醜悪の町

九重智

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第二十五話

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 あれからどれだけ経ったかわからないし、知る気もない。
「『先生』! 汽笛が聴こえた! 汽笛が! きっと来るよ! 来る来る!」
『ミミズ』が丘を駆け上がりそう叫んだ。
「ああ、良いことだね。じゃあいつものように『挨拶』をしよう」
「もちろん! もちろん!」
『ミミズ』はそう言ってうなじの痣を触った。いつもおなじ箇所を触っているせいで刺激が足らず、いまや膨らんだ腫れをつぶしては、どろどろになったその痕を引っ掻くのが習慣になっている。もちろん痣は翌日にはもとにもどる。しかし『ミミズ』の顔立ちは最初に見たころよりもはるかに皺が増え、いやしい目つきで魅力的だ。
 私は何度『ミミズ』を家に呼んだかわからない。『ミミズ』はより刺激的な暴力に興奮するようになり、私も過激な暴力ほど高揚する。『ミミズ』が来たとき丘からは彼女の叫びが木霊し、猿叫のように住民も歓声をあげる。私は行為を中断し、家の窓からけたたましい町を見るのが好きだった。剥き出しの野生。理性ではなく本能で生きる人々はどうしてこうも美しいのだろう。一本道で喧嘩が起こる。一方は首を絞めつける腕にかじりつき、犬歯を突き立てている。食堂の前では老人たちが性交をし、たるんだ性器をくわえている。脱糞のあと、嘔吐のあと、精子のあと、血のあと。ほかの町では目を逸らさせるそれらはすべて晒され、生の力動を感じさせる。
「『先生』! わたしがここまで呼ぶからよお! 説得せにゃあよお!」
『ミミズ』はそう言いながらまだ懇願じみた顔で私を見ている。きっと、アレの効果が切れてきているのだった。
「『薬』はまだ駄目だよ。あれはしない時期が長いほど飲んだときの快楽が増すんだ。夜まで待ちなさい」
『ミミズ』はしょぼくれて丘を下った。
 私がここの『先生』になって第一の功績はこれだろう。私はバーのとき、この町の外の知識を思い出せた。むろんそのほとんどはこの町に無縁のものだが、しかしほかの町の裏で流通する、たとえば麻薬などは有用で、いまや『挨拶』の一環に組み込まれている。依存した人々はそうでない人々よりも遥かに理性が崩れやすい。そこを漬け込んで、もうすでに私が町に訪れたころから十人は住民を増やした。
「うあああ、うあああ、うああああ」
 家から声が聴こえる。弱々しい、ぐずる赤ん坊のような声。また前の『先生』が『薬』を欲しているのだろう。
 皮肉なことに、『薬』は私の功績でありながら、彼の功績でもある。いつだったか、前の『先生』はここを抜け出そうとした。『挨拶』を済ませた新しい女に恋心を抱いたらしかった。『先生』の恋心をいちはやく察知した私は、『先生』を殴り倒し、この家に閉じ込め、まだ実験段階だった自作の『薬』を飲ませつづけた。一週間で『先生』は恋を忘れた。それどころか過程の、とくに成分の多量な『薬』でほとんど廃人になった。しかしそれもいいだろう。理性よりも野生が美化されるこの町では、この男はもっとも美しい存在になったのだから。
 私はきまぐれに一本道まで下った。往来では若い青年が口を開けさせられ、涎を垂らしながら『薬』を飲まされているところだった。『薬』を飲みこんだ青年はぐらついた頭を抱え、膝をつく。
「おい! 口を抑えろ! 吐き出させるなよ!」
 私がそう叫ぶとにしさんが青年の背後から口を手で覆った。呼吸のタイミングがズレた青年はむせるように咳き込み、鼻水を垂らす。周りが「『先生』! 『先生』!」と喚くなか、私は青年に近寄り、その腹部を蹴り上げた。青年は白目をむき、涙が浮かばせた。きっとこみあげた嘔吐が逆流しているところだろう。ふつうなら窒息するところだが、ここではそれもない。ただ長い気絶があり、目覚めたころには『薬』が全身に巣食っている。
「さすが『先生』だあ!」
 住民たちが私を羨望のまなざしで見る。悪くない気分だった。白目をむいた青年も、悪くない。悪くないが、しかしまだ足りない。まだ、この青年は失いきっていない。いろんな姿をここでは見ることができるが、私が好きなのは、人間がすべてを失う瞬間だ。人が大事な何かを、生きるための何かを失うとき、ほんとうの失意と絶望が見える。刹那的に、真っ暗な花火が打ちあがるのだ。そうたとえば、『先生』のように。
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