ピアノの家のふたりの姉妹

九重智

文字の大きさ
上 下
32 / 62
第三章

第三十二話

しおりを挟む
 夏樹は、できることならゼミの件を直接訊きたくなかった。夏樹の飯島像は、島の件があったとはいえ、蜃気楼のように刻々と変化し、いまだ輪郭が定まらない。夏樹は飯島が、以前のような歴史的哲学者のような気がし、一方で自分と同類の、ただのしがない学生のような気もしていた。それだから、もし訊いてみて、その答えが夏樹の想像だにしていなかった大層な、研究的名誉あるもののとき、それを素直に受け取る自信がなかったのである。

 また雪子に訊くのも気が引けた。たとえば夏樹の質問が、間接的に飯島の弱味につながり、それを雪子も承知だとしたら、夏樹は雪子になんて言われるか知れたものではなかった。いや、仮に雪子が知らなかったとしても、気になった雪子が飯島に訊いて、それでふたりの仲がこじれるのも避けたかった。

 とりあえず夏樹は、いちおう秘密ということで秋子に相談してみることにした。

「ゼミも辞退して、サークルも来ないなんておかしいわ」

 存外、秋子の反応は過剰だった。

「いや、別におかしいことではないと思うけど……」

「おかしいわよ。だって島で彼に会うときいつも本を読んでいたのに、いざ誘われたらふいにするなんて、そんなの変よ」

「そう決めつけるもんじゃないよ。むしろストイックだから、いまのうち基礎に励みたいってこともあるさ」

「だとしたらそれも悪いわ。だってゼミ合宿では立派に発表してたのでしょう? 謙虚も行き過ぎると短所よ。いえ、ひょっとすると迷惑でもあるわ」

「そんな風に言うことはないじゃないか」

 夏樹はいつのまにか飯島を弁護する役割に回っていた。それほど秋子の口調や仕草は過激で、弁護の一人でもいなければ公平に欠ける気がした。ふだん、秋子は「短所」とか「迷惑」という言葉を使わず、むしろそういう言葉を諫めることが多かった。にもかかわらず秋子は、まるで戦時中の指導者のような振る舞いで、明日にでも飯島を弾劾しようという気概が透けて見えた。

 夏樹は恋人のそんな言動を見たくなかった。

「ねえ、どうしたんだい。そんなに怒って。よく考えなよ、何でもない可能性だってあるはずなのに。秋ちゃんはいつ飯島のことがそんなに嫌いになったんだ?」

 夏樹の指摘は半ば当たっていた。秋子は飯島のことが嫌いなわけではなく、むしろ好感さえもっていた。しかし一方で、飯島を嫌いになろうとするはたらきが彼女を突き動かし、いわば戦争の正当化のようなものだった。

 美玖と話してから、といっても三日ほどではあるが、秋子は幾度も雪子と遠い世界を考えた。しかし結局、秋子にはその世界に耐えられる自信がない。雪子のいない世界は、役者のいない舞台であり、ただセットだけがのろのろと変わって、説明じみたナレーションだけが世界を解説する、そんな無感情な世界である。延々とつづく退屈な紙芝居。

 秋子は夏樹を愛している。美玖を愛している。ピアノを愛している。しかしその愛の起源というと、雪子のような気がしてならなかった。

「でも、別に雪子さんと永遠に会えないわけじゃないだろう」と夏樹がいった。

「そうよ。そのはずなの」

「はずって?」

「直観よ。でも、このままいくと、雪ちゃんは会えなくなるかもしれない」

「勘だろう」

「ええ。でも雪ちゃんについての勘は当たるの、わたし」

 夏樹は老人ホームの日の、秋子の予言を思い出した。しかしそのことをいえば、ますます秋子の執着は激しいものになる気がして、憚られた。
しおりを挟む
ご愛読ありがとうございます!Twitterやってます。できれば友達に……。→https://twitter.com/kukuku3104
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

処理中です...