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第二章
第十七話
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三日後の晩、夏樹は秋子つたいに三船家の夕食へ呼ばれた。プリンの礼とのことだった。実は夏樹が三船家の敷地に入るのはそのときが初めてで、見るからに広々としたその家へ足を踏み入れるのはあまり気乗りしなかった。
前回とおなじように春枝が出迎えた。廊下を渡るとリビングは夏樹の実家の一階分よりも広かった。島の仲間が夏樹の家の広さにはしゃいでいたのがどこか懐かく、しかしふしぎと口惜しくもない。
キッチンには秋子とその姉がいた。夏樹はそのとき雪子をはじめて見た。写真では何度も観たが、想像の一回りは大柄だった。秋子の寸評が的を得ているかどうか判断するにはまだ時間が要った。
雪子のほうは夏樹を一瞥しただけで別に何も思うところがなかった。というのも、日を跨いでからは、雪子の頭には以前の青年のことが頭を巡って、妹の恋人どころではない。
青年の様々な表情が、事実と虚飾まじえて雪子の意識の一角に貼り付けられていた。しかもそれは二日前にふと思い出していらい、ほとんど剥がれない粘着性をもって。雪子は青年の恐怖におののいた目を、雨で湿りすぎた髪を、ハンカチを見つけたときの、いまにも安堵で壊れてしまいそうな顔を想った。
青年に意識をとられて、料理もいくつかしくじった。雪子はチキンステーキの下処理の際、もも肉にフォークで穴をあけるのを忘れてしまった。ポテトサラダのじゃがいもの皮むきも上手くいかなかった。コーンスープのときには生クリームの分量が多かった。しかし隣の秋子は全く気づいた様子がなく、秋子の美しさのひとつはもしかしてこの鈍感さじゃないかしら、などとも思った。
料理支度が終わって、秋子が木目のテーブルにサーブした。夏樹は日常の夕飯にパンをだされたのにおどろいた。実家では常に和食で、臆病にパンをちぎっては食べを繰り返したが、腹が満たされる気がしなかった。かといって、腹が空いている感じもない。
それを秋子がからかった。「夏ちゃんはよっぽどパンが好きなのね」
夏樹はすこしむっとした。
「なんでそう思うのさ」
「だってさっきからバターもつけずに食べているんですもの」
夏樹は赤くなってすぐ白状した。
「いや、すみません、実家ではずっと和食で、こういう食事には不慣れなもので」
「あら!」と春枝はいった。「やっぱり和食のほうがよかったわね」
こんどは春枝が秋子をからかった。
「もしかしてアキは知ってたんじゃない?」
「いやね、そんなことはないわ。誓ってもいい」
「どうでしょうね。夏樹さん、ほんとうは和食の案もあったんです。でも、アキがどうしても洋食がいいってきかないものだから」
「いやあれはわたしが洋食のほうが得意だからよ」
「でも主につくるのはユキのほうじゃない」
「まあ、お母さん!」
「どちらがつくったにせよ、この料理はすごくおいしい」
食事のあと、しばらく夏樹と雪子と父親が話し込んでいたので秋子は退屈だった。しかしそれも終えたあとの父の一言は娘をこれうえなく喜ばせた。
「アキ、今年の家族旅行は徳之島にしようと思うんだが、いいかい」
「徳之島?」
「そうさ。夏樹くんはまだ考えに粗はあるけれどおもしろい子だ。その故郷を僕も見たくなった。どうだろう?」
「夏ちゃんはなんて?」
「もちろん歓迎するって」
「じゃあ是非! ねえ、いつごろになるの」
「たぶん、八月の十日から十三までだね」
秋子はそらでカレンダーをめくった。あと一か月もある! 幸福をほおばるのに慣れた秋子にとってはなかなかのおあずけだった。
「ねえ、もっとはやくできないの?」
「それは夏樹くん次第だね。こっちは仕事もやめて暇なんだから」
「じゃあ説得して明日にでも!」
秋子はこう言ったが、むろん、実際に説得するはずもなかった。そのかわり、秋子はその夜、一日々々が光のようにはやく過ぎることを願った。いままで見向きもしなかった神に、はじめておねだりをした。
前回とおなじように春枝が出迎えた。廊下を渡るとリビングは夏樹の実家の一階分よりも広かった。島の仲間が夏樹の家の広さにはしゃいでいたのがどこか懐かく、しかしふしぎと口惜しくもない。
キッチンには秋子とその姉がいた。夏樹はそのとき雪子をはじめて見た。写真では何度も観たが、想像の一回りは大柄だった。秋子の寸評が的を得ているかどうか判断するにはまだ時間が要った。
雪子のほうは夏樹を一瞥しただけで別に何も思うところがなかった。というのも、日を跨いでからは、雪子の頭には以前の青年のことが頭を巡って、妹の恋人どころではない。
青年の様々な表情が、事実と虚飾まじえて雪子の意識の一角に貼り付けられていた。しかもそれは二日前にふと思い出していらい、ほとんど剥がれない粘着性をもって。雪子は青年の恐怖におののいた目を、雨で湿りすぎた髪を、ハンカチを見つけたときの、いまにも安堵で壊れてしまいそうな顔を想った。
青年に意識をとられて、料理もいくつかしくじった。雪子はチキンステーキの下処理の際、もも肉にフォークで穴をあけるのを忘れてしまった。ポテトサラダのじゃがいもの皮むきも上手くいかなかった。コーンスープのときには生クリームの分量が多かった。しかし隣の秋子は全く気づいた様子がなく、秋子の美しさのひとつはもしかしてこの鈍感さじゃないかしら、などとも思った。
料理支度が終わって、秋子が木目のテーブルにサーブした。夏樹は日常の夕飯にパンをだされたのにおどろいた。実家では常に和食で、臆病にパンをちぎっては食べを繰り返したが、腹が満たされる気がしなかった。かといって、腹が空いている感じもない。
それを秋子がからかった。「夏ちゃんはよっぽどパンが好きなのね」
夏樹はすこしむっとした。
「なんでそう思うのさ」
「だってさっきからバターもつけずに食べているんですもの」
夏樹は赤くなってすぐ白状した。
「いや、すみません、実家ではずっと和食で、こういう食事には不慣れなもので」
「あら!」と春枝はいった。「やっぱり和食のほうがよかったわね」
こんどは春枝が秋子をからかった。
「もしかしてアキは知ってたんじゃない?」
「いやね、そんなことはないわ。誓ってもいい」
「どうでしょうね。夏樹さん、ほんとうは和食の案もあったんです。でも、アキがどうしても洋食がいいってきかないものだから」
「いやあれはわたしが洋食のほうが得意だからよ」
「でも主につくるのはユキのほうじゃない」
「まあ、お母さん!」
「どちらがつくったにせよ、この料理はすごくおいしい」
食事のあと、しばらく夏樹と雪子と父親が話し込んでいたので秋子は退屈だった。しかしそれも終えたあとの父の一言は娘をこれうえなく喜ばせた。
「アキ、今年の家族旅行は徳之島にしようと思うんだが、いいかい」
「徳之島?」
「そうさ。夏樹くんはまだ考えに粗はあるけれどおもしろい子だ。その故郷を僕も見たくなった。どうだろう?」
「夏ちゃんはなんて?」
「もちろん歓迎するって」
「じゃあ是非! ねえ、いつごろになるの」
「たぶん、八月の十日から十三までだね」
秋子はそらでカレンダーをめくった。あと一か月もある! 幸福をほおばるのに慣れた秋子にとってはなかなかのおあずけだった。
「ねえ、もっとはやくできないの?」
「それは夏樹くん次第だね。こっちは仕事もやめて暇なんだから」
「じゃあ説得して明日にでも!」
秋子はこう言ったが、むろん、実際に説得するはずもなかった。そのかわり、秋子はその夜、一日々々が光のようにはやく過ぎることを願った。いままで見向きもしなかった神に、はじめておねだりをした。
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