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第一話
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ふいに目を覚ますと異臭が鼻をついた。腐った檸檬のような、鼻孔の先を締める臭いだった。ドアは開かれ、どうやらそこからきているらしい。
私が目覚めの悪さにぐったりとしていると、車掌の男が話しかけた。
「あの、終点です」
「終点? ああ、すいません、ついうとうとして。降りますから」
「降りる? いえ降りなくて結構ですよ。あと五分で折り返しますからまた寝ていただいても」
車掌は親切だった。制服に乱れがなく、きめの細かい白い肌をした若者だった。
意識の朦朧が解かれてくるとこんどは蠅の羽音が聴こえた。これも駅から侵入したものだろうか。羽音は室外機のような低いうねりで音量が小さいだけに耳障りだった。およそ蠅は数匹飛び回っており、代わる代わる私の神経をなじってくる。
「ここは何という駅なんですか」
と私は苛立って訊いた。
「××という駅です」
駅の名は聞き取れなかった。私が「え?」と聞き返すと、車掌は
「とにかくあと五分で折り返しますから、それまで寝ていたらいいですよ」
とだけ言った。そして微笑み、「私のでよければ毛布を持って来ますが」と訊いた。私は頼み、また微睡んだ。
いちど認識した不快が私の眠りを妨げた。ふだんどこでも寝られたはずが耳と鼻がそうさせない。私は心から眠りたかったし、そのためにしっかり瞼を閉じているのにじわじわと覚醒させられる。熱射がしつこく、うなじのあたりが熱い。そこで溜められ流された汗が筋をつくっている。そんなことまで気になりはじめた。
睡眠を諦めて窓外を見た。見ると、ぎょっとした。プラットフォームに大勢の人がいて、十数人はくだらない。人々は列を縦に三つにして、その最前列には横断幕が掲げられていた。横断幕にはくすんだ白地に赤い文字で「ようこそ」と書かれている。文字はスプレーの不器用な感じで、「ようこそ」の「よ」の楕円が潰れていた。
私は車内を見渡した。しかし私のほかに乗客は誰もいない。もしかすると別の車両に目的の人がいるかもしれなかったが、しかし再び彼らを見た途端、その大量の眼差しと目が合った。
「あんまり見てはいけませんよ」
いつの間にか車掌が清潔な毛布を持って来て、私にそう言った。
「あの人たちはいったい誰を待っているんです」
「……気にするべきことではないですよ。とにかくあとほんの数分であなたは元の場所に戻れるんですから」
車掌は奇妙な返しをした。再び窓外を見つめると、やはり彼らは私と目を合わせ、その一部は懇願するようにお辞儀をしたり、合掌したりしている。よく観察すれば彼らは年寄りが多く身なりが汚い。いったいどういう生地なのだろうというような服を着ている。あまりに薄く、肌触りの悪そうなそれは、この異臭がどれほど沁みついているのだろう。一番先頭の、横断幕を持った老婆の顔には左半分を覆う広い痣があり、それも火傷の痕のような感じで、なめくじが肌下に寄生しているように白く腫れていた。老婆は私がその痣を見ているのがわかると歯の欠けた口を横にのばし、顔の水ぶくれをぐにぐにとつついてみせた。
「オエッ」
車掌が吐き出すふりをした。身体をくの字に曲げ、鮮やかに上気した頬に窪みができた。
「ほら、あんなのはもういいでしょう」
「でも、どうやら僕を待っているようです」
「それがどうしたんです。あなたはここに用はないでしょう」
彼の断定的な口調は、かえって私の内心に靄をかけ、粘着質なシミを生み出した。そういえば私は何のためにこの電車に乗ったのだろう。いやそもそも私は誰で、どこの人間なのだろう。そもそも私は、何者かだったのだろうか。
「僕はどこに戻るんです」
と私は訊いた。
「知りませんよ」
と車掌は答えた。
「でも、貴方は元の場所に戻るって」
「具体的な場所は知りませんよ。しかし貴方はここではないところに戻るんです」
「どうしてそう言えるんです」
「どうして……? どうしてだって!」
突然、車掌はわなわなと震えだした。それはまるで内からの衝動に抑えきれないようで、さっきまでの手入れされた顔が、みるみるうちに歪んでいく。目は血走り、これほど明瞭な憎悪を私ははじめて出遭った。
「どうして……。そんなのはですね、この世界のベクトルなんですよ。これは人間が有史以来作り上げたベクトルなんだ。ええ、ベクトル、ベクトルですよ! この世界に生まれ落ちた人間の契約と言ってもいい。あんなところに降りてはいけない! あんな、あんな不快な場所!」
車掌の震えた手が肩に掴みかかると、私は思わず手で払った。車掌は心外そうな、あるいは屈辱さえある顔をした。
車掌はいよいよ叫びだした。
「ならいい! そうなのだとしたらさっさと降りたまえ! いるんだ、時々、貴方みたいなのが。だが客ではありませんね。ここに降りるとしたら、ええ、客じゃありませんよ。……よく見ると、ふふっ、いやあ、たしかにピッタリだ……ほら、さっさと降りろ!」
私はこんどこそ肩を掴まれ、そのまま力づくで車両から出された。そのときあまりにも乱雑に投げ出されたものだから私はプラットフォームに倒れた。肘をつき、腹ばいになった姿で見上げると、車掌はまたあの目をした。血走った、生理的な憎悪。……
「出発!」
車掌がそう叫ぶと列車はひとりでに汽笛を鳴らし、またそれ以上の轟々しい音を全身からたてた。列車は去った。
私が目覚めの悪さにぐったりとしていると、車掌の男が話しかけた。
「あの、終点です」
「終点? ああ、すいません、ついうとうとして。降りますから」
「降りる? いえ降りなくて結構ですよ。あと五分で折り返しますからまた寝ていただいても」
車掌は親切だった。制服に乱れがなく、きめの細かい白い肌をした若者だった。
意識の朦朧が解かれてくるとこんどは蠅の羽音が聴こえた。これも駅から侵入したものだろうか。羽音は室外機のような低いうねりで音量が小さいだけに耳障りだった。およそ蠅は数匹飛び回っており、代わる代わる私の神経をなじってくる。
「ここは何という駅なんですか」
と私は苛立って訊いた。
「××という駅です」
駅の名は聞き取れなかった。私が「え?」と聞き返すと、車掌は
「とにかくあと五分で折り返しますから、それまで寝ていたらいいですよ」
とだけ言った。そして微笑み、「私のでよければ毛布を持って来ますが」と訊いた。私は頼み、また微睡んだ。
いちど認識した不快が私の眠りを妨げた。ふだんどこでも寝られたはずが耳と鼻がそうさせない。私は心から眠りたかったし、そのためにしっかり瞼を閉じているのにじわじわと覚醒させられる。熱射がしつこく、うなじのあたりが熱い。そこで溜められ流された汗が筋をつくっている。そんなことまで気になりはじめた。
睡眠を諦めて窓外を見た。見ると、ぎょっとした。プラットフォームに大勢の人がいて、十数人はくだらない。人々は列を縦に三つにして、その最前列には横断幕が掲げられていた。横断幕にはくすんだ白地に赤い文字で「ようこそ」と書かれている。文字はスプレーの不器用な感じで、「ようこそ」の「よ」の楕円が潰れていた。
私は車内を見渡した。しかし私のほかに乗客は誰もいない。もしかすると別の車両に目的の人がいるかもしれなかったが、しかし再び彼らを見た途端、その大量の眼差しと目が合った。
「あんまり見てはいけませんよ」
いつの間にか車掌が清潔な毛布を持って来て、私にそう言った。
「あの人たちはいったい誰を待っているんです」
「……気にするべきことではないですよ。とにかくあとほんの数分であなたは元の場所に戻れるんですから」
車掌は奇妙な返しをした。再び窓外を見つめると、やはり彼らは私と目を合わせ、その一部は懇願するようにお辞儀をしたり、合掌したりしている。よく観察すれば彼らは年寄りが多く身なりが汚い。いったいどういう生地なのだろうというような服を着ている。あまりに薄く、肌触りの悪そうなそれは、この異臭がどれほど沁みついているのだろう。一番先頭の、横断幕を持った老婆の顔には左半分を覆う広い痣があり、それも火傷の痕のような感じで、なめくじが肌下に寄生しているように白く腫れていた。老婆は私がその痣を見ているのがわかると歯の欠けた口を横にのばし、顔の水ぶくれをぐにぐにとつついてみせた。
「オエッ」
車掌が吐き出すふりをした。身体をくの字に曲げ、鮮やかに上気した頬に窪みができた。
「ほら、あんなのはもういいでしょう」
「でも、どうやら僕を待っているようです」
「それがどうしたんです。あなたはここに用はないでしょう」
彼の断定的な口調は、かえって私の内心に靄をかけ、粘着質なシミを生み出した。そういえば私は何のためにこの電車に乗ったのだろう。いやそもそも私は誰で、どこの人間なのだろう。そもそも私は、何者かだったのだろうか。
「僕はどこに戻るんです」
と私は訊いた。
「知りませんよ」
と車掌は答えた。
「でも、貴方は元の場所に戻るって」
「具体的な場所は知りませんよ。しかし貴方はここではないところに戻るんです」
「どうしてそう言えるんです」
「どうして……? どうしてだって!」
突然、車掌はわなわなと震えだした。それはまるで内からの衝動に抑えきれないようで、さっきまでの手入れされた顔が、みるみるうちに歪んでいく。目は血走り、これほど明瞭な憎悪を私ははじめて出遭った。
「どうして……。そんなのはですね、この世界のベクトルなんですよ。これは人間が有史以来作り上げたベクトルなんだ。ええ、ベクトル、ベクトルですよ! この世界に生まれ落ちた人間の契約と言ってもいい。あんなところに降りてはいけない! あんな、あんな不快な場所!」
車掌の震えた手が肩に掴みかかると、私は思わず手で払った。車掌は心外そうな、あるいは屈辱さえある顔をした。
車掌はいよいよ叫びだした。
「ならいい! そうなのだとしたらさっさと降りたまえ! いるんだ、時々、貴方みたいなのが。だが客ではありませんね。ここに降りるとしたら、ええ、客じゃありませんよ。……よく見ると、ふふっ、いやあ、たしかにピッタリだ……ほら、さっさと降りろ!」
私はこんどこそ肩を掴まれ、そのまま力づくで車両から出された。そのときあまりにも乱雑に投げ出されたものだから私はプラットフォームに倒れた。肘をつき、腹ばいになった姿で見上げると、車掌はまたあの目をした。血走った、生理的な憎悪。……
「出発!」
車掌がそう叫ぶと列車はひとりでに汽笛を鳴らし、またそれ以上の轟々しい音を全身からたてた。列車は去った。
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