26 / 62
第二章
第二十六話
しおりを挟む
三日目は朝からどしゃ降りで、秋子はおとなしく部屋で新調した水着を見つめていた。夏樹と海水浴の予定が、雨でご破算になった。秋子以外の家族は車で民族館に出かけたが、秋子はそれに付き合わなかった。
秋子の気持ちといえば不機嫌といわないまでも、時田のころの不安が核となり、方々に広がって、さながら蜘蛛の巣のようである。これを機に秋子はいったん心のなかで整理をつけたかった。
秋子はベッドで寝たり、夏樹に電話をかけたりした。しかし夏樹は出なかった。秋子は仕方なしにホテルの散策にでた。けれども面白味のあるものはほとんどなかった。強いて言えば別館のシックなロビーはすこしだけ気に入った。ロビーは一部吹き抜けになっていて、そこにガラス窓に囲まれるかたちでガジュマルが生えていた。秋子は長いあいだその樹が雨に打たれるのを眺めた。
激しい雨がかえって静寂を強調していた。暇を持て余したのか、フロントの若い女が秋子に飲み物を勧めてきた。秋子はミルクティーを頼んだ。
「こんな雨だと観光も大変ですね」と若い女が言った。
「ええ、ほんとうは海に行く予定だったんです」
「よかったらかわりの観光地などをリストアップしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。今日はとりあえず考え事でもして過ごそうと思います。旅行でそういう日も悪くないかなって」
若い女は「そうですね」といってお辞儀をし、秋子の飲み切った紙コップを持って去った。その姿に目で追うと、秋子の別に男がひとりいるのに気づいた。男はさっきフロントからもらったであろう紙コップをゆっくり飲みながら本を読んでいた。雪ちゃんが言った男かもしれない、秋子は胸に強張ったものを感じた。
『たしかに、雪ちゃんのいったように幽霊みたいな肌。白いというよりちょっと不気味だわ。……別にそれがどうということはないけど。結局、性格がどういうものか、あの男みたいな、雪ちゃんを蔑むような人間かどうか』
秋子は男に近寄った。ぎこちない、糸で縛られた歩き方をした。秋子の目は男を見据えて、もうすでに怒りをにじませているようだった。
「本が好きなんですね」と秋子がいった。
男は頭をあげて秋子をちらりと見た。革の黒いソファーにかがみながら読んでいた彼は、秋子を見るのでさえ、かたつむりが角をだすような内向的な姿で、つい先ほどまで夢を見ていたような虚像に囚われた目をしていた。
「なんの本を読んでいるんですか」
秋子はもういちど、こんどは微笑みをともなって訊いてみた。そうしてようやく男は答えた。
「ええと、吉本隆明という人の本です」
「難しそうね」
「でもおもしろい本です」
「読書家ね」
「こうすると落ち着くだけです。まともに読んでないときもしょっちゅうあります」
秋子は軽やかに笑ったつもりだったが、その末端には戸惑いの曲折があった。男の声は、洞穴にどこからその音は空っぽでかすれて、不穏だった。これが、雪子の好きになった男だろうか。もし雪子の言っていた男でなかったら、秋子は話しかけたわけを失って、なんだか気恥ずかしい思いになった。
「まだつづきそうですね」
男はガジュマルを見上げながらいった。
「そうですかね」なんて秋子は答えた。
「ええ、きっとこの雨は長くなります。根拠という根拠はないんですが、なんとなくこういう直観はあるほうなんです」
「なら、わたしの直観とは逆のようだわ。わたしはこのあと晴れると思っているんです」
秋子は警戒の妙なはたらきで、思ったことの逆をいった。
「そちらも直観なんですか」
「もちろん直観です。でも、わたしの直観も冴えているほうなんですよ」
「なら賭けでもしますか」
「ここでお金のやりとりなんて」
「別にお金じゃなくてもいいんです。そうだ、貴女が勝ったらこの本をあげましょう。なかなかいい値がしますよ。読んでもおもしろい」
「いいんですか、そんな本、高そうなのに」
「いいんです。実はこれ、古本屋でかなり安いからって買ったんですが、実家にもうあったやつなんです。そして、ほら、安い分もあってページも欠けているんです」
男は破れたページを見せた。たしかに、一○二から一○三までが抜けていた。
「わたしが負けたら?」
「そうだな……、特に欲しいものはないかもしれない」
「それなら賭けは不成立ね」
「ええ、でもきっと雨はつづきますよ」
「じゃあ心のなかで賭けましょう」
秋子はまたもとの席に座ってガジュマルを眺めた。眺めれば眺めるほど樹の捻じれた幹は滴って、秋子は賭けに負けたことを悟った。しかし三十分もするとさっきまでの豪雨は嘘のように姿を消した。雲は神話のように分かれて空から逃げ、かわりに太陽がガジュマルの樹を乾かした。樹の潤った新緑の葉は独特の光沢をもった。光沢は太陽まで吸い寄せられ、その軌跡をなぞる。秋子はこれほど眩しい陽射しをはじめてみた気がした。
「僕の負けみたいですね」男は秋子のもとに寄ってそういった。
「天気予報では雨だったわ」
「なら、より惨敗にちかい。……本はいりますか?」
「いいえ。わたりは本をほとんど読まないし、まともに売る場所も知らないの。だから貴方がもっていたほうがいいわ」
男はしばし黙って、本をめくり、破れたページでとまった。
「そういえば、昨日の朝この近くの海にいませんでしたか」
「えっ、じゃあやっぱり?」
秋子は飯島をおどろきと緊張のまなざしで見た。
「そうなんです。遠目だったからあまり確信はなかったけど、やっぱり貴女方だったんですね。お姉さんのほうとはすこし話させてもらいました」
「らしいですね。わたしもひょっとしたらと思っていたんですが、姉の話だけだったもので。大学もA大ときいて……」
「おなじらしいですね。またむこうでもすれ違うかもしれません」
「……ねえ、姉はどう思いました?」
「どう思うというと?」
「いいえ、嘘。なんでもないです」
秋子の気持ちといえば不機嫌といわないまでも、時田のころの不安が核となり、方々に広がって、さながら蜘蛛の巣のようである。これを機に秋子はいったん心のなかで整理をつけたかった。
秋子はベッドで寝たり、夏樹に電話をかけたりした。しかし夏樹は出なかった。秋子は仕方なしにホテルの散策にでた。けれども面白味のあるものはほとんどなかった。強いて言えば別館のシックなロビーはすこしだけ気に入った。ロビーは一部吹き抜けになっていて、そこにガラス窓に囲まれるかたちでガジュマルが生えていた。秋子は長いあいだその樹が雨に打たれるのを眺めた。
激しい雨がかえって静寂を強調していた。暇を持て余したのか、フロントの若い女が秋子に飲み物を勧めてきた。秋子はミルクティーを頼んだ。
「こんな雨だと観光も大変ですね」と若い女が言った。
「ええ、ほんとうは海に行く予定だったんです」
「よかったらかわりの観光地などをリストアップしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。今日はとりあえず考え事でもして過ごそうと思います。旅行でそういう日も悪くないかなって」
若い女は「そうですね」といってお辞儀をし、秋子の飲み切った紙コップを持って去った。その姿に目で追うと、秋子の別に男がひとりいるのに気づいた。男はさっきフロントからもらったであろう紙コップをゆっくり飲みながら本を読んでいた。雪ちゃんが言った男かもしれない、秋子は胸に強張ったものを感じた。
『たしかに、雪ちゃんのいったように幽霊みたいな肌。白いというよりちょっと不気味だわ。……別にそれがどうということはないけど。結局、性格がどういうものか、あの男みたいな、雪ちゃんを蔑むような人間かどうか』
秋子は男に近寄った。ぎこちない、糸で縛られた歩き方をした。秋子の目は男を見据えて、もうすでに怒りをにじませているようだった。
「本が好きなんですね」と秋子がいった。
男は頭をあげて秋子をちらりと見た。革の黒いソファーにかがみながら読んでいた彼は、秋子を見るのでさえ、かたつむりが角をだすような内向的な姿で、つい先ほどまで夢を見ていたような虚像に囚われた目をしていた。
「なんの本を読んでいるんですか」
秋子はもういちど、こんどは微笑みをともなって訊いてみた。そうしてようやく男は答えた。
「ええと、吉本隆明という人の本です」
「難しそうね」
「でもおもしろい本です」
「読書家ね」
「こうすると落ち着くだけです。まともに読んでないときもしょっちゅうあります」
秋子は軽やかに笑ったつもりだったが、その末端には戸惑いの曲折があった。男の声は、洞穴にどこからその音は空っぽでかすれて、不穏だった。これが、雪子の好きになった男だろうか。もし雪子の言っていた男でなかったら、秋子は話しかけたわけを失って、なんだか気恥ずかしい思いになった。
「まだつづきそうですね」
男はガジュマルを見上げながらいった。
「そうですかね」なんて秋子は答えた。
「ええ、きっとこの雨は長くなります。根拠という根拠はないんですが、なんとなくこういう直観はあるほうなんです」
「なら、わたしの直観とは逆のようだわ。わたしはこのあと晴れると思っているんです」
秋子は警戒の妙なはたらきで、思ったことの逆をいった。
「そちらも直観なんですか」
「もちろん直観です。でも、わたしの直観も冴えているほうなんですよ」
「なら賭けでもしますか」
「ここでお金のやりとりなんて」
「別にお金じゃなくてもいいんです。そうだ、貴女が勝ったらこの本をあげましょう。なかなかいい値がしますよ。読んでもおもしろい」
「いいんですか、そんな本、高そうなのに」
「いいんです。実はこれ、古本屋でかなり安いからって買ったんですが、実家にもうあったやつなんです。そして、ほら、安い分もあってページも欠けているんです」
男は破れたページを見せた。たしかに、一○二から一○三までが抜けていた。
「わたしが負けたら?」
「そうだな……、特に欲しいものはないかもしれない」
「それなら賭けは不成立ね」
「ええ、でもきっと雨はつづきますよ」
「じゃあ心のなかで賭けましょう」
秋子はまたもとの席に座ってガジュマルを眺めた。眺めれば眺めるほど樹の捻じれた幹は滴って、秋子は賭けに負けたことを悟った。しかし三十分もするとさっきまでの豪雨は嘘のように姿を消した。雲は神話のように分かれて空から逃げ、かわりに太陽がガジュマルの樹を乾かした。樹の潤った新緑の葉は独特の光沢をもった。光沢は太陽まで吸い寄せられ、その軌跡をなぞる。秋子はこれほど眩しい陽射しをはじめてみた気がした。
「僕の負けみたいですね」男は秋子のもとに寄ってそういった。
「天気予報では雨だったわ」
「なら、より惨敗にちかい。……本はいりますか?」
「いいえ。わたりは本をほとんど読まないし、まともに売る場所も知らないの。だから貴方がもっていたほうがいいわ」
男はしばし黙って、本をめくり、破れたページでとまった。
「そういえば、昨日の朝この近くの海にいませんでしたか」
「えっ、じゃあやっぱり?」
秋子は飯島をおどろきと緊張のまなざしで見た。
「そうなんです。遠目だったからあまり確信はなかったけど、やっぱり貴女方だったんですね。お姉さんのほうとはすこし話させてもらいました」
「らしいですね。わたしもひょっとしたらと思っていたんですが、姉の話だけだったもので。大学もA大ときいて……」
「おなじらしいですね。またむこうでもすれ違うかもしれません」
「……ねえ、姉はどう思いました?」
「どう思うというと?」
「いいえ、嘘。なんでもないです」
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
黒蜜先生のヤバい秘密
月狂 紫乃/月狂 四郎
ライト文芸
高校生の須藤語(すとう かたる)がいるクラスで、新任の教師が担当に就いた。新しい担任の名前は黒蜜凛(くろみつ りん)。アイドル並みの美貌を持つ彼女は、あっという間にクラスの人気者となる。
須藤はそんな黒蜜先生に小説を書いていることがバレてしまう。リアルの世界でファン第1号となった黒蜜先生。須藤は先生でありファンでもある彼女と、小説を介して良い関係を築きつつあった。
だが、その裏側で黒蜜先生の人気をよく思わない女子たちが、陰湿な嫌がらせをやりはじめる。解決策を模索する過程で、須藤は黒蜜先生のヤバい過去を知ることになる……。
桜の葉が舞い散る季節、あなたの傍にいられたら
誠奈
ライト文芸
バイトの帰り道、たまたま立ち寄ったコンビニで雅也が出会ったホームレス。
見て見ぬふりをする雅也だったが、あることをきっかけに、アパートに連れ帰ることに…
ところがホームレスだと思ったその人は、実は高校時代の先輩で、若年性アルツハイマーに侵されていた。
戸惑い、葛藤する中、友人の助けを借りながら介護を続ける雅也だが、悪化の一途を辿る症状に、やがて負担ばかりが重くのしかかり、そして…
※設定上、介護問題及び、差別や偏見と言った、非常にセンシティブな内容が含まれております。
※この作品は、他サイト別名義にて公開中の物を、加筆及び修正を行った上で公開しております。
粗暴で優しい幼馴染彼氏はおっとり系彼女を好きすぎる
春音優月
恋愛
おっとりふわふわ大学生の一色のどかは、中学生の時から付き合っている幼馴染彼氏の黒瀬逸希と同棲中。態度や口は荒っぽい逸希だけど、のどかへの愛は大きすぎるほど。
幸せいっぱいなはずなのに、逸希から一度も「好き」と言われてないことに気がついてしまって……?
幼馴染大学生の糖度高めなショートストーリー。
2024.03.06
イラスト:雪緒さま
君のことなんてもう知らない
ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。
告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。
だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。
今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが…
「お前なんて知らないから」
僕は君を思うと吐き気がする
月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。
熱血豪傑ビッグバンダー!
ハリエンジュ
SF
時は地球人の宇宙進出が当たり前になった、今より遥か遠い未来。
舞台は第二の地球として人類が住みやすいように改良を加え、文明が発展した惑星『セカンドアース』。
しかし、二十数年前の最高権力者の暗殺をきっかけに、セカンドアースは地区間の争いが絶えず治安は絶望的なものとなっていました。
さらに、外界からの謎の侵略生物『アンノウン』の襲撃も始まって、セカンドアースは現在未曽有の危機に。
そこで政府は、セカンドアース内のカースト制度を明確にする為に、さらにはアンノウンに対抗する為に、アンノウン討伐も兼ねた人型ロボット『ビッグバンダー』を用いた代理戦争『バトル・ロボイヤル』を提案。
各地区から一人選出された代表パイロット『ファイター』が、機体整備や医療、ファイターのメンタルケア、身の回りの世話などの仕事を担う『サポーター』とペアを組んで共に参戦。
ファイターはビッグバンダーに搭乗し、ビッグバンダー同士で戦い、最後に勝ち残ったビッグバンダーを擁する地区がセカンドアースの全ての権力を握る、と言ったルールの下、それぞれの地区は戦うことになりました。
主人公・バッカス=リュボフはスラム街の比率が多い荒れた第13地区の代表ファイターである29歳メタボ体型の陽気で大らかなドルオタ青年。
『宇宙中の人が好きなだけ美味しいごはんを食べられる世界を作ること』を夢見るバッカスは幼馴染のシーメールなサポーター・ピアス=トゥインクルと共に、ファイター・サポーターが集まる『カーバンクル寮』での生活を通し、様々なライバルとの出会いを経験しながら、美味しいごはんを沢山食べたり推してるアイドルに夢中になったりしつつ、戦いに身を投じていくのでした。
『熱血豪傑ビッグバンダー!』はファイターとサポーターの絆を描いたゆるふわ熱血ロボットSF(すこしふぁんたじー)アクション恋愛ドラマです。
※この作品は「小説家になろう」でも公開しております。
プラトニック添い寝フレンド
天野アンジェラ
ライト文芸
※8/25(金)完結しました※
※交互視点で話が進みます。スタートは理雄、次が伊月です※
恋愛にすっかり嫌気がさし、今はボーイズグループの推し活が趣味の鈴鹿伊月(すずか・いつき)、34歳。
伊月の職場の先輩で、若い頃の離婚経験から恋愛を避けて生きてきた大宮理雄(おおみや・りおう)41歳。
ある日二人で飲んでいたら、伊月が「ソフレがほしい」と言い出し、それにうっかり同調してしまった理雄は伊月のソフレになる羽目に。
先行きに不安を感じつつもとりあえずソフレ関係を始めてみるが――?
(表紙イラスト:カザキ様)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる