3 / 26
第三話
しおりを挟む
駅を出ると、視界には灰色の町並みがあった。さっきまでの晴天が嘘のように厚い雲に隠れ、駅から正面の丘まで延びた一本道は幅が狭く、それだから道沿いに密集した建物の影は対岸までかかっている。建物はたいがい古びた木造で、道は舗装されていない。電柱も街灯もなく、土道の濃い色合いの箇所は放置された嘔吐や排せつのシミだった。まだ列車に乗っていたころ私が嗅いだ異臭はどうやらこのシミから漂ったらしい。
異臭は車内にいたものより数段きつく、あの酸っぱい臭いがより複雑な鋭利さを伴って全身をかけめぐった。首筋と頬の鳥肌がたち、シャツの裾で鼻を覆った。そうすると肥った老人が私の手をとって、無理やりに臭いを嗅がせてくる。
「そんなことしちゃいかん」
これが彼の真剣な注意か、はたまたジョークなのか判別できなかった。しかしさっきの酷い殴打を思い出し、私は仕方なく息を止めて歩いた。息は止めきれず、徐々に私の鼻孔と肺を蝕んでいく。胸にはモザイク状のものが沈殿し、それが喉元までせりあがったとき、私はいよいよ観念した。
私は永いあいだ吐いた。
私の嘔吐を彼らは見守った。建物から人々がのろのろと出て来て吐しゃ物の周りを取り囲んだ。彼らはげらげら笑い、その幾人かは私の生み出した真新しいシミをべとべとと指でつつき、その指の腹を私の鼻下にべったりとつけた。私は恥じて吐しゃ物から目を逸らすと、またあの肥った老人が私の顔をそこに押し付けた。私の顔は粘っこいもので濡れた。
結局、案内のあいだに私は三度吐いた。二度目は食堂に出されたどろどろのスープの、暗緑色の芋虫のような具を飲み込んだ途端に、三度目は宿に通され、私の泊まるはずの部屋で、四人の老人らの性交を見せられ吐いた。吐いているあいだ、彼らは相変わらず笑った。三度目の嘔吐のとき、吐しゃされすぎて水っぽくなったものを眺めながら、自分のなかの何かの明確な危機を感じた。
私がうつろな目で、口から半透明な糸を垂らし、ふらふらと猫背で歩くさまはきっと囚人のようだったろう。実際、私は囚人に近い心地で痣の老婆に手を引かれた。老婆は細い腕のわりに握力が強く、手錠のようだった。手錠を繋がれ、連行されているあいだ、私は先の車掌のことを思った。あの車掌も、もしかするとここに住んでいたのかもしれない。ここで私と同様、ひどい目にあい、ああいう憎悪を持ったのだろうか。
『だとしたら、ここから出られるのだろうか』
やはり私は囚人的な考えかたをしていた。振り向くと我々は一本道のずいぶん深くまで来ていたらしく、駅はもう見えない。正面には丘がある。丘には草木がなく、丘というより地面の隆起といった様相で、その頂上の小屋がはっきりとわかった。小屋はやはり古びた木造のようで、大きな旗を掲げており、そこに何かしらの言葉が書かれているらしいが読み取れない。
「ここからはあんたひとりじゃ」
痣の老婆はそう言って握った手をほどいた。私は彼らの群れから出て上った。のろのろとした歩調をわざとして、丘の中腹のところで振り返れば彼らはもういない。私の見送りは終わり、またそれぞれの生活に向かったらしかった。
『このままあの一本道を走り抜ければ、駅に行けるかもしれない』
むろん、私はまたあの列車に乗りたかった。そしてそのためには次来る列車の時間を知らないことも勘定に置いた。もしかすれば、駅に行っても列車はなく、こんどこそ肥った老人に馬乗りにされ、一定のペースで無感情に殴られる。しかしそれ以上に私はここを出たかった。いや、というより私はここで『先生』に会えば、もう二度とこの町を出られない気がした。
「具体的な場所は知りませんよ。しかし貴方はここではないところに戻るんです」
たしかに車掌は合っていた。私はここではないところに戻るべきだろう。私はここにいるべきではないし、いたいとも思わない。……
「どうだろうなあ」
声がした。背後からだった。声からして男のようだった。
異臭は車内にいたものより数段きつく、あの酸っぱい臭いがより複雑な鋭利さを伴って全身をかけめぐった。首筋と頬の鳥肌がたち、シャツの裾で鼻を覆った。そうすると肥った老人が私の手をとって、無理やりに臭いを嗅がせてくる。
「そんなことしちゃいかん」
これが彼の真剣な注意か、はたまたジョークなのか判別できなかった。しかしさっきの酷い殴打を思い出し、私は仕方なく息を止めて歩いた。息は止めきれず、徐々に私の鼻孔と肺を蝕んでいく。胸にはモザイク状のものが沈殿し、それが喉元までせりあがったとき、私はいよいよ観念した。
私は永いあいだ吐いた。
私の嘔吐を彼らは見守った。建物から人々がのろのろと出て来て吐しゃ物の周りを取り囲んだ。彼らはげらげら笑い、その幾人かは私の生み出した真新しいシミをべとべとと指でつつき、その指の腹を私の鼻下にべったりとつけた。私は恥じて吐しゃ物から目を逸らすと、またあの肥った老人が私の顔をそこに押し付けた。私の顔は粘っこいもので濡れた。
結局、案内のあいだに私は三度吐いた。二度目は食堂に出されたどろどろのスープの、暗緑色の芋虫のような具を飲み込んだ途端に、三度目は宿に通され、私の泊まるはずの部屋で、四人の老人らの性交を見せられ吐いた。吐いているあいだ、彼らは相変わらず笑った。三度目の嘔吐のとき、吐しゃされすぎて水っぽくなったものを眺めながら、自分のなかの何かの明確な危機を感じた。
私がうつろな目で、口から半透明な糸を垂らし、ふらふらと猫背で歩くさまはきっと囚人のようだったろう。実際、私は囚人に近い心地で痣の老婆に手を引かれた。老婆は細い腕のわりに握力が強く、手錠のようだった。手錠を繋がれ、連行されているあいだ、私は先の車掌のことを思った。あの車掌も、もしかするとここに住んでいたのかもしれない。ここで私と同様、ひどい目にあい、ああいう憎悪を持ったのだろうか。
『だとしたら、ここから出られるのだろうか』
やはり私は囚人的な考えかたをしていた。振り向くと我々は一本道のずいぶん深くまで来ていたらしく、駅はもう見えない。正面には丘がある。丘には草木がなく、丘というより地面の隆起といった様相で、その頂上の小屋がはっきりとわかった。小屋はやはり古びた木造のようで、大きな旗を掲げており、そこに何かしらの言葉が書かれているらしいが読み取れない。
「ここからはあんたひとりじゃ」
痣の老婆はそう言って握った手をほどいた。私は彼らの群れから出て上った。のろのろとした歩調をわざとして、丘の中腹のところで振り返れば彼らはもういない。私の見送りは終わり、またそれぞれの生活に向かったらしかった。
『このままあの一本道を走り抜ければ、駅に行けるかもしれない』
むろん、私はまたあの列車に乗りたかった。そしてそのためには次来る列車の時間を知らないことも勘定に置いた。もしかすれば、駅に行っても列車はなく、こんどこそ肥った老人に馬乗りにされ、一定のペースで無感情に殴られる。しかしそれ以上に私はここを出たかった。いや、というより私はここで『先生』に会えば、もう二度とこの町を出られない気がした。
「具体的な場所は知りませんよ。しかし貴方はここではないところに戻るんです」
たしかに車掌は合っていた。私はここではないところに戻るべきだろう。私はここにいるべきではないし、いたいとも思わない。……
「どうだろうなあ」
声がした。背後からだった。声からして男のようだった。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
ピアノの家のふたりの姉妹
九重智
ライト文芸
【ふたりの親愛はピアノの連弾のように奏でられた。いざもう一人の弾き手を失うと、幸福の音色も、物足りない、隙間だらけのわびしさばかり残ってしまう。】
ピアノの響く家には、ふたりの姉妹がいた。仲睦ましい姉妹は互いに深い親愛を抱えていたが、姉の雪子の変化により、ふたりの関係は徐々に変わっていく。
(縦書き読み推奨です)
もしもしお時間いいですか?
ベアりんぐ
ライト文芸
日常の中に漠然とした不安を抱えていた中学1年の智樹は、誰か知らない人との繋がりを求めて、深夜に知らない番号へと電話をしていた……そんな中、繋がった同い年の少女ハルと毎日通話をしていると、ハルがある提案をした……。
2人の繋がりの中にある感情を、1人の視点から紡いでいく物語の果てに、一体彼らは何をみるのか。彼らの想いはどこへ向かっていくのか。彼の数年間を、見えないレールに乗せて——。
※こちらカクヨム、小説家になろう、Nola、PageMekuでも掲載しています。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/light_novel.png?id=7e51c3283133586a6f12)
スマホゲーム王
ルンルン太郎
ライト文芸
主人公葉山裕二はスマホゲームで1番になる為には販売員の給料では足りず、課金したくてウェブ小説を書き始めた。彼は果たして目的の課金生活をエンジョイできるのだろうか。無謀な夢は叶うのだろうか。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる