24 / 62
第二章
第二十四話
しおりを挟む
翌日、雪子は朝の六時に起こされた。昨日の酒で頭が痛く身体も重かった。起こしたのは秋子だった。秋子は無言で、唇に人差し指をあてながら雪子の手を引いた。そのままふたりは部屋を出て、スウェットから着替えさせてもくれなかった。
ホテルのロビーまでいくと、ようやく秋子は口をひらいた。
「雪ちゃん、楽しみにしててね。良いものみせてあげる」
雪子の頭はまだ靄がかっている。
「ねえ、これは何なの? わたしとても眠いのよ」
「だから良いもの見せるって」
「昼とかでもいいじゃない」
「だめよ、お昼はドライブで島一周するんでしょう」
「お父さんに頼めばきっと寄ってくれるわ」
「お父さんとお母さんは明日なの。今日は雪ちゃん」
道は獣道のような荒々しさがあって、雪子はスウェットが汚れないか心配だった。木々の枝葉が道を深くまで浸食し、それを避けるのにかがんだり跨いだりしなければならなかった。雪子の身体には重労働だったが、先をゆく秋子の浮かべた薄い頬のえくぼに導かれながら一歩ずつ進んだ。雪子は、妹の勝手を姉らしい寛容さですっかり許していた。
海が見えた。これには雪子も心が揺れた。海面も砂浜もテレビやSNSでながれるような情感的なものだった。しかしそれゆえに、雪子にはある種の気恥ずかしさもあった。それは不相応な高級ブランドをレジに持っていくような心地である。
それに比べ、連れてきた秋子のほうはこの風景に見合っている。世界の中心がいま秋子の姿にエネルギーを注いでいる感じがした。日光も波音も風も、すべて雪子を通り過ぎたようだった。
『あの人が来ていないかしら』
雪子は結局、妹に青年のことを訊かなかった。試験が終わってからというものの、秋子の気持ちは見るからに浮足立って、青年のことを訊いてしまえば、あらぬ推測が飛んできそうだった。それだから雪子は、青年への想いを抽斗の奥にしまっていたが、しかし抽斗は日頃ますます緩くなり、というよりもう開けっ放しで、風景を見るたび、あるいは匂いを嗅ぐたびに彼女の頭には青年の姿がよぎり、また会いたくなって、そしてなぜだか今にでも会える気がした。何につけても、雪子は偶然の糸を見出そうとするのである。成就の試しがないこの運命論者は、雪子自身からしても滑稽だった。
「ねえ、これならお母さんもお父さんも喜んでくれそうじゃない?」と秋子がいった。
「ええ、きっと喜ぶわ」
「明日も晴れるかどうかが肝心ね。いえ、明日じゃなくてもいいわ。明日と明後日そのどちらかが晴れてくれれば」
「きっと晴れるわ。アキが望めば」
雪子はそう言いながら木陰に腰を下ろした。そこはひんやりとしすぎて、風もそっけないものに思えた。木陰は凹凸状に岩場までつづいていて、風によって絶えず変形していた。
しかしその影の輪郭のうちにまっすぐ直線状に動くものがあった。雪子はそれを影法師と認めた。影法師はゆっくりと近寄るが、その本体は暗がりにまぎれてよく見えない。地元の人だろうか、と雪子は思った。いや、そう思いつつ、どこかでその影が、青年の黒影であることを願望していた。
影は緩慢な、幽霊のような動きである。雪子の鼓動はもう煩くて仕方がない。
「すみません、ここのホテルに泊まっているものだから、もしかして貴女たちもおなじかと思って」
雪子の座っているところまであと三メートルぐらいのところにまで来ると、男はそういった。声は雪子が想定するよりも明るく、高かった。しかしそれだけでは、青年かどうか判断できない。そういえば雪子は、青年の声をあまり聞いていない。彼女は、自分たちもここに泊まっている、とおどおどして返した。男は速度を変えず近づいて、徐々にはっきりと顔を見れた。
暗がりにもわかる青白さ、とくに目立った目のくま、張った頬骨、男にしては長い髪、削られたような鼻……あのときの青年だった! 雪子はひどい感激に襲われて、声を失った。
ホテルのロビーまでいくと、ようやく秋子は口をひらいた。
「雪ちゃん、楽しみにしててね。良いものみせてあげる」
雪子の頭はまだ靄がかっている。
「ねえ、これは何なの? わたしとても眠いのよ」
「だから良いもの見せるって」
「昼とかでもいいじゃない」
「だめよ、お昼はドライブで島一周するんでしょう」
「お父さんに頼めばきっと寄ってくれるわ」
「お父さんとお母さんは明日なの。今日は雪ちゃん」
道は獣道のような荒々しさがあって、雪子はスウェットが汚れないか心配だった。木々の枝葉が道を深くまで浸食し、それを避けるのにかがんだり跨いだりしなければならなかった。雪子の身体には重労働だったが、先をゆく秋子の浮かべた薄い頬のえくぼに導かれながら一歩ずつ進んだ。雪子は、妹の勝手を姉らしい寛容さですっかり許していた。
海が見えた。これには雪子も心が揺れた。海面も砂浜もテレビやSNSでながれるような情感的なものだった。しかしそれゆえに、雪子にはある種の気恥ずかしさもあった。それは不相応な高級ブランドをレジに持っていくような心地である。
それに比べ、連れてきた秋子のほうはこの風景に見合っている。世界の中心がいま秋子の姿にエネルギーを注いでいる感じがした。日光も波音も風も、すべて雪子を通り過ぎたようだった。
『あの人が来ていないかしら』
雪子は結局、妹に青年のことを訊かなかった。試験が終わってからというものの、秋子の気持ちは見るからに浮足立って、青年のことを訊いてしまえば、あらぬ推測が飛んできそうだった。それだから雪子は、青年への想いを抽斗の奥にしまっていたが、しかし抽斗は日頃ますます緩くなり、というよりもう開けっ放しで、風景を見るたび、あるいは匂いを嗅ぐたびに彼女の頭には青年の姿がよぎり、また会いたくなって、そしてなぜだか今にでも会える気がした。何につけても、雪子は偶然の糸を見出そうとするのである。成就の試しがないこの運命論者は、雪子自身からしても滑稽だった。
「ねえ、これならお母さんもお父さんも喜んでくれそうじゃない?」と秋子がいった。
「ええ、きっと喜ぶわ」
「明日も晴れるかどうかが肝心ね。いえ、明日じゃなくてもいいわ。明日と明後日そのどちらかが晴れてくれれば」
「きっと晴れるわ。アキが望めば」
雪子はそう言いながら木陰に腰を下ろした。そこはひんやりとしすぎて、風もそっけないものに思えた。木陰は凹凸状に岩場までつづいていて、風によって絶えず変形していた。
しかしその影の輪郭のうちにまっすぐ直線状に動くものがあった。雪子はそれを影法師と認めた。影法師はゆっくりと近寄るが、その本体は暗がりにまぎれてよく見えない。地元の人だろうか、と雪子は思った。いや、そう思いつつ、どこかでその影が、青年の黒影であることを願望していた。
影は緩慢な、幽霊のような動きである。雪子の鼓動はもう煩くて仕方がない。
「すみません、ここのホテルに泊まっているものだから、もしかして貴女たちもおなじかと思って」
雪子の座っているところまであと三メートルぐらいのところにまで来ると、男はそういった。声は雪子が想定するよりも明るく、高かった。しかしそれだけでは、青年かどうか判断できない。そういえば雪子は、青年の声をあまり聞いていない。彼女は、自分たちもここに泊まっている、とおどおどして返した。男は速度を変えず近づいて、徐々にはっきりと顔を見れた。
暗がりにもわかる青白さ、とくに目立った目のくま、張った頬骨、男にしては長い髪、削られたような鼻……あのときの青年だった! 雪子はひどい感激に襲われて、声を失った。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
【完結】ツインクロス
龍野ゆうき
青春
冬樹と夏樹はそっくりな双子の兄妹。入れ替わって遊ぶのも日常茶飯事。だが、ある日…入れ替わったまま両親と兄が事故に遭い行方不明に。夏樹は兄に代わり男として生きていくことになってしまう。家族を失い傷付き、己を責める日々の中、心を閉ざしていた『少年』の周囲が高校入学を機に動き出す。幼馴染みとの再会に友情と恋愛の狭間で揺れ動く心。そして陰ではある陰謀が渦を巻いていて?友情、恋愛、サスペンスありのお話。
記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした
結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろうにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
可不可 §ボーダーライン・シンドローム§ サイコサスペンス
竹比古
ライト文芸
先生、ぼくたちは幸福だったのに、異常だったのですか?
周りの身勝手な人たちは、不幸そうなのに正常だったのですか?
世の人々から、可ではなく、不可というレッテルを貼られ、まるで鴉(カフカ)を見るように厭な顔をされる精神病患者たち。
USA帰りの青年精神科医と、その秘書が、総合病院の一角たる精神科病棟で、或いは行く先々で、ボーダーラインの向こう側にいる人々と出会う。
可ではなく、不可をつけられた人たちとどう向き合い、接するのか。
何か事情がありそうな少年秘書と、青年精神科医の一話読みきりシリーズ。
大雑把な春名と、小舅のような仁の前に現れる、今日の患者は……。
※以前、他サイトで掲載していたものです。
※一部、性描写(必要描写です)があります。苦手な方はお気を付けください。
※表紙画:フリーイラストの加工です。
【完結】君とひなたを歩くまで
みやこ嬢
ライト文芸
【2023年5月13日 完結、全55話】
身体的な理由から高校卒業後に進学や就職をせず親のスネをかじる主人公、アダ名は『プーさん』。ダラダラと無駄に時間を消費するだけのプーさんの元に女子高生ミノリが遊びに来るようになった。
一緒にいるうちに懐かれたか。
はたまた好意を持たれたか。
彼女にはプーさんの家に入り浸る理由があった。その悩みを聞いて、なんとか助けてあげたいと思うように。
友人との関係。
働けない理由。
彼女の悩み。
身体的な問題。
親との確執。
色んな問題を抱えながら見て見ぬフリをしてきた青年は、少女との出会いをきっかけに少しずつ前を向き始める。
***
「小説家になろう」にて【ワケあり無職ニートの俺んちに地味めの女子高生が週三で入り浸ってるんだけど、彼女は別に俺が好きなワケではないらしい。】というタイトルで公開している作品を改題、リメイクしたものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる