ピアノの家のふたりの姉妹

九重智

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第二章

第十八話

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 それからの一か月は恋人たちにとって長すぎた。

 秋子は試験の勉強を教えてもらうために大学の図書館を週に三度訪れた。時間前には夏樹がもうすでに席をとっていて、手招きしてくれた。秋子はこの試験前の時期しか図書館を利用しなかったが、秋子とおなじような学生らの盛況で夏樹を見つけにくいときもあった。それで図書館に行く前にいちど併設のカフェで待ち合わせることにした。夏樹の家で勉強することも秋子は提案したがさりげなく断られた。秋子はそれでますます一か月後の徳之島が待ち遠しかった。

 夏樹はというと、必ずしも秋子との勉強を喜んでいるわけでもなかった。もちろん、美しい恋人とのじゃれあいのような勉強会は彼の生活の清涼剤にはなった。しかし夏樹が求めるものは清涼剤よりも熱気を高める薪木だった。

 七月の中旬、三船家にお呼ばれした一週間後、夏樹は社会学の教授と親しくなり、八月のゼミ合宿に招待された。A大学ではゼミは三年に入るのが通常だから、夏樹は異例の参加だった。

 教授の名前は黒田といった。黒田はその眉間を寄せた風貌からかけ離れた、くだけた人となりで、ゼミ生の応募も定員以上あった。そして夏樹もゼミに入るなら黒田ゼミと前々から胸に決めていた。

 黒田は招待の旨を告げたあと、こんなことを言った。

「まあ、そんなに気負うことはないよ。長谷川君の気になることとか、いま何を勉強しているとかそういうことを発表すればいい。メインはやはり卒論生だし、まあ人の意見を聞く場としてね。独学もいいけど、批判あって研究だからね」

 思いがけない誘いに困惑して、夏樹は煮え切らない返事をした。いや返事すらしていなかったかもしれない。

「まあまあ、最初は何事も緊張はあるけどね……ああ、そうだ。君とあともう一人、合宿に来るんだ」

「そうなんですか」

「ああ、彼は自分から直談判してきたから、長谷川君と事情はちがうけど。たしか一年生だったはず。フーコーを読んでいるらしいよ」

「フーコーですか」

 と夏樹はいった。フーコーについて『監獄の誕生』とか『性の歴史』とか言おうとも思ったが、覚えているのは著作名ばかりで、実際にフーコーを読んだことはなかった。それゆえのぼやけたような反応が、黒田には無知な学生と見えたかもしれない、そんなことばかり夏樹は危惧していた。

「まあ、とりあえず刺激にはなると思うから、是非来てみてください」

 その日、夏樹は興奮であまり寝つけなかった。夏樹の頭は、二年生で黒田ゼミに呼ばれた誇らしさと下手な発表はできないプレッシャーで膨れていた。そのうち、ともに招待された一年生のことが気になった。こういうとき黒田の言葉を都合よく切り取り、彼を自信過剰で、身の程知らずな学生と想定すればよかった。そうすれば今晩はもっとはやくよく眠れ、翌日からまた励めば済む話だった。しかし夏樹にはその類の処世術はすっかり肌に合わなくなって、彼の頭では人物像がもくもくと形作られ、まるでその一年生が歴史的哲学者にも思えるのだった。彼がフーコーを読んでいるあいだ、まるで夏樹は何も学んでないようにも思えた。

 夏樹は午前四時まで頭が覚醒して、それならばと本を開いた数分後、濃煙のような睡魔に見舞われた。

 それだから、夏樹は恋人になんどか訊いたことがある。

「ねえ、秋ちゃんは僕と勉強して頭に入るかい」

 秋子は「ん?」とだけ聞き返してノートから頭を上げた。額に一粒だけ玉のような汗をかいて、発汗のせいか頬が潤んでいるように見えた。この潤いが、湿りが、恋人をいっそう誘惑の象徴に思わせた。

「いやさ、ときどき思うんだ。勉強を教えるといっても、僕はのちのち経済から文化政策に転部するつもりで、あまり経済学に集中していないし、秋ちゃんの質問にあまり答えられないときもある。それに自力で内容を理解したほうがためにはなるんじゃないかって」

「わたしは大丈夫。こうしてふたりでするほうが長くやれるもの」

「お姉さんも元経済だろう?」

「雪ちゃんは会社勤めで忙しいもの」

 秋子はこの夏樹の言葉を字面通りの、ただの心配だと思った。またしても秋子は鈍感だった。しかし夏樹の同様の質問を日またぎで三度も繰り返されれば、さすがの彼女も言わんとすることに気づいた。

 ふたりは試験が終わるまで会わないことを約束した。秋子は寂しかったがその試験も一週間後だった。一週間経てば注射のような時間がやってきて、それさえ過ぎれば夏休みがあった。それは見慣れた色調の夏ではない。おなじチューリップも色さえ違えばそうとう可憐に感じるはずである。

 ようやく夏樹は心身を削る日々を送れた。試験勉強を単位取得の確実なところまで仕上げると、残りの時間は合宿までの勉強に費やした。夏樹は先行研究を借りては書評を書き、返却してまた借りるを何度もこなした。自らの課題として一日に一冊分の書評を課したりもした。夏樹にはもはや秋子のことも、例の学生のことも考えに割く余裕がなかった。ストレスで数か月ぶりに煙草を吸ったりもした。捨てきれずにいたピースはタールが重く、すぐにむせた。
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