかじりながら河童は尋ねた。
「うん……。お蔭さんでね」
河童は「そいつは良かった」というと、きゅうりの山から新たなきゅうりを掴んでさくさく食べた。河童はご機嫌な様子で、もぐもぐと口を動かしながら話しだした。
「そうそう、あんたの好きな噂話。あの大妖怪が復活したって話、知ってるか?」
「……あぁ」
「本当かどうか怪しいもんだがね……見たって奴がいるんだ。どうやら人間の皮を被って暴れているらしいよ」
「そうかい」
常葉はそっけない返事しかしなかったので、河童は話題を変えた。
「北の雷獣を知ってるか?」
「あぁ、良く暴れまわっているらしいね。有名だよ」
「そいつが、人間を喰おうとこっちへ南下してきてるらしいよ。オレらの間じゃあ、やっかいに巻き込まれないように雷獣が北へ帰るまでは極力陸へ上がらないようにって勧告がでてるんだ」
「人間を喰う? なんでまた……」
「なんでも、その少女の霊力が半端なく強いんだってよ。大妖怪が復活なんて噂もあるもんだから、その少女を喰って力を増して備えようってことじゃないかな? その少女は何でも、村を一瞬で吹き飛ばしたってえくらいだから……」
常葉は一瞬で青ざめた。その少女とは保見のことだ……間違いない。保見が危ないことを、柳に知らせなければ……保見を守れるのは、柳しかいない。
(やっかいなことになってしまった……)
できるだけ巻き込みたくなかった。普通の女の子として、普通に暮らせるように……そう思っていたのに……。しかし……どうもそうはいかないようだ。今、普通の人間界に保見を送り込んだとしても、妖怪達が保見に襲い掛かるだろう。どうしたって平穏には暮らせない。
「河童さん、有難う。少し……用事を済ませてくるよ……また後で」
常葉は弾かれたように駆けだしてその場を離れた。
(できるだけ霊力を消費したくなかったが……やむを得ない……事は一刻を争う)
柳なら気づいてくれるはずだ……常葉は地面に胡坐をかいて懐から短刀を取り出し柄の部分を口にくわえた。
頭の笠を外し脇に置くと、両手でありったけの髪の毛を後頭部にまとめ、左手で束ねると、口元の短刀を右手に取り、束ねた髪をバッサリと切り落とした。切られた髪はバラバラと地面へ散らばるかと思うと、地に着く紙一重のところでふわっと制止して地に垂直に毛先を起した。常葉は何かを念じながら右手でその髪の上を撫でるような動作をすると、髪の毛一本一本がさわさわと蠢き出し、最後に一度大きく髪を払いのけるように腕を動かすと、そよそよと風に乗って飛んで行ってしまった。
(これで一先ず、事態は柳に伝わるはずだ……頼む……間に会ってくれ……)
保見が気がかりだが、自分の心配もしなければならなかった。神羅を外へ出さないようにする。これが重大なのである。そして、できるだけ遠くへ。そう、保見からできるだけ離れなければならない。常葉は河童の元へと引き返して行った。
(柳……保見を……守ってくれ……)
「飯はもういいだろう? 宿をでるぞ。支度しろ」
箸をもったまま、上の空でぼんやりする保見を見るに見かねて柳はそう言った。
「柳さん……私、なにかおかしいの。どうして私、ここにいるんだろう? 私、前は風を巻き起こしたり、雷を落としたり、色んなことができたの。でも、今はできないの……どうしてだっけ?」
やれやれ、と思いながら、柳はふうっと溜息を一つつくと、箸をもったまま固まっている保見の隣へ腰をおろして、落ち着いた様子で話し始めた。
「お前が望んだんだろ? 普通の人間になりたいって」
うん、と保見はこくんと頷く。
「僕がそれを叶えてやろうって話をしただろ? 忘れたのか?」
「うん……思い出せない」
苦い顔で保見は首をかしげる。
「僕が、お前の力を封じてやったのさ。これからお前は、普通の人間として暮らすんだ。僕はお前を人間界に送り届けてやる。お前は僕を信じてついてくればいい」
うん……、と保見は困ったように箸を置いた。
「ねぇ、柳さん。柳さんは私のこと、そんな風に呼ぶんだっけ? お前って呼ばれると、冷たい感じがする……」
ピクリと柳の眉がかすかに波打った。
「前は……ほみって呼んでくれた気がする……。それに……」
何だ? と柳が急いで尋ねると、びくっとして保見は「何でもない」と答えて俯いた。
(まぁ……記憶を無くした者はしばらくのうちはこのように困惑するが……そのうち全てを受け入れて、違和感も感じ無くなるはずだ……。記封の十段式だ。一生、常葉のことを思い出すことはない)
「柳さん」
保見の声で我に返ると、柳は保見に目をやる。
「支度、できたよ。どこに行くの?」
二人は宿を出て、太陽に向かって歩き始めた。朝日が眩しく二人を照らした。
「柳さん、この道、前に通ったよね? ほら、あそこの着物屋さん」
はしゃぎながら保見は指をさした。
「そうだったか?」
と柳は気のない返事をして、急かすように早足で歩いて行く。
「あっ! 蕎麦屋だよ?」
柳は見向きもしないでただ、
「よそ見をしないで付いてこい」
と言った。保見はなんだか悲しくなってきた。とんぼ玉が売っている小物屋もあっという間に通り過ぎてしまった。
土手の上へあがると、柳は保見を振り返った。保見はむすっと口を尖らせて柳を見上げた。そんな保見に、できるだけ優しい声で柳は言った。
「これからお前を引き取ってくれる人のところへ連れていく。3日間はかかる。宿をとって休み休み行く。疲れたらそう言え、休憩をとる。いいか?」
うん……、と保見はうなずいたが、口を尖らせたまま不満そうな表情を浮かべている。柳が、
「何だ? 何か言いたそうだな」
と問うと、保見は言った。
「引き取ってくれる人って、誰?」
「旅館の女将さ」
「どんな人? どうしてその人が私を引き取ってくれることになったの?」
「それは……」
常葉がお前のために探して見つけてくれたのだよ、と言おうとして、柳はぐっとその言葉を飲み込んだ。
(常葉のことは話せないな……)
「僕の知り合いさ。ちょうど人手も足りないし、店を手伝ってくれる若い子が欲しいと聞いてね。丁度良いだろ?」
不安そうな保見を見て、ふうっと溜息をつくと、
「大丈夫さ。面倒見の良い、優しい女将さんだ。最初は分からないことだらけだろうけど、一つずつ覚えていけばいい。お前と同じくらいの女の子も数人泊まり込みで働いているそうだ。仲良くなれるさ」
「仲良く……。友達……──ミコちゃん!」
「?」
「私、箕狐ちゃんっていう友達がいるの! 会いに行くって、そう言ったよね?」
(常葉と約束したのか……?)
柳は短く咳払いすると、そうだったか? と言って歩き出した。しかし、保見は立ち止ったまま後に付いてこない。
「おい! どうした!」
振り返り、少し大きい声で問うと、保見は怒ったように言った。
「行かない! 私は箕狐ちゃんに会えなくなるのやだ!」
柳は困惑した表情で、やれやれと首を振った。
「何を言ってるんだ? 会いに行けばいいだろう? 休みくらい貰えるさ」
「だって、言ったじゃない! 人間と一緒に普通に暮らしたいなら箕狐ちゃんみたいな妖怪と会わない方がいい。見えてる妖怪も、見えないふりをして、普通の人間みたいにしてなくちゃいけないって……」
「箕狐ちゃんは妖怪だったのか……。みこ……箕狐か。黒葺山の、箕狐のことか?」
保見はこくんと頷くと、続けた。
「箕狐ちゃんに会えなくなるなんて、そんなの嫌だって言ったら、先生は分かったって言った! 先生はっ……先生……。──先生って誰?」
保見は目を大きく見開いて頭を抱えしゃがみこんだ。柳は焦って保見に駆け寄る。
「大丈夫か? しっかりしろ! いいか、何も考えるな。僕を見ろ」
「柳さん……」
保見は、柳に言われた通りに柳の顔を見つめた。呼吸が荒く、額から汗が噴き出して、視界が揺れる。どうしたんだろう……自分はどうしちゃったんだろう……保見はそう想いながら、声を絞り出した。
「柳さん……。先生って……誰? 私、私、知らないのに……知ってる……。教えて……柳さんなら、先生のこと知ってるでしょう?」
柳は驚いた。記憶封じ術の最高方式の十段で閉じ込めたはずの「常葉にまつわる記憶」を、この少女は今まさに無理やりこじ開け、思いだそうとしているのだ。柳自身でさえ、術の心得なしに、自らの力だけで十段記憶封じを破ることは不可能であるはずだ。しかし、この少女は……。
「止めるんだ。保見。考えるな。思い出そうとするな」
「嫌! 先生は……先生はっ……」
仕方ない、と柳は背負っていた荷物を急いで解き、中から小さな小瓶を取り出した。そして、小瓶の蓋をキュッと抜くと、うずくまる保見の体を起して、鼻先に小瓶の口を近づけて嗅がせた。しばらくすると保見はトロンとした表情になり、おとなしくなった。
(やれやれ……やっと落ち着いたか……。精神弛緩剤を使うことになるとはな……。常葉が霊力を封じていたはずなのに……恐ろしい娘だ)
保見はぼんやりと上の空を眺めている。大丈夫か、という柳の声に、うん、と小さく答えると立ち上がった。空を鳥が横切っていく。
「鳥はいいなぁ……自分の翼で、どこまでも飛んで行けて……。自由に、遠くまで飛んで行けて……。私にも翼があったらなぁ……。生まれ変わったら、今度は鳥になりたいなぁ……」
「保見…………」
「いいなぁ……」
さわさわ……
保見になんと声をかけたら良いのか戸惑っている柳の首筋に、何かがちくっと刺さるような感触がした。虫か? と思い、パシッと手を当ててみる。手ごたえは無かった。首元から手を離して掌を見ると糸のような黒い細かいものがさわさわと蠢いている。
(──髪の毛! 常葉の念を感じる……!)
柳は荷物の中から、無地の白い手ぬぐいを取り出し、地面に急いで広げた。保見はぼんやりとそんな柳の様子を眺めている。
さわさわさわ…………
髪が一瞬にして手拭の上に集まり、まるで筆で文字を書くがごとく、右上から文字の形を成して固定されていく。その内容は、
「雷獣が保見を狙っている……!?」
柳はすぐさま霊感を研ぎ澄ませ、近くの妖気を探った。
(もうすぐそこまで来ているではないか!)
柳は荷物を背負い、保見の手をとった。保見はぼんやりと柳を眺めながら、
「柳さん、もう行くの? 旅館へ?」
「いやっ!」
柳は、ぐいっと保見の手をひいて、早足で歩きだした。
「旅館の件は無しだ。厄介なことになった。とにかく急ぐんだ。走れ!」
保見は薬のせいでうまく歩けず、足がもつれて転んでしまった。柳は無言のままさっと保見を抱き上げて、走りだした。
「じゃあ、今度はどこに行くの?」
「今は少し黙れ! お前の命にかかわる危機なんだ。雷獣という化け物が、お前を喰おうと狙っているらしい。来るぞ」
「私を? 食べるの?」
保見はぼんやりとしたまま、柳の腕の中でおとなしくなった。しばらく黙っていたかと思うと、眠そうな声で言った。
「もういいよ。私、生まれ変わったら、鳥になるから……もう、いいよ、柳さん。わたし、妖怪に食べられても、いいよ」
「馬鹿!」
柳は息を切らしながら怒鳴った。必死な表情だった。
「来世だとか、生まれ変わりだとか、そんなあるかどうかも分からない馬鹿なこと言うな! 今生きなくてどうする? お前は僕が引き受けると、約束したんだ。死なせやしないさ」
「約束? 誰と?」
柳は走りながら、汗だくになりながら、吐き捨てるように言った。
「お前の言う、先生とさ!」
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家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
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