16 / 26
第十六話
しおりを挟む
車掌が指示したバーを私は知らなかった。車掌のメモには簡易的な地図も記され、それによるとバーは駅の地下で、プラットフォームの端の階段からそこに辿り着くという。むろん私は疑った。駅に入り浸っていたころ私はプラットフォームも仔細に調べまわったがそのような階段はなかった。
しかしいざプラットフォームの端へ行くと、階段はあっさりと見つかった。私はてっきり階段が何かしらで巧妙に隠されていると思っていた。けれどもプラットフォームをすこし歩けば壁に人ひとり分入れそうな縦長の穴が見つかり、またその穴の上には『バー清醜』というネオンの看板が掲げてあった。ネオンはこの暗闇ではいやというほど目立つ。いやきっと昼間でもこの蛍光色の放電管は注目の的であるはずだった。
私は『バー清醜』の下をくぐった。石段の一段目に足をかけると壁沿いに備えられた五本のネオン管が光った。五色のそれは目にうるさく、むしろ足元が見えにくい。親切に手すりもあり、私はそれを握りしめながら慎重に下った。階段は長くない。らせん状で、一回りもするとバーの扉が見えた。扉は重厚な黒茶で、オークの木らしかった。取っ手の金のメッキは剥がれあちこちに暗緑色が顔を出していた。
私は取っ手を押した。
バーの内装は扉の老紳士的な雰囲気にたがわず長年丁寧に手入れされた感じがあった。カウンターがあり、ソファー席が手前と奥とでふたつある。黒い漆喰を塗ったカウンターも、そのうしろにある陳列棚の酒瓶やアンティーク調の雑貨も、チョコレートのようなソファーも硝子のテーブルもすべて磨かれ、すくない灯りをよく弾いている。店内には軽快なジャズが流れ、先客はおらず、氷を削っていたマスターは私を一瞥するとやわらかく微笑んだ。たぶんどこでも座っていいという合図だろう。
「すみません、こんな身なりで」
カウンターの一番手前に座ると注文やら店の世辞やら待ち人の話より先にこんなことが口から出た。それはまったく自然に発言され、反芻するとどこか奇妙な響きがした。
「いえいえ、ここに来る人は大抵はじめてですから」
マスターは氷を削る手を止め、清潔なタオルで拭いた。タオルはきめの細かい、見るからにふわふわとした手触りのようだった。
「はじめての客だと皆こんな身なりなんですか」
「ええ、そうです。しかしあなたもきっとここに見合う身なりになりますよ。ただそのときにはここに来ることはないでしょうが」
マスターは微笑みを絶やさなかった。この店とおなじ、老紳士的な笑みと声色はどことなく私を安堵させる。しかし話の内容といえば……。
「メニューはこちらです」
私はマティーニを頼んだ。マティーニ? 私はここに来たあたりから違和感があった。いや違和感とはすこしちがう。違和感は感覚からくるものだとしたら、これはその逆で理性的な引っ掛かりに似ていた。私はどうしてマティーニなんて知っているのだろう。埠頭も灯台も忘れていたのに。
マティーニが差し出され、一口飲んだ。意外でもなく、味は爽やかで飲みやすい。ハーブの香りが鼻から突き抜ける。ここのマティーニはとくにフルーティーでザクロの甘酸っぱさが際立った。
扉につけられたベルの、乾いた鐘音が鳴った。車掌がやってきた。
しかしいざプラットフォームの端へ行くと、階段はあっさりと見つかった。私はてっきり階段が何かしらで巧妙に隠されていると思っていた。けれどもプラットフォームをすこし歩けば壁に人ひとり分入れそうな縦長の穴が見つかり、またその穴の上には『バー清醜』というネオンの看板が掲げてあった。ネオンはこの暗闇ではいやというほど目立つ。いやきっと昼間でもこの蛍光色の放電管は注目の的であるはずだった。
私は『バー清醜』の下をくぐった。石段の一段目に足をかけると壁沿いに備えられた五本のネオン管が光った。五色のそれは目にうるさく、むしろ足元が見えにくい。親切に手すりもあり、私はそれを握りしめながら慎重に下った。階段は長くない。らせん状で、一回りもするとバーの扉が見えた。扉は重厚な黒茶で、オークの木らしかった。取っ手の金のメッキは剥がれあちこちに暗緑色が顔を出していた。
私は取っ手を押した。
バーの内装は扉の老紳士的な雰囲気にたがわず長年丁寧に手入れされた感じがあった。カウンターがあり、ソファー席が手前と奥とでふたつある。黒い漆喰を塗ったカウンターも、そのうしろにある陳列棚の酒瓶やアンティーク調の雑貨も、チョコレートのようなソファーも硝子のテーブルもすべて磨かれ、すくない灯りをよく弾いている。店内には軽快なジャズが流れ、先客はおらず、氷を削っていたマスターは私を一瞥するとやわらかく微笑んだ。たぶんどこでも座っていいという合図だろう。
「すみません、こんな身なりで」
カウンターの一番手前に座ると注文やら店の世辞やら待ち人の話より先にこんなことが口から出た。それはまったく自然に発言され、反芻するとどこか奇妙な響きがした。
「いえいえ、ここに来る人は大抵はじめてですから」
マスターは氷を削る手を止め、清潔なタオルで拭いた。タオルはきめの細かい、見るからにふわふわとした手触りのようだった。
「はじめての客だと皆こんな身なりなんですか」
「ええ、そうです。しかしあなたもきっとここに見合う身なりになりますよ。ただそのときにはここに来ることはないでしょうが」
マスターは微笑みを絶やさなかった。この店とおなじ、老紳士的な笑みと声色はどことなく私を安堵させる。しかし話の内容といえば……。
「メニューはこちらです」
私はマティーニを頼んだ。マティーニ? 私はここに来たあたりから違和感があった。いや違和感とはすこしちがう。違和感は感覚からくるものだとしたら、これはその逆で理性的な引っ掛かりに似ていた。私はどうしてマティーニなんて知っているのだろう。埠頭も灯台も忘れていたのに。
マティーニが差し出され、一口飲んだ。意外でもなく、味は爽やかで飲みやすい。ハーブの香りが鼻から突き抜ける。ここのマティーニはとくにフルーティーでザクロの甘酸っぱさが際立った。
扉につけられたベルの、乾いた鐘音が鳴った。車掌がやってきた。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ピアノの家のふたりの姉妹
九重智
ライト文芸
【ふたりの親愛はピアノの連弾のように奏でられた。いざもう一人の弾き手を失うと、幸福の音色も、物足りない、隙間だらけのわびしさばかり残ってしまう。】
ピアノの響く家には、ふたりの姉妹がいた。仲睦ましい姉妹は互いに深い親愛を抱えていたが、姉の雪子の変化により、ふたりの関係は徐々に変わっていく。
(縦書き読み推奨です)
もしもしお時間いいですか?
ベアりんぐ
ライト文芸
日常の中に漠然とした不安を抱えていた中学1年の智樹は、誰か知らない人との繋がりを求めて、深夜に知らない番号へと電話をしていた……そんな中、繋がった同い年の少女ハルと毎日通話をしていると、ハルがある提案をした……。
2人の繋がりの中にある感情を、1人の視点から紡いでいく物語の果てに、一体彼らは何をみるのか。彼らの想いはどこへ向かっていくのか。彼の数年間を、見えないレールに乗せて——。
※こちらカクヨム、小説家になろう、Nola、PageMekuでも掲載しています。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/light_novel.png?id=7e51c3283133586a6f12)
スマホゲーム王
ルンルン太郎
ライト文芸
主人公葉山裕二はスマホゲームで1番になる為には販売員の給料では足りず、課金したくてウェブ小説を書き始めた。彼は果たして目的の課金生活をエンジョイできるのだろうか。無謀な夢は叶うのだろうか。
きみと最初で最後の奇妙な共同生活
美和優希
ライト文芸
クラスメイトで男友達の健太郎を亡くした数日後。中学二年生の千夏が自室の姿見を見ると、自分自身の姿でなく健太郎の姿が鏡に映っていることに気づく。
どうやら、どういうわけか健太郎の魂が千夏の身体に入り込んでしまっているようだった。
この日から千夏は千夏の身体を通して、健太郎と奇妙な共同生活を送ることになるが、苦労も生じる反面、健太郎と過ごすにつれてお互いに今まで気づかなかった大切なものに気づいていって……。
旧タイトル:『きみと過ごした最後の時間』
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。
※初回公開・完結*2016.08.07(他サイト)
*表紙画像は写真AC(makieni様)のフリー素材に文字入れをして使わせていただいてます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる