醜悪の町

九重智

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第十話

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 ふたりきりになると彼女は私の提案を受け入れた。しかしこれが、この町の『挨拶』への恐怖か、肥った老人を殴り倒した私への恐怖なのかわからない。たぶん、彼女のなかでこのふたつが混合して、そのごちゃまぜの合理性のなかで承諾したらしかった。そして私も、そのような入り混じった恐怖のほうが彼女のためになるから、特段信頼を回復しようとも思わなかった。
 あいつらが去り、しばらく経つと私たちはまず部屋の改造をした。部屋は窓にカーテンもなく、そしてドアは壊されたままで、人目を避けられるのは便所しかなかった。私はベッドの布団を窓にかけ、箪笥を開けっ放しの玄関にはめ込んだ。また便所の壁を一部引き剝がし、未使用の隣部屋までつないだ。壁はふだん剥がした木片をのりでひっつけ、すこし押せば簡単に彼女一人分は移動できるよう調整してある。私以外の人間がここを訪れるとき、あいつらは箪笥をノックしないか、しても事前に取り決めた五回叩くノックではないはずで、あいつらが箪笥を玄関の箪笥を押したり引いたりしているあいだに、彼女は木片を剥がし、隣部屋に移動して、剥がした木片をまたのりで引っ付けるという算段だった。
 彼女を部屋にかくまうようになってからも私は毎日駅まででかけた。朝、二回ぶんの食料を売店で買い、彼女に与えること以外、私の生活に変わりはない。彼女を町から脱出するためにも、私は車掌と会う必要があった。彼女と車掌との話からすると、列車はほんとうに降りるためのものらしい。だとしたら開放日がより重要だった。そもそも開放日があるのか、また『先生』の言う日は合っているのか、そこのところをはっきりとさせたい。
 しかしやはり列車はそうそう来てくれない。私が目覚め、彼女が来てから三日経つが、何一つ開放日の手がかりはなかった。
 何一つ進歩はないけれど、けれども私の心地は軽かった。いや軽いというより適切な気持ちの重さになっていったようだった。私の部屋には彼女がいた。一日ほど彼女は神経質になっていたようだったが、それを過ぎるとまた明るい、感激屋の娘にもどっていた。
「町の料理はやっぱりまずいんですけど、マヨネーズみたいな調味料つければそれほど気にならないと思うんです」
 私がたびたび吐き気を催す料理にも、彼女はこんなことを言って希望を見せた。あくる日には私は調味料の一式を買い、彼女に渡した。その日の夜に私が帰ると、彼女はさっそくその成果を見せた。
「オーロラソースをつくってかけるとホットドックは食べれますよ。ソーセージの腐ったような味はごまかせるし、パンの変な臭いは鼻をつまめばいいんです」
 私の習慣に彼女との試食会ができた。私たちは夜、買ってきたパンやらカップ麺やらと調味料との相性を試すのだ。ときおり思いがけない成功例もあるが、ほとんどの場合は失敗だった。しかしその失敗も、ふたりだったら笑えた。
 そう、彼女がいることが私にとって思わぬ気力を生み出した。私には話し相手がいた。むろん、楽しい話ばかりでないけれど、とにかく心中を吐露できる相手がいるのは何よりもの糧だった。話をしていないときも部屋に誰かがいることが私を安心させた。自分が生きる根拠がそこにある気がした。
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