醜悪の町

九重智

文字の大きさ
上 下
5 / 26

第五話

しおりを挟む
 男は私の肩を持ち、上りながらこんなことを言った。
「あ、そうそう。伝えるのを忘れていたけれど、俺はここで『先生』と呼ばれているんだ。たぶん、君も下でいちどは聞いただろう。皆、先生! って狂ったように叫ぶからね、俺も恥ずかしいところがあるよ。だからここには着いて来てもらわなかったんだ。さっきみたいな話がしにくいからね。俺は一応『先生』だけにそれなりの権限がある。しかしあんまり使う気はないね。知っているかい、明らかに権力ある人間があえて自制したようにその力を使わないと、むしろ人々から好意を持たれるんだ。なんて謙虚な人なんだろうってね。まあそんなことはどうでもいい。ほら、あれが俺の家さ。あの旗には『醜の美』と書かれている。ただまあこれを書いたのはヨッちゃんなんだが、そう、ほらよく性器を触ってくる浅黒い銀歯の女さ。むかしは結構綺麗だったんだがね。まあともかくヨッちゃんは書きたがるわりにスプレーの加減間違えて字を潰してしまうんだ。現にあれだって『醜』の酉が百みたいに見えるだろう」
 私は小屋の居間まで連れられた。居間は物があふれ散らばり、宿のそれとは比較できないほどに乱れていた。ローテーブルには本や料理の食べ残しが積み上げられ、ソファーの布生地はところどころ破れたり汁かなにかで変色したりしている。放射された精子のせいで固く丸まったテッシュも多い。書類やら酒瓶で埋められた床を『先生』は足でのけながらすすんだ。
「さあ座って。久しぶりと言えば久しぶりなんだお客さんってのは」
 促されて私はソファーのまだ清潔そうなところに浅く座った。そのとき手に淡のようなものがついた。
「あの、拭くものは」
「ないね。自分のズボンをつかいなよ」
 そう言って『先生』は煙草を吸い、酒を飲みはじめた。『先生』は若いが、たしかにこの町の『先生』らしく、極度の肥満で、腕、脚、口や顎には体毛が群生し、オールバックの神の下にぎょろりとした大きな目がある。私はまた、あの肥った老人の殴打を思い出した。
「どうだい君は」
「いえ僕は……」
「気力がないときに楽しむもんなのになあ」
「……それより、次の列車は何時発着なんですか」
「さあ……」
『先生』は呑気そうに紫煙を吐き、酒を飲んだ。濁り、灰色のカビの沈殿したビールをうまそうに飲み干している。
「さあって……」
「いや知っているわけじゃないんだ。僕は汽笛の音が聴こえる。だから来たとかどうとかわかるだけで、そもそもいつ来るかなんて決められてないんだ。駅に行ってみるといいよ、時刻表も何もないからさ。そもそも、あの列車がここに来るのはこの町の住人を運ぶためじゃない。だからといって別の町の住人を運ぶためのものでもない。君のような人間を振り分けるためにあるんだ。だからもういちど列車に乗ろうとしても無駄なんだよ。きっと乗車拒否されるだろうね」
 私は黙った。黙りながら、思考を巡らせた。『先生』が嘘をついている可能性をまだ私は捨て切れず、それは楽観的な疑いではあったが、しかしそれにすがるよりほかなかった。もし『先生』の言が事実であったら……。
「じゃあ、僕はここに一生住むということなんですね」
「いや、そういうわけでもない。線路開放日といって一か月に一度、必ず列車が来ない日がある。その日に線路づたいに歩いて移動すればいい話さ。正直、一日では三駅がせいぜいだろうけど」
「その日はいつなんです」
「昨日がちょうど開放日だったから、まあだいたい一か月後だね。それまではこの町を楽しみたまえよ」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ようこそ精神障害へ

まる1
ライト文芸
筆者が体験した精神障碍者自立支援施設での、あんなことやこんな事をフィクションを交えつつ、短編小説風に書いていきます。 ※なお筆者は精神、身体障害、難病もちなので偏見や差別はなく書いていこうと思ってます。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ピアノの家のふたりの姉妹

九重智
ライト文芸
【ふたりの親愛はピアノの連弾のように奏でられた。いざもう一人の弾き手を失うと、幸福の音色も、物足りない、隙間だらけのわびしさばかり残ってしまう。】 ピアノの響く家には、ふたりの姉妹がいた。仲睦ましい姉妹は互いに深い親愛を抱えていたが、姉の雪子の変化により、ふたりの関係は徐々に変わっていく。 (縦書き読み推奨です)

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

奇妙な日常

廣瀬純一
大衆娯楽
新婚夫婦の体が入れ替わる話

日給二万円の週末魔法少女 ~夏木聖那と三人の少女~

海獺屋ぼの
ライト文芸
ある日、女子校に通う夏木聖那は『魔法少女募集』という奇妙な求人広告を見つけた。 そして彼女はその求人の日当二万円という金額に目がくらんで週末限定の『魔法少女』をすることを決意する。 そんな普通の女子高生が魔法少女のアルバイトを通して大人へと成長していく物語。

処理中です...