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第三章
第三十二話
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夏樹は、できることならゼミの件を直接訊きたくなかった。夏樹の飯島像は、島の件があったとはいえ、蜃気楼のように刻々と変化し、いまだ輪郭が定まらない。夏樹は飯島が、以前のような歴史的哲学者のような気がし、一方で自分と同類の、ただのしがない学生のような気もしていた。それだから、もし訊いてみて、その答えが夏樹の想像だにしていなかった大層な、研究的名誉あるもののとき、それを素直に受け取る自信がなかったのである。
また雪子に訊くのも気が引けた。たとえば夏樹の質問が、間接的に飯島の弱味につながり、それを雪子も承知だとしたら、夏樹は雪子になんて言われるか知れたものではなかった。いや、仮に雪子が知らなかったとしても、気になった雪子が飯島に訊いて、それでふたりの仲がこじれるのも避けたかった。
とりあえず夏樹は、いちおう秘密ということで秋子に相談してみることにした。
「ゼミも辞退して、サークルも来ないなんておかしいわ」
存外、秋子の反応は過剰だった。
「いや、別におかしいことではないと思うけど……」
「おかしいわよ。だって島で彼に会うときいつも本を読んでいたのに、いざ誘われたらふいにするなんて、そんなの変よ」
「そう決めつけるもんじゃないよ。むしろストイックだから、いまのうち基礎に励みたいってこともあるさ」
「だとしたらそれも悪いわ。だってゼミ合宿では立派に発表してたのでしょう? 謙虚も行き過ぎると短所よ。いえ、ひょっとすると迷惑でもあるわ」
「そんな風に言うことはないじゃないか」
夏樹はいつのまにか飯島を弁護する役割に回っていた。それほど秋子の口調や仕草は過激で、弁護の一人でもいなければ公平に欠ける気がした。ふだん、秋子は「短所」とか「迷惑」という言葉を使わず、むしろそういう言葉を諫めることが多かった。にもかかわらず秋子は、まるで戦時中の指導者のような振る舞いで、明日にでも飯島を弾劾しようという気概が透けて見えた。
夏樹は恋人のそんな言動を見たくなかった。
「ねえ、どうしたんだい。そんなに怒って。よく考えなよ、何でもない可能性だってあるはずなのに。秋ちゃんはいつ飯島のことがそんなに嫌いになったんだ?」
夏樹の指摘は半ば当たっていた。秋子は飯島のことが嫌いなわけではなく、むしろ好感さえもっていた。しかし一方で、飯島を嫌いになろうとするはたらきが彼女を突き動かし、いわば戦争の正当化のようなものだった。
美玖と話してから、といっても三日ほどではあるが、秋子は幾度も雪子と遠い世界を考えた。しかし結局、秋子にはその世界に耐えられる自信がない。雪子のいない世界は、役者のいない舞台であり、ただセットだけがのろのろと変わって、説明じみたナレーションだけが世界を解説する、そんな無感情な世界である。延々とつづく退屈な紙芝居。
秋子は夏樹を愛している。美玖を愛している。ピアノを愛している。しかしその愛の起源というと、雪子のような気がしてならなかった。
「でも、別に雪子さんと永遠に会えないわけじゃないだろう」と夏樹がいった。
「そうよ。そのはずなの」
「はずって?」
「直観よ。でも、このままいくと、雪ちゃんは会えなくなるかもしれない」
「勘だろう」
「ええ。でも雪ちゃんについての勘は当たるの、わたし」
夏樹は老人ホームの日の、秋子の予言を思い出した。しかしそのことをいえば、ますます秋子の執着は激しいものになる気がして、憚られた。
また雪子に訊くのも気が引けた。たとえば夏樹の質問が、間接的に飯島の弱味につながり、それを雪子も承知だとしたら、夏樹は雪子になんて言われるか知れたものではなかった。いや、仮に雪子が知らなかったとしても、気になった雪子が飯島に訊いて、それでふたりの仲がこじれるのも避けたかった。
とりあえず夏樹は、いちおう秘密ということで秋子に相談してみることにした。
「ゼミも辞退して、サークルも来ないなんておかしいわ」
存外、秋子の反応は過剰だった。
「いや、別におかしいことではないと思うけど……」
「おかしいわよ。だって島で彼に会うときいつも本を読んでいたのに、いざ誘われたらふいにするなんて、そんなの変よ」
「そう決めつけるもんじゃないよ。むしろストイックだから、いまのうち基礎に励みたいってこともあるさ」
「だとしたらそれも悪いわ。だってゼミ合宿では立派に発表してたのでしょう? 謙虚も行き過ぎると短所よ。いえ、ひょっとすると迷惑でもあるわ」
「そんな風に言うことはないじゃないか」
夏樹はいつのまにか飯島を弁護する役割に回っていた。それほど秋子の口調や仕草は過激で、弁護の一人でもいなければ公平に欠ける気がした。ふだん、秋子は「短所」とか「迷惑」という言葉を使わず、むしろそういう言葉を諫めることが多かった。にもかかわらず秋子は、まるで戦時中の指導者のような振る舞いで、明日にでも飯島を弾劾しようという気概が透けて見えた。
夏樹は恋人のそんな言動を見たくなかった。
「ねえ、どうしたんだい。そんなに怒って。よく考えなよ、何でもない可能性だってあるはずなのに。秋ちゃんはいつ飯島のことがそんなに嫌いになったんだ?」
夏樹の指摘は半ば当たっていた。秋子は飯島のことが嫌いなわけではなく、むしろ好感さえもっていた。しかし一方で、飯島を嫌いになろうとするはたらきが彼女を突き動かし、いわば戦争の正当化のようなものだった。
美玖と話してから、といっても三日ほどではあるが、秋子は幾度も雪子と遠い世界を考えた。しかし結局、秋子にはその世界に耐えられる自信がない。雪子のいない世界は、役者のいない舞台であり、ただセットだけがのろのろと変わって、説明じみたナレーションだけが世界を解説する、そんな無感情な世界である。延々とつづく退屈な紙芝居。
秋子は夏樹を愛している。美玖を愛している。ピアノを愛している。しかしその愛の起源というと、雪子のような気がしてならなかった。
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「そうよ。そのはずなの」
「はずって?」
「直観よ。でも、このままいくと、雪ちゃんは会えなくなるかもしれない」
「勘だろう」
「ええ。でも雪ちゃんについての勘は当たるの、わたし」
夏樹は老人ホームの日の、秋子の予言を思い出した。しかしそのことをいえば、ますます秋子の執着は激しいものになる気がして、憚られた。
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