ピアノの家のふたりの姉妹

九重智

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第二章

第十四話

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 夏樹は老人ホームでのボランティアの翌朝、部屋にいる誰よりもはやく目が覚めた。島の名家で育ったこの青年は、人の部屋で寝ることにいまだ慣れていない。

 八畳間の友人宅は六人の男たちがすし詰めで熟睡している。ある者は机の下で丸くなり、ある者は別の者の腹に寄りかかっていた。夏樹はその部屋の端で眠ったが、そこから室内を見渡すと、カーテンから漏れる日光も相まってなんだか戦後期の陰鬱な絵画のようだった。

 夏樹はぼんやりと微睡みながら、彼らを起こしては悪いと思い、歯磨きもせずリュックから一冊、本を取り出した。本は分厚く六百ページある。夏樹はそれを膝にのせ、リュックの上にノートを置いた。リュックは枕がわりにしていたおかげでいい塩梅に平坦だった。夏樹は本を読んではめぼしい一文を、該当のページ数も漏らさず直接引用の形でノートに書き写した。図書館から借りているため、付箋や引線をつかえないのが難点だった。

 本を読み、一ページずつ格闘するたびに青年の頭は冴えていった。しかし冴えた頭が必ずしも眼前のことに集中するわけではなく、夏樹の思考は秋子のことや、サークルのこと、徳之島のことと、よく飛び火した。それがあまりに頻繁で、そのうち本をパタンと閉じて、もういっそ飛び火のほうに考えを尽くすことした。

 ふと、夏樹は室内の一人の男が気になった。いや男というより身体つきがあまりにも華奢で小さく、少年に近い印象があった。ただ少年というには顔は青白くくすんでいて、細かい皺が多かった。そういう点では夏樹より年上にも思える。

 とにかく、その男は部屋のちょうど対角線上の片隅で、体育座りの組んだ腕に頭をうずめていた。眠っているのかどうかは定かではない。その実、意識は起きていて、一晩中泣いているのかもしれなかった。

『あんな体勢で寝づらくないんだろうか』

 夏樹とその青年とは昨日はじめて会った。夏樹とおなじ国際関係をディベートするサークルの新入生である。浪人していたので同い歳なのは聞いた。それ以外も色々と聞いたはずだが、彼の頭にはなにひとつ残っていなかった。それも当然で、サークルの友人が青年になにかと質問しているあいだ、夏樹は秋子との悪事の余波にやられていてろくに気をかけていなかった。そのあとに飲み会じみた歓迎会があったが、青年はまともなことを喋っていたのだろうか。しかしその口調も覚えていないから、むろん内容も判然としない。ただ、笑っていても、いや笑っているときこそ暗い印象があった気がした。

 夏樹が壁のシミのような青年を見つめていると、旧式の目覚まし時計のけたたましすぎる金属音が鳴り、三年の、つまり夏樹より一期上の先輩がゆっくりと身体を起こした。

「おお、長谷川は早いな」目覚まし時計のベルを無理やりとめて、先輩のサークル仲間はいった。

「ええ、ここは陽がよく当たるので、かえって健康な時間に」

「それは良いことだ、部屋を貸す側もそうはやいと安心できるよ」

 そういってその家主はまた別の、卓上の時計を見た。そして

「皆! おはよう! もう九時だぞ。さあ、起きた起きた!」

 その一言で、静寂に止められた空気は緩慢に動きはじめた。男たちには、目を擦りながら頭を持ち上げる者もいれば、ただ睡眠の姿勢をかえただけの者もいた。後者のほうは号令をかけた家主から激しく揺さぶられ、機嫌悪そうにしていた。

「早く早く! 俺は十時からバイトなんだ。九時半には締め出すぞ!」

 各々、散乱した飲み物や空容器を片したり、歯を磨いたり、ベランダに出て煙草を吸ったりした。例の新入生もいつの間にか起きて、水面台で容器を洗っていた。

 帰路の途中、同期の橋本が夏樹に言った。

「おまえ昨日、秋子さんとランデブーだったんだろ」

「ランデブー?」

「お前が言ったんじゃないか。サークルの帰りにひっそりとお忍びデートだったんだろ」

「そんなことまでいったのか僕は」

「酒が弱いってのは難儀だね。こっちとしては楽でいいけども」

「吐いたら看病してくれるんだろ?」

「おまえは吐かないさ。黙って寝るタイプ」

「じゃあもう酒はやめようか」

「前みたいに煙草を吸うか」

「いや、ようやく歯が白くなってきたところなんだ」

「彼女のために煙草もやめるってのは見上げたもんだな。まあ相手が相手ってこともあるが」

 たしかに夏樹は煙草をやめた。しかしそれはなにも秋子が恋人だからというわけではなかった。
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