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第十六話
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車掌が指示したバーを私は知らなかった。車掌のメモには簡易的な地図も記され、それによるとバーは駅の地下で、プラットフォームの端の階段からそこに辿り着くという。むろん私は疑った。駅に入り浸っていたころ私はプラットフォームも仔細に調べまわったがそのような階段はなかった。
しかしいざプラットフォームの端へ行くと、階段はあっさりと見つかった。私はてっきり階段が何かしらで巧妙に隠されていると思っていた。けれどもプラットフォームをすこし歩けば壁に人ひとり分入れそうな縦長の穴が見つかり、またその穴の上には『バー清醜』というネオンの看板が掲げてあった。ネオンはこの暗闇ではいやというほど目立つ。いやきっと昼間でもこの蛍光色の放電管は注目の的であるはずだった。
私は『バー清醜』の下をくぐった。石段の一段目に足をかけると壁沿いに備えられた五本のネオン管が光った。五色のそれは目にうるさく、むしろ足元が見えにくい。親切に手すりもあり、私はそれを握りしめながら慎重に下った。階段は長くない。らせん状で、一回りもするとバーの扉が見えた。扉は重厚な黒茶で、オークの木らしかった。取っ手の金のメッキは剥がれあちこちに暗緑色が顔を出していた。
私は取っ手を押した。
バーの内装は扉の老紳士的な雰囲気にたがわず長年丁寧に手入れされた感じがあった。カウンターがあり、ソファー席が手前と奥とでふたつある。黒い漆喰を塗ったカウンターも、そのうしろにある陳列棚の酒瓶やアンティーク調の雑貨も、チョコレートのようなソファーも硝子のテーブルもすべて磨かれ、すくない灯りをよく弾いている。店内には軽快なジャズが流れ、先客はおらず、氷を削っていたマスターは私を一瞥するとやわらかく微笑んだ。たぶんどこでも座っていいという合図だろう。
「すみません、こんな身なりで」
カウンターの一番手前に座ると注文やら店の世辞やら待ち人の話より先にこんなことが口から出た。それはまったく自然に発言され、反芻するとどこか奇妙な響きがした。
「いえいえ、ここに来る人は大抵はじめてですから」
マスターは氷を削る手を止め、清潔なタオルで拭いた。タオルはきめの細かい、見るからにふわふわとした手触りのようだった。
「はじめての客だと皆こんな身なりなんですか」
「ええ、そうです。しかしあなたもきっとここに見合う身なりになりますよ。ただそのときにはここに来ることはないでしょうが」
マスターは微笑みを絶やさなかった。この店とおなじ、老紳士的な笑みと声色はどことなく私を安堵させる。しかし話の内容といえば……。
「メニューはこちらです」
私はマティーニを頼んだ。マティーニ? 私はここに来たあたりから違和感があった。いや違和感とはすこしちがう。違和感は感覚からくるものだとしたら、これはその逆で理性的な引っ掛かりに似ていた。私はどうしてマティーニなんて知っているのだろう。埠頭も灯台も忘れていたのに。
マティーニが差し出され、一口飲んだ。意外でもなく、味は爽やかで飲みやすい。ハーブの香りが鼻から突き抜ける。ここのマティーニはとくにフルーティーでザクロの甘酸っぱさが際立った。
扉につけられたベルの、乾いた鐘音が鳴った。車掌がやってきた。
しかしいざプラットフォームの端へ行くと、階段はあっさりと見つかった。私はてっきり階段が何かしらで巧妙に隠されていると思っていた。けれどもプラットフォームをすこし歩けば壁に人ひとり分入れそうな縦長の穴が見つかり、またその穴の上には『バー清醜』というネオンの看板が掲げてあった。ネオンはこの暗闇ではいやというほど目立つ。いやきっと昼間でもこの蛍光色の放電管は注目の的であるはずだった。
私は『バー清醜』の下をくぐった。石段の一段目に足をかけると壁沿いに備えられた五本のネオン管が光った。五色のそれは目にうるさく、むしろ足元が見えにくい。親切に手すりもあり、私はそれを握りしめながら慎重に下った。階段は長くない。らせん状で、一回りもするとバーの扉が見えた。扉は重厚な黒茶で、オークの木らしかった。取っ手の金のメッキは剥がれあちこちに暗緑色が顔を出していた。
私は取っ手を押した。
バーの内装は扉の老紳士的な雰囲気にたがわず長年丁寧に手入れされた感じがあった。カウンターがあり、ソファー席が手前と奥とでふたつある。黒い漆喰を塗ったカウンターも、そのうしろにある陳列棚の酒瓶やアンティーク調の雑貨も、チョコレートのようなソファーも硝子のテーブルもすべて磨かれ、すくない灯りをよく弾いている。店内には軽快なジャズが流れ、先客はおらず、氷を削っていたマスターは私を一瞥するとやわらかく微笑んだ。たぶんどこでも座っていいという合図だろう。
「すみません、こんな身なりで」
カウンターの一番手前に座ると注文やら店の世辞やら待ち人の話より先にこんなことが口から出た。それはまったく自然に発言され、反芻するとどこか奇妙な響きがした。
「いえいえ、ここに来る人は大抵はじめてですから」
マスターは氷を削る手を止め、清潔なタオルで拭いた。タオルはきめの細かい、見るからにふわふわとした手触りのようだった。
「はじめての客だと皆こんな身なりなんですか」
「ええ、そうです。しかしあなたもきっとここに見合う身なりになりますよ。ただそのときにはここに来ることはないでしょうが」
マスターは微笑みを絶やさなかった。この店とおなじ、老紳士的な笑みと声色はどことなく私を安堵させる。しかし話の内容といえば……。
「メニューはこちらです」
私はマティーニを頼んだ。マティーニ? 私はここに来たあたりから違和感があった。いや違和感とはすこしちがう。違和感は感覚からくるものだとしたら、これはその逆で理性的な引っ掛かりに似ていた。私はどうしてマティーニなんて知っているのだろう。埠頭も灯台も忘れていたのに。
マティーニが差し出され、一口飲んだ。意外でもなく、味は爽やかで飲みやすい。ハーブの香りが鼻から突き抜ける。ここのマティーニはとくにフルーティーでザクロの甘酸っぱさが際立った。
扉につけられたベルの、乾いた鐘音が鳴った。車掌がやってきた。
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