ピアノの家のふたりの姉妹

九重智

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第二章

第二十二話

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 それから中心街で焼肉を食べ、帰りの車に乗った。茶髪の友人とパチンコ狂いの友人はすっかり泥酔で眠りこけていた。運転はもう一人の、サトウキビ畑の友人がした。その友人は運転がうまかった。日頃通っているのか、カーナビに映らない道をすらすらと進んでいた。

 夜の畦道を抜けてもあたりは暗かった。道路は塗装され比較的新しく、凹凸がない。しかし街灯もないため、車のハイビームだけが頼れる灯りだった。車が暗闇を切り裂く光景は、なんだか概念上の移動をしているようだった。

「久しぶりに会えてよしかった」と運転役はいった。

「いや、こっちも嬉しかった。やっぱり懐かしいよ、島の感じは。安心する」

「それならよかった。でも、東京と比べるとつまらんだろう」

「そんなことないさ」

「こっちにはまともな図書館もすくないから、夏樹には苦痛だろう」

「でも海がある、山がある。それだけで充分だ」

 沈黙が流れた。タイヤの走行音しか音はなかった。つまらないことを言った、と夏樹は思った。そして自分がつまらないことしか言えなくなった、なんて思った。

『やっぱり僕は、東京の人間になっている。いや、というよりつまらない人間になった。情熱のない人間、なにも恨まずなにも目指さない人間に。もう燃料は湿気って、別の動機が僕の原動力になっている。別の動機? それはきっと臆病だ。合宿の準備はまさにそれだった。僕はあの一年生に恐れて、自らの保身のために邁進した。あの勤勉性は鋭いものではない。錆びつき折れていないだけの刃で、それっぽく振り回しただけだ。文化政策へ転部する。黒田ゼミに入る。それで僕はどうするのだろう。多分、僕は学者にはならない。じゃあなにをするんだ? 東京で就職して、折ごとにこうやって島に帰るのだろうか。そのときの顔はどういうものなのだろう。虚ろな、抜け殻の目だろうか。それとも刹那的な活気に汚染された、ネオンのような目だろうか。僕は笑って、真空の目で、転職のことなどを語るのだろうか』

 夏樹の瞼には秋子の微笑みがあった。微笑みは強烈な引力を伴い、不気味に夏樹の手を掴んでいる。夏樹は、不幸があったら、と思った。自分をもういちど鋭くさせるものがあれば。
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