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第二章
第二十七話
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それからふたりは今夜の夕飯を食べる約束をした。秋子は断ろうとしたが、ハンカチ探しの礼といわれたので、それもできない。
昼過ぎに夏樹はホテルにやってきて、飯島の話を聞いた。飯島という名で、すぐに夏樹はゼミ合宿に参加した例のフーコー研究の青年を思い出した。あの青年もたしか飯島だった。そしていま思えば、国際系のサークルにいた、あの部屋の隅で体育座りしている青年も。夏樹のなかには確信めいたものはなかったが、しかしこの予想が当たっていたとしたら。しかも吉本隆明も読んでいる! 夏樹は自分がとにかく矮小な、残念な生き物になっているようだった。
海水浴場で秋子の白い水着に見惚れているときも、はしゃいで水を浴びせあっているときも夏樹の周囲にはノイズのようなものが付きまとって、水を弾いているようだった。もしくは理性と感情のあいだに薄い膜が張られている気もした。とにかく夏樹は、この不快を感じるだけ感じて、しかし何か思案を生むわけでもなく、ただ演技的に楽しんだ。秋子がそれに気づいているかはわからなかった。実のところ、秋子が察して訊いてくれれば、恋人の気も幾分か休まったかもしれない。
夕飯は市街地の中華料理屋でとった。もちろん雪子も同伴した。三人が中華料理屋に着くころには飯島はすでに席に座って、メニューでもなく、本をまた読んでいた。夏樹はその日一番の不快を感じた。自分がさっきまで海水浴をして、彼女とその姉とでここに訪れるのがなんだか無性に腹立たしくなった。いや、むしろ不快は、その腹立たしさからとつぜん夕飯を断ってしまわない夏樹自身に向けられていた。
席につくと秋子は夏樹を紹介した。夏樹の紹介のとき、飯島は記憶を探るような視線の動かし方をした。そしてはっとしてこんどは夏樹をじっと見つめた。
「あっ! 黒田ゼミにいた方ですね!」
「ああ、いや、どうも」
夏樹は飯島の急な転調に面食らって、こんな気の引けたことしかいえなかった。
「発表覚えています。長崎の隠れキリシタンの信仰体系についてでしたよね。あれはおもしろかったです。独自的だろうとは思っていましたが、キリスト、神教、仏教その要素がそれぞれ含んでいる信仰とは。あれは何度も長崎にいっているんですか」
「ああ、いえ、僕はまだ先行研究をまとめている段階で、フィールドワークはゼミに入ってからです」
「えっ、ゼミ生ではないんですか」
「僕は飯島さんとおなじ合宿だけ参加した身なんです」
「はあ、そうなんですか。あんまりしっかりしてたものだから、いま知りましたよ」
「飯島さんはフーコー研究でしたね」
「ええそうです。そうなんですが、フーコー研究なんてものはもう語られつくしている気もしましてね。だからフーコーは結局趣味に終わるかもしれません」
「もったいなくないですか」
「いや、まあ、まだ時間自体はあるのでゆっくり探しますよ」
「ねえ、そろそろわたしたちにもわかる話をしてちょうだい。徳之島にまできて隠れキリシタンやらフーコーやら話すほうがもったいないわ」
四人はそれで笑った。夏樹はうってかわって上機嫌である。飯島が夏樹をゼミ生と勘違いしていたことが、彼のほどよい慰めになった。軽薄だとも思うこともあったが、自身の溢れ出る満悦のまえには燃え盛る蝋燭のように細まった。
夕飯は若者らしい華やかさがあった。内容は変哲のないものだが、若者というのは愚痴でさえも花火のように扱う。彼らはいちいち感嘆したり同意したり、批判するのに忙しかった。飯島が映画が好きだというのでその話もした。そのときある十年前の洋画が話題になった。飯島がその映画について批評すると秋子が反発し、そしてやや口論があった。しかしそれでも最後は笑った。
中華料理屋をでると四人はしばらく街でぶらついた。
そのころにはもう夏樹のなかでは飯島という青年の影がすっかり人間大に落ち着いて、お世辞を言えるくらいにはなっていた。
「合宿の前は大変だったんじゃない?」と夏樹は訊いた。
「大変どころじゃないですよ。もうしばらくは本を読みたくないくらいに勉強しました。しかもその勉強もずっと一心不乱にやれたらいいんですけど、そうもいかなくて、本をひらくうちにくだらないことばかり考えるものですね。ここを突かれたらどうしよう、あそこまで書きたいんだけどいけるかとか」
「ああ、わかるなあ。次第にそれが関心の主になって邪魔してくるんだよね」
「そうなんです。テストもあったし」
四人はかなり歩いてホテルまでもどった。ホテルでの別れ際、東京での約束をした。姉妹のピアノを聴いてほしいと夏樹が言い出した。
「絶対いらしてね」と雪子は念を押した。
「もちろん。でも僕にはそういう芸術のようなものはあんまりわかりませんよ」
「じゃあ別にピアノを聴かなくてもいいわ。でもまた四人で遊びましょうね」
「それなら」
昼過ぎに夏樹はホテルにやってきて、飯島の話を聞いた。飯島という名で、すぐに夏樹はゼミ合宿に参加した例のフーコー研究の青年を思い出した。あの青年もたしか飯島だった。そしていま思えば、国際系のサークルにいた、あの部屋の隅で体育座りしている青年も。夏樹のなかには確信めいたものはなかったが、しかしこの予想が当たっていたとしたら。しかも吉本隆明も読んでいる! 夏樹は自分がとにかく矮小な、残念な生き物になっているようだった。
海水浴場で秋子の白い水着に見惚れているときも、はしゃいで水を浴びせあっているときも夏樹の周囲にはノイズのようなものが付きまとって、水を弾いているようだった。もしくは理性と感情のあいだに薄い膜が張られている気もした。とにかく夏樹は、この不快を感じるだけ感じて、しかし何か思案を生むわけでもなく、ただ演技的に楽しんだ。秋子がそれに気づいているかはわからなかった。実のところ、秋子が察して訊いてくれれば、恋人の気も幾分か休まったかもしれない。
夕飯は市街地の中華料理屋でとった。もちろん雪子も同伴した。三人が中華料理屋に着くころには飯島はすでに席に座って、メニューでもなく、本をまた読んでいた。夏樹はその日一番の不快を感じた。自分がさっきまで海水浴をして、彼女とその姉とでここに訪れるのがなんだか無性に腹立たしくなった。いや、むしろ不快は、その腹立たしさからとつぜん夕飯を断ってしまわない夏樹自身に向けられていた。
席につくと秋子は夏樹を紹介した。夏樹の紹介のとき、飯島は記憶を探るような視線の動かし方をした。そしてはっとしてこんどは夏樹をじっと見つめた。
「あっ! 黒田ゼミにいた方ですね!」
「ああ、いや、どうも」
夏樹は飯島の急な転調に面食らって、こんな気の引けたことしかいえなかった。
「発表覚えています。長崎の隠れキリシタンの信仰体系についてでしたよね。あれはおもしろかったです。独自的だろうとは思っていましたが、キリスト、神教、仏教その要素がそれぞれ含んでいる信仰とは。あれは何度も長崎にいっているんですか」
「ああ、いえ、僕はまだ先行研究をまとめている段階で、フィールドワークはゼミに入ってからです」
「えっ、ゼミ生ではないんですか」
「僕は飯島さんとおなじ合宿だけ参加した身なんです」
「はあ、そうなんですか。あんまりしっかりしてたものだから、いま知りましたよ」
「飯島さんはフーコー研究でしたね」
「ええそうです。そうなんですが、フーコー研究なんてものはもう語られつくしている気もしましてね。だからフーコーは結局趣味に終わるかもしれません」
「もったいなくないですか」
「いや、まあ、まだ時間自体はあるのでゆっくり探しますよ」
「ねえ、そろそろわたしたちにもわかる話をしてちょうだい。徳之島にまできて隠れキリシタンやらフーコーやら話すほうがもったいないわ」
四人はそれで笑った。夏樹はうってかわって上機嫌である。飯島が夏樹をゼミ生と勘違いしていたことが、彼のほどよい慰めになった。軽薄だとも思うこともあったが、自身の溢れ出る満悦のまえには燃え盛る蝋燭のように細まった。
夕飯は若者らしい華やかさがあった。内容は変哲のないものだが、若者というのは愚痴でさえも花火のように扱う。彼らはいちいち感嘆したり同意したり、批判するのに忙しかった。飯島が映画が好きだというのでその話もした。そのときある十年前の洋画が話題になった。飯島がその映画について批評すると秋子が反発し、そしてやや口論があった。しかしそれでも最後は笑った。
中華料理屋をでると四人はしばらく街でぶらついた。
そのころにはもう夏樹のなかでは飯島という青年の影がすっかり人間大に落ち着いて、お世辞を言えるくらいにはなっていた。
「合宿の前は大変だったんじゃない?」と夏樹は訊いた。
「大変どころじゃないですよ。もうしばらくは本を読みたくないくらいに勉強しました。しかもその勉強もずっと一心不乱にやれたらいいんですけど、そうもいかなくて、本をひらくうちにくだらないことばかり考えるものですね。ここを突かれたらどうしよう、あそこまで書きたいんだけどいけるかとか」
「ああ、わかるなあ。次第にそれが関心の主になって邪魔してくるんだよね」
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「絶対いらしてね」と雪子は念を押した。
「もちろん。でも僕にはそういう芸術のようなものはあんまりわかりませんよ」
「じゃあ別にピアノを聴かなくてもいいわ。でもまた四人で遊びましょうね」
「それなら」
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