醜悪の町

九重智

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第二十話

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『先生』は煙を吐き出して言った。
「わかりにくいからもっとはっきりとしたことを言おう。俺らが言っている世界のベクトルというのは何も無制限な概念じゃない。いや実際はそういう無制限さを孕んでいるんだが俺らの主題は限定されている。それは『美意識』だ。『美意識』とは簡単にいえば何を好み、嫌い、何を美しいとし、醜いとするかという問題に置かれる。この車掌が乗っている列車の通る町々はその『美意識』のグラデーションを象っているのさ。だから俺は町の死活問題として『美意識』のことを語っている」
 私はいまいち話が理解できない。いや理解できるのだがあまりにも概念的な話で、浮遊し手に触れられないものを見ている気分だった。
「意味が分かり切っていない顔だな」『先生』は細くなった煙草をそのままカウンターテーブルに押し付け、ビールをぐいと飲んだ。「まあ最後まで話を聞いてくれ。『美意識』の町の規模はそれぞれ世界のベクトルによって決まる。つまりどれだけその『美意識』が支持されるかってことだな。なあ、思わなかったか、この町は住民の数も土地の広さも異様に小さい。つまり俺らのような『美意識』は形見が狭いんだ」
「そして来月までに一人でもいなくなるとこの町はなくなる」
 車掌は煙で目を細めながらそう言った。危機に瀕した人間の、意地で吐いたような言い方だった。
『先生』は車掌を睨み、肩まで回した太い腕をぐいとあげた。すると顎が急に締められ上向いた車掌は「ぐえ」と小さい悲鳴をあげた。
「……ああ、そうだ。俺らの町は君が出て行ってしまうとなくなる。まったくぽかんと俺らの存在ごと無に帰すんだ。ひとつの『美意識』が消えるということ、それがどういうことかわかるか? それを美しいと思ったり好きだと思うやつらがいなくなるのさ。つまりそれはまったく嫌われるものになる」
「貴方たちの町の『美意識』というのは……?」
 私は徐々に顔色が赤く染まる車掌を注視しながら訊いた。
「貴方たちの、なんて冷たいこと言うなよ。俺らの町の『美意識』は俺の家に掲げた旗のとおりさ。つまり『醜の美』。醜いものほど美しい。そういったことを俺らはポリシーにしている。だが世界のベクトルは俺らを潰そうとしているんだ。人々はどんどん清潔になり、潔癖になる。いまや男でも美容液を塗りたくり、保湿して眠る世の中だ。そうなるとどうなる? 吐しゃや血や排せつや精液はめっきり表舞台から消え去るだろう」
「良いことだ! そんな不快なものはなくなればいい! 文明的で、綺麗な社会に生きよう!」
 車掌はそう叫んだきりまた顎を強く絞められ、白目をむいて泡をふいた。どうやら気絶したらしかった。
「ほら見てみな、こんなに繕ったやつでも首を絞め続ければぐるりと白目をむくし無様な泡もふく。そうなるとほら、実に魅力的だ。こんなに顎をはずして、舌が伸びきっている。俺はな、思うんだ。仮に世界に清潔と潔癖が蔓延したところでその人々は無個性じゃないか? シミを消し、皺を消し、痣を消し、生理的なものは隠され、本能的な行動は制限される。艶やかな肌と理性的な行い。その先にあるのは人間だろうか。いやちがうな、人間のもっとも美しいところはその動物性を見せた瞬間だ。打算的な美しさじゃそれは超えられない」
「……それは極論だ。その極論だけで貴方の町を擁護できない」
「いやちがうな。その極論が今まさに迫ってきているんだよ。この町が潰れるというのはそういうことなんだ。なるほどこの町は醜悪だ。あらゆる動物性が解き放たれ、アナーキーで、不快だろう。だがこの町が消えるということはその動物性が認められなくなるということだ。そういう危機に瀕しているのだ」
『先生』は語るうちに目の炎を猛っていった。それは憎悪の炎にも見えた。しかし目は私が列車で降りたときの車掌の目ともちがう、どこか侘しい瞬きがあった。
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