醜悪の町

九重智

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二十一話

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 バーを出ると私は走った。階段を二段飛ばしに上り、プラットフォームを駆け、曲がりが甘く改札に腿をぶつける。痛い。しかしこんな痛み、悶えている場合じゃなかった。私は痛めた右脚を抑えもせずまた走った。
 私と『先生』がバーを出る直前、私はカウンターテーブルに突っ伏した車掌を起こした。起こすと車掌はみるからに青ざめ、発狂にちかい声で叫んだ。
「ああ、気持ち悪い! 気持ち悪い! 汗でべっしょりじゃないか! マスター! 鏡を! ああひどい……やっぱりマスター泡立てネットをください! ……はやく! ああ、ほら痣もできてる……マスター! 何してるんだ! はやく!」
 車掌の慌てようはひどかった。消臭スプレーを全身に吹きかけ、マスターがもってきた鏡を睨みながら洗顔を泡立てた。車掌はまた泡立てネット以外にもあれこれとマスターから借りた。
「あの、開放日はいつなんですか」
 私は当初の目的をそのときようやく思い出した。しかし水道でばしゃばしゃと泡を洗い落とす車掌には聴こえていない。
「明日だよ」
 車掌のかわりに『先生』が言った。
「嘘でしょう?」
「いいや、嘘じゃないさ。というよりいまの君が明日が開放日であることを望んだらその日は開放日になる」
「それも嘘だ。こんどこそ僕を轢き殺そうとするんでしょう」
「どうしてそう思う? 俺にメリットがないじゃないか。君がほんとうに死んでしまったらそれこそこの町は終わりだ」
「でもほんとうのことを言うメリットもない。いや、もし僕をここに居させたいなら明日なんて言わないほうがいい」
『先生』は何も言わなかった。ただにやつくだけで、もうわかってるのに、というような目つきをする。私ははっとした。もし、もう私が町を出る理由がないとすれば?
 私がここを出る理由、それはきっとキヨのことだった。しかしもし住民があと一人でもいなくなってはいけないのだとしたらキヨを殺しはしない。だとしたら大丈夫なのではないか? ……これは楽観だった。一抹の希望とさえいっていい。しかしそんな希望もこんなときにはみるみると膨らむ。そもそも、『先生』は何も理由を言っていない。私が焦っているのはただの私の悲観的な思いつきが原因じゃないか。なぜキヨが狙われると思ったのだろう。もし私のところにキヨがいることを知っているのなら、狙うチャンスはたくさんあったはずだ。しかし『先生』も不可解だ。……
 私の走りは遅かった。改札でぶつけた痛みは感じない。私は列車が来て人込みを掻き分けたときよりもはやく走っているはずだった。しかし私は遅かった。何もかもが遅すぎるように感じた。
 駅を出ると宿が見えた。宿の部屋々々には灯りが点いている。もちろん私たちの部屋からは窓にかけた布団で遮られ、その灯りはない。しかしその隣、つまり非常用の部屋からは……。
 隣の部屋のドアを蹴破るまでもなかった。扉は開かれ、いくつかの声が通りまで聞こえる。キヨの声もあった。私は部屋に入るとキヨを見つけた。それからは、あまり覚えていない。
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