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第十八話
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車掌はウィスキーグラスをゆっくりと指で吊るすように持った。琥珀色のとろとろとしたゴットファザーが不安定な宙の浮き方で緩慢に揺れている。
「ベクトルを変えるほどのショック……それは相当なものなんです。小説家になるというベクトルがあるとして、そのショックは小説家になるという『決心』だけじゃ足りない。その前の、ある小説を読んで感動するという体験、それがショックとして大事なんです。しかしその体験は、ただ感動という言葉では済まされないかもしれませんね。人によっては運命なんて表現するでしょう。それほどのショックなんです。打算や理性を超えた、超越的なものを感じざる得ないほどの」
私は考えた。きっと車掌の言はオカルトじみた、個人的な思想の思い込みでしかない。自分だけの判断基準として持つのは勝手だけど、そんなに万能な考えじゃない。そうわかってはいるものの、私はその考えに肯きかけていた。この車掌の考えは私の状況を説明できるものではないのか? そうたとえば
「たとえば僕はいま自分の理性と感覚がズレている感じがするんです。たとえばそれまで思い浮かばなかった類の言葉が私の脳によぎるんです。チョコレートとか、ザクロとか。それだけじゃない、マティーニなんて酒も注文していた。数日前まで灯台も思いだせなかったのに……」
車掌は満足そうに微笑んだ。
「それは君のベクトルに理性が追い付いてないんでしょう。いや追い付いてないのもだが、君がそのベクトルの矢先を知らないから混乱してしまっている」
「じゃあ何なんです、その僕のベクトルというのは?」
私は車掌の顔をじっと見つめた。車掌の顔は見れば見るほど整っていた。とくに瞳なんかは男の私でもぎょっとする。アーモンド色の潤んだそれは吸い込まれそうなほど大きくて深い。
「具体的なものは貴方以外にはわかりません。ただこの町の望んだベクトルとは別でしょうね。貴方は何らかのショックで強い美意識に目覚めたんです。美意識。これは人間のベクトルの強い根源です。生きる目的とか生きる理由とか、結局この美意識の発展なんです。貴方の美意識がこの町に留まることを否定し、明確に行きたい別の場所ができた。この前までの貴方はそうではなかった。ただ暴力と理不尽から逃げたいという欲求があったし、そして一部、この町に慣れてもいた」
「慣れていた?」私はおどろいた。「慣れてなんかいませんよ。僕はこの町に慣れるような生活なんてしていない。やつらから離れて、列車が来るのを待っていたんだから」
「いえ。すくなくとも私がメモを渡したとき、貴方は傍目に見てここの住民でしたよ。貴方はここの住民をひとり殴り倒し、またプラットフォームで怒鳴り合っていた。突発的な暴力が身体に沁みついていたんだ。しかしいまの貴方はちがう。変わった。いやすくなくとも変わるためのベクトルができた。これはすばらしいことです。こんな町、すぐに出たらいい」
「偏見だな」
声と同時にまたバーの入り口のベルは鳴った。しかしマスターは私のときとちがって急いでドアに駆け寄り、来客を阻もうとした。が、来客は無理やりにマスターを投げ飛ばした。マスターが転がり、そのときの衝撃でソファーが動かされる。来客は倒れたマスターに言った。
「なあ、ビールあるか。冷えてなくてもいい」
来客は『先生』だった。
「ベクトルを変えるほどのショック……それは相当なものなんです。小説家になるというベクトルがあるとして、そのショックは小説家になるという『決心』だけじゃ足りない。その前の、ある小説を読んで感動するという体験、それがショックとして大事なんです。しかしその体験は、ただ感動という言葉では済まされないかもしれませんね。人によっては運命なんて表現するでしょう。それほどのショックなんです。打算や理性を超えた、超越的なものを感じざる得ないほどの」
私は考えた。きっと車掌の言はオカルトじみた、個人的な思想の思い込みでしかない。自分だけの判断基準として持つのは勝手だけど、そんなに万能な考えじゃない。そうわかってはいるものの、私はその考えに肯きかけていた。この車掌の考えは私の状況を説明できるものではないのか? そうたとえば
「たとえば僕はいま自分の理性と感覚がズレている感じがするんです。たとえばそれまで思い浮かばなかった類の言葉が私の脳によぎるんです。チョコレートとか、ザクロとか。それだけじゃない、マティーニなんて酒も注文していた。数日前まで灯台も思いだせなかったのに……」
車掌は満足そうに微笑んだ。
「それは君のベクトルに理性が追い付いてないんでしょう。いや追い付いてないのもだが、君がそのベクトルの矢先を知らないから混乱してしまっている」
「じゃあ何なんです、その僕のベクトルというのは?」
私は車掌の顔をじっと見つめた。車掌の顔は見れば見るほど整っていた。とくに瞳なんかは男の私でもぎょっとする。アーモンド色の潤んだそれは吸い込まれそうなほど大きくて深い。
「具体的なものは貴方以外にはわかりません。ただこの町の望んだベクトルとは別でしょうね。貴方は何らかのショックで強い美意識に目覚めたんです。美意識。これは人間のベクトルの強い根源です。生きる目的とか生きる理由とか、結局この美意識の発展なんです。貴方の美意識がこの町に留まることを否定し、明確に行きたい別の場所ができた。この前までの貴方はそうではなかった。ただ暴力と理不尽から逃げたいという欲求があったし、そして一部、この町に慣れてもいた」
「慣れていた?」私はおどろいた。「慣れてなんかいませんよ。僕はこの町に慣れるような生活なんてしていない。やつらから離れて、列車が来るのを待っていたんだから」
「いえ。すくなくとも私がメモを渡したとき、貴方は傍目に見てここの住民でしたよ。貴方はここの住民をひとり殴り倒し、またプラットフォームで怒鳴り合っていた。突発的な暴力が身体に沁みついていたんだ。しかしいまの貴方はちがう。変わった。いやすくなくとも変わるためのベクトルができた。これはすばらしいことです。こんな町、すぐに出たらいい」
「偏見だな」
声と同時にまたバーの入り口のベルは鳴った。しかしマスターは私のときとちがって急いでドアに駆け寄り、来客を阻もうとした。が、来客は無理やりにマスターを投げ飛ばした。マスターが転がり、そのときの衝撃でソファーが動かされる。来客は倒れたマスターに言った。
「なあ、ビールあるか。冷えてなくてもいい」
来客は『先生』だった。
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