18 / 26
第十八話
しおりを挟む
車掌はウィスキーグラスをゆっくりと指で吊るすように持った。琥珀色のとろとろとしたゴットファザーが不安定な宙の浮き方で緩慢に揺れている。
「ベクトルを変えるほどのショック……それは相当なものなんです。小説家になるというベクトルがあるとして、そのショックは小説家になるという『決心』だけじゃ足りない。その前の、ある小説を読んで感動するという体験、それがショックとして大事なんです。しかしその体験は、ただ感動という言葉では済まされないかもしれませんね。人によっては運命なんて表現するでしょう。それほどのショックなんです。打算や理性を超えた、超越的なものを感じざる得ないほどの」
私は考えた。きっと車掌の言はオカルトじみた、個人的な思想の思い込みでしかない。自分だけの判断基準として持つのは勝手だけど、そんなに万能な考えじゃない。そうわかってはいるものの、私はその考えに肯きかけていた。この車掌の考えは私の状況を説明できるものではないのか? そうたとえば
「たとえば僕はいま自分の理性と感覚がズレている感じがするんです。たとえばそれまで思い浮かばなかった類の言葉が私の脳によぎるんです。チョコレートとか、ザクロとか。それだけじゃない、マティーニなんて酒も注文していた。数日前まで灯台も思いだせなかったのに……」
車掌は満足そうに微笑んだ。
「それは君のベクトルに理性が追い付いてないんでしょう。いや追い付いてないのもだが、君がそのベクトルの矢先を知らないから混乱してしまっている」
「じゃあ何なんです、その僕のベクトルというのは?」
私は車掌の顔をじっと見つめた。車掌の顔は見れば見るほど整っていた。とくに瞳なんかは男の私でもぎょっとする。アーモンド色の潤んだそれは吸い込まれそうなほど大きくて深い。
「具体的なものは貴方以外にはわかりません。ただこの町の望んだベクトルとは別でしょうね。貴方は何らかのショックで強い美意識に目覚めたんです。美意識。これは人間のベクトルの強い根源です。生きる目的とか生きる理由とか、結局この美意識の発展なんです。貴方の美意識がこの町に留まることを否定し、明確に行きたい別の場所ができた。この前までの貴方はそうではなかった。ただ暴力と理不尽から逃げたいという欲求があったし、そして一部、この町に慣れてもいた」
「慣れていた?」私はおどろいた。「慣れてなんかいませんよ。僕はこの町に慣れるような生活なんてしていない。やつらから離れて、列車が来るのを待っていたんだから」
「いえ。すくなくとも私がメモを渡したとき、貴方は傍目に見てここの住民でしたよ。貴方はここの住民をひとり殴り倒し、またプラットフォームで怒鳴り合っていた。突発的な暴力が身体に沁みついていたんだ。しかしいまの貴方はちがう。変わった。いやすくなくとも変わるためのベクトルができた。これはすばらしいことです。こんな町、すぐに出たらいい」
「偏見だな」
声と同時にまたバーの入り口のベルは鳴った。しかしマスターは私のときとちがって急いでドアに駆け寄り、来客を阻もうとした。が、来客は無理やりにマスターを投げ飛ばした。マスターが転がり、そのときの衝撃でソファーが動かされる。来客は倒れたマスターに言った。
「なあ、ビールあるか。冷えてなくてもいい」
来客は『先生』だった。
「ベクトルを変えるほどのショック……それは相当なものなんです。小説家になるというベクトルがあるとして、そのショックは小説家になるという『決心』だけじゃ足りない。その前の、ある小説を読んで感動するという体験、それがショックとして大事なんです。しかしその体験は、ただ感動という言葉では済まされないかもしれませんね。人によっては運命なんて表現するでしょう。それほどのショックなんです。打算や理性を超えた、超越的なものを感じざる得ないほどの」
私は考えた。きっと車掌の言はオカルトじみた、個人的な思想の思い込みでしかない。自分だけの判断基準として持つのは勝手だけど、そんなに万能な考えじゃない。そうわかってはいるものの、私はその考えに肯きかけていた。この車掌の考えは私の状況を説明できるものではないのか? そうたとえば
「たとえば僕はいま自分の理性と感覚がズレている感じがするんです。たとえばそれまで思い浮かばなかった類の言葉が私の脳によぎるんです。チョコレートとか、ザクロとか。それだけじゃない、マティーニなんて酒も注文していた。数日前まで灯台も思いだせなかったのに……」
車掌は満足そうに微笑んだ。
「それは君のベクトルに理性が追い付いてないんでしょう。いや追い付いてないのもだが、君がそのベクトルの矢先を知らないから混乱してしまっている」
「じゃあ何なんです、その僕のベクトルというのは?」
私は車掌の顔をじっと見つめた。車掌の顔は見れば見るほど整っていた。とくに瞳なんかは男の私でもぎょっとする。アーモンド色の潤んだそれは吸い込まれそうなほど大きくて深い。
「具体的なものは貴方以外にはわかりません。ただこの町の望んだベクトルとは別でしょうね。貴方は何らかのショックで強い美意識に目覚めたんです。美意識。これは人間のベクトルの強い根源です。生きる目的とか生きる理由とか、結局この美意識の発展なんです。貴方の美意識がこの町に留まることを否定し、明確に行きたい別の場所ができた。この前までの貴方はそうではなかった。ただ暴力と理不尽から逃げたいという欲求があったし、そして一部、この町に慣れてもいた」
「慣れていた?」私はおどろいた。「慣れてなんかいませんよ。僕はこの町に慣れるような生活なんてしていない。やつらから離れて、列車が来るのを待っていたんだから」
「いえ。すくなくとも私がメモを渡したとき、貴方は傍目に見てここの住民でしたよ。貴方はここの住民をひとり殴り倒し、またプラットフォームで怒鳴り合っていた。突発的な暴力が身体に沁みついていたんだ。しかしいまの貴方はちがう。変わった。いやすくなくとも変わるためのベクトルができた。これはすばらしいことです。こんな町、すぐに出たらいい」
「偏見だな」
声と同時にまたバーの入り口のベルは鳴った。しかしマスターは私のときとちがって急いでドアに駆け寄り、来客を阻もうとした。が、来客は無理やりにマスターを投げ飛ばした。マスターが転がり、そのときの衝撃でソファーが動かされる。来客は倒れたマスターに言った。
「なあ、ビールあるか。冷えてなくてもいい」
来客は『先生』だった。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
ピアノの家のふたりの姉妹
九重智
ライト文芸
【ふたりの親愛はピアノの連弾のように奏でられた。いざもう一人の弾き手を失うと、幸福の音色も、物足りない、隙間だらけのわびしさばかり残ってしまう。】
ピアノの響く家には、ふたりの姉妹がいた。仲睦ましい姉妹は互いに深い親愛を抱えていたが、姉の雪子の変化により、ふたりの関係は徐々に変わっていく。
(縦書き読み推奨です)
もしもしお時間いいですか?
ベアりんぐ
ライト文芸
日常の中に漠然とした不安を抱えていた中学1年の智樹は、誰か知らない人との繋がりを求めて、深夜に知らない番号へと電話をしていた……そんな中、繋がった同い年の少女ハルと毎日通話をしていると、ハルがある提案をした……。
2人の繋がりの中にある感情を、1人の視点から紡いでいく物語の果てに、一体彼らは何をみるのか。彼らの想いはどこへ向かっていくのか。彼の数年間を、見えないレールに乗せて——。
※こちらカクヨム、小説家になろう、Nola、PageMekuでも掲載しています。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/light_novel.png?id=7e51c3283133586a6f12)
スマホゲーム王
ルンルン太郎
ライト文芸
主人公葉山裕二はスマホゲームで1番になる為には販売員の給料では足りず、課金したくてウェブ小説を書き始めた。彼は果たして目的の課金生活をエンジョイできるのだろうか。無謀な夢は叶うのだろうか。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる