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第九話
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「おい、ここに若い娘が来てなかったか」
ドアを蹴破り、肥った老人がそう言った。そのうしろで痣の老婆や禿げ頭の老人、銀歯の老婆が倒れたドアに乗っているのが見えた。
「壊したドアは修理してくれるんでしょうね」
私はそう言った。あくまで毅然として言ったつもりだった。
「そんなのはどうでもえーじゃ! 若い娘は! 若い娘はどこじゃ!」
「知りませんよ、そんなの。それよりドアは……」
「うっさいわ! ぶちくらわすぞ!」
肥った老人は拳を掲げた。拳は人を殴り慣れ、ごつごつとした岩のように固まっている。拳までの腕は筋がたち、ふだん脂肪に隠れた肩の筋肉がありありとわかった。
「殴っても、知らないものは知りません。誰なんですか、いったいその若い娘ってのは」
「しらばっくれちょんな、このクソガキが!」
肥った老人は私を殴った。これまでにこいつから受けた殴打のなかでもっとも勢いのあるものだった。しかし痛みはない。いや痛みはあったが、すぐさま忘れられるものだった。唇を切り、血が口角を汚す。けれども私はそれを拭わずにまた肥った老人を睨んだ。私は睨みながら、これまでの痛みの大半が、ただの痛覚ではなく恥そのものなのだと知った。私は、彼女がいるはずの便所を、一瞥たりともしなかった。
「権爺さん、ちょっとどいてくれないかね」
老人たちの群れのさらに向こうから、そう声がした。すると老人たちはおずおずと道を開け、大袈裟に『先生』と叫びはじめた。
「彼とは俺が話すよ。皆はもう帰っていい」
声に従って、肥った老人たちは引き上げた。あいだ、何度もドアは踏まれた。私が「ドアは直すんだろうな!」と叫ぶと、肥った老人が引き返し、また私を殴った。血がより激しくなったが、こんどは私も殴り返した。肥った老人はおどろきもあって尻もちをついた。私は肥った老人の股を蹴り上げた。
「もうあんたは来なくていい! ドアも直すな! もし来たらまたやってやる。こんどは徹底的に腫れ上がらせるぞ!」
肥った老人は股を抑えながら逃げ出した。
『先生』が始終を見て、ゆったりとベッドの前の床に座った。
「ずいぶん荒れてるじゃないか」
『先生』はにやついてそう言った。
「ああ、昨日死にかけたもんでね。あんたにもおなじことをするぞ」
「怖いことを言うね。まあ元気なのは何よりだ」
『先生』はそう言いながら煙草に火を点けた。
「ここは禁煙だ」
と私が言った。
「いや、ここは全面喫煙だよ」
「この部屋の主は僕だ。僕が禁煙と言ったら禁煙なんだ」
「ちがうね、ここの主は宿主だ。宿主が喫煙と言ったら喫煙」
私たちはしばしにらみ合った。
「まあいい。それよりも君にも知らせないといけないね。なにせ君もこの町の住人なんだから」
『先生』は煙草に床に押し付けながら言った。
「僕はこの町の住人じゃない」
「でも実際にこの町に住んでいるじゃないか。それとも、人じゃないのかな」
「どういう定義であっても、僕はこの町の住民であることを認めるわけにはいかない」
『先生』は含んだように笑った。
「まあ、いいよ。いつかは受け入れることなんだから。とにかく話を聞きなよ。この町にね、若い娘、まあ十七歳とかそこらへんかな、それぐらいの女が降りたらしいんだ。降りたらしいといってもね、ちょっと事態が事態で、すこしイレギュラーだったもんだから、君の受けたような挨拶はなかったんだ」
「挨拶?」
「ああ、そうだ挨拶さ。君が三度吐いて、その嘔吐に顔を押し付けられ、あの食堂の芋虫みたいなスープの具を食べ、また吐いて、老人たちの乱交パーティーに出くわし、また吐く。そして俺のところに来る。それが、一連のうちの挨拶なんだ」
「それを、若い娘にしようとしたのか」
私は声が震えるのを必死に抑えながら言った。
「ああ、この町の儀礼みたいなものさ。一通り経験してもらって、慣れてもらうんだ」
「やっぱり僕はここの住民ではないな。そんな慣習、絶対に認められない」
「いまはね」
『先生』は立ち上がった。立ち上がり、部屋を出る際、ドアを持ちあげ直そうとした。
「いい! ほっといてくれ! そして二度とここに来るんじゃない! 誰も、ここに来るなと伝えとけ!」
私は叫んだ。『先生』はまた脂ぎったにやけ面で一瞥した。そしてまた「いまはね」と呟いた。
ドアを蹴破り、肥った老人がそう言った。そのうしろで痣の老婆や禿げ頭の老人、銀歯の老婆が倒れたドアに乗っているのが見えた。
「壊したドアは修理してくれるんでしょうね」
私はそう言った。あくまで毅然として言ったつもりだった。
「そんなのはどうでもえーじゃ! 若い娘は! 若い娘はどこじゃ!」
「知りませんよ、そんなの。それよりドアは……」
「うっさいわ! ぶちくらわすぞ!」
肥った老人は拳を掲げた。拳は人を殴り慣れ、ごつごつとした岩のように固まっている。拳までの腕は筋がたち、ふだん脂肪に隠れた肩の筋肉がありありとわかった。
「殴っても、知らないものは知りません。誰なんですか、いったいその若い娘ってのは」
「しらばっくれちょんな、このクソガキが!」
肥った老人は私を殴った。これまでにこいつから受けた殴打のなかでもっとも勢いのあるものだった。しかし痛みはない。いや痛みはあったが、すぐさま忘れられるものだった。唇を切り、血が口角を汚す。けれども私はそれを拭わずにまた肥った老人を睨んだ。私は睨みながら、これまでの痛みの大半が、ただの痛覚ではなく恥そのものなのだと知った。私は、彼女がいるはずの便所を、一瞥たりともしなかった。
「権爺さん、ちょっとどいてくれないかね」
老人たちの群れのさらに向こうから、そう声がした。すると老人たちはおずおずと道を開け、大袈裟に『先生』と叫びはじめた。
「彼とは俺が話すよ。皆はもう帰っていい」
声に従って、肥った老人たちは引き上げた。あいだ、何度もドアは踏まれた。私が「ドアは直すんだろうな!」と叫ぶと、肥った老人が引き返し、また私を殴った。血がより激しくなったが、こんどは私も殴り返した。肥った老人はおどろきもあって尻もちをついた。私は肥った老人の股を蹴り上げた。
「もうあんたは来なくていい! ドアも直すな! もし来たらまたやってやる。こんどは徹底的に腫れ上がらせるぞ!」
肥った老人は股を抑えながら逃げ出した。
『先生』が始終を見て、ゆったりとベッドの前の床に座った。
「ずいぶん荒れてるじゃないか」
『先生』はにやついてそう言った。
「ああ、昨日死にかけたもんでね。あんたにもおなじことをするぞ」
「怖いことを言うね。まあ元気なのは何よりだ」
『先生』はそう言いながら煙草に火を点けた。
「ここは禁煙だ」
と私が言った。
「いや、ここは全面喫煙だよ」
「この部屋の主は僕だ。僕が禁煙と言ったら禁煙なんだ」
「ちがうね、ここの主は宿主だ。宿主が喫煙と言ったら喫煙」
私たちはしばしにらみ合った。
「まあいい。それよりも君にも知らせないといけないね。なにせ君もこの町の住人なんだから」
『先生』は煙草に床に押し付けながら言った。
「僕はこの町の住人じゃない」
「でも実際にこの町に住んでいるじゃないか。それとも、人じゃないのかな」
「どういう定義であっても、僕はこの町の住民であることを認めるわけにはいかない」
『先生』は含んだように笑った。
「まあ、いいよ。いつかは受け入れることなんだから。とにかく話を聞きなよ。この町にね、若い娘、まあ十七歳とかそこらへんかな、それぐらいの女が降りたらしいんだ。降りたらしいといってもね、ちょっと事態が事態で、すこしイレギュラーだったもんだから、君の受けたような挨拶はなかったんだ」
「挨拶?」
「ああ、そうだ挨拶さ。君が三度吐いて、その嘔吐に顔を押し付けられ、あの食堂の芋虫みたいなスープの具を食べ、また吐いて、老人たちの乱交パーティーに出くわし、また吐く。そして俺のところに来る。それが、一連のうちの挨拶なんだ」
「それを、若い娘にしようとしたのか」
私は声が震えるのを必死に抑えながら言った。
「ああ、この町の儀礼みたいなものさ。一通り経験してもらって、慣れてもらうんだ」
「やっぱり僕はここの住民ではないな。そんな慣習、絶対に認められない」
「いまはね」
『先生』は立ち上がった。立ち上がり、部屋を出る際、ドアを持ちあげ直そうとした。
「いい! ほっといてくれ! そして二度とここに来るんじゃない! 誰も、ここに来るなと伝えとけ!」
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