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第一章
第九話
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雪子がハンカチを見つけたときの青年の嬉しがりようといったらなかった。ペチュニアに同化した布きれを取り上げ、「これじゃないかしら」と青年に見せると、一言もいわず手ごと両手で掴まれた。
「これであってる……?」動揺した雪子はまた訊き返した。
「ええ……ええ! あってます、これです!」
「ならよかったわ。とても汚れてしまっているけれど」
「汚れなんてどうでもいいです! ……うん、洗えば落ちるもんだ。……すみません、ありがとうございます、ほんとうに」
青年はいまにも泣き出しそうだった。その泣き方というのが、歓喜のあまりというより罰から外された人間の解放感のようだった。額に張り付いた前髪が、急遽行われた洗礼の証のように見える。
雪子はほっとしたからか傘が要らないのに気づいた。青年のすぐ後ろに、雲の切れ間から光が射したのである。
「ねえ、貴方のうしろ、後光みたいだわ」雪子は傘を閉じながらいった。
「あ、ほんとだ」
青年はしばらく振り返ったままだった。それだから、雪子からは顔は見えない。しかしきっと泣いているのだろうと雪子は思った。青年がここまでハンカチを探した事情は知らないが、泣いてでもしなければ、これまでの青年の執着と合わない気がした。
雪子はしばらく待って、青年にいった。
「よかったら送りましょうか」
ふたりは雪子の車に乗り、青年がこのあと用のあるA大にむかった。雨のせいで、服を拭いたあともシートはじんわりと湿っていた。
「うちの妹も貴女とおなじ大学よ」
「奇遇ですね」
「ほら、今日ピアノの演奏してたじゃない。その二人目が妹なの」
「ピアノの演奏?」
「気づかなかった?」
「全然。僕はここの職員さんに会いに来ただけなんです」
青年の口調は明るかった。語尾が弾むほどではないが、トーンがいくらか高く、その上がった色調と帳尻をあわせるようにダッシュボードを見つめている。それは力を出尽くしたアスリートのようでもあった。
雪子もいくらか高揚していた。それが達成感なのかまた別のものかわからない。
「ハンカチ一枚だって、人にとっては宝物よね」
雪子は高揚感ついでに、青年のハンカチについて訊こうと思い、導入にそんなことをいった。
「宝物じゃありません」
「じゃあ何なの?」
雪子がそういうと、青年はハンカチを広げ、ふだん折り方からして内側にある黒いシミを見せた。それはさっきついた泥とちがって、呪いのような不穏な根深さがある。紺色の憎んだような変色は、そこだけ数十年の年月が経ったようだった。
「なあに、それ」雪子はハンドルを遊ばせながら、また穏やかな調子で訊いた。
青年はいった。
「血です」
「これであってる……?」動揺した雪子はまた訊き返した。
「ええ……ええ! あってます、これです!」
「ならよかったわ。とても汚れてしまっているけれど」
「汚れなんてどうでもいいです! ……うん、洗えば落ちるもんだ。……すみません、ありがとうございます、ほんとうに」
青年はいまにも泣き出しそうだった。その泣き方というのが、歓喜のあまりというより罰から外された人間の解放感のようだった。額に張り付いた前髪が、急遽行われた洗礼の証のように見える。
雪子はほっとしたからか傘が要らないのに気づいた。青年のすぐ後ろに、雲の切れ間から光が射したのである。
「ねえ、貴方のうしろ、後光みたいだわ」雪子は傘を閉じながらいった。
「あ、ほんとだ」
青年はしばらく振り返ったままだった。それだから、雪子からは顔は見えない。しかしきっと泣いているのだろうと雪子は思った。青年がここまでハンカチを探した事情は知らないが、泣いてでもしなければ、これまでの青年の執着と合わない気がした。
雪子はしばらく待って、青年にいった。
「よかったら送りましょうか」
ふたりは雪子の車に乗り、青年がこのあと用のあるA大にむかった。雨のせいで、服を拭いたあともシートはじんわりと湿っていた。
「うちの妹も貴女とおなじ大学よ」
「奇遇ですね」
「ほら、今日ピアノの演奏してたじゃない。その二人目が妹なの」
「ピアノの演奏?」
「気づかなかった?」
「全然。僕はここの職員さんに会いに来ただけなんです」
青年の口調は明るかった。語尾が弾むほどではないが、トーンがいくらか高く、その上がった色調と帳尻をあわせるようにダッシュボードを見つめている。それは力を出尽くしたアスリートのようでもあった。
雪子もいくらか高揚していた。それが達成感なのかまた別のものかわからない。
「ハンカチ一枚だって、人にとっては宝物よね」
雪子は高揚感ついでに、青年のハンカチについて訊こうと思い、導入にそんなことをいった。
「宝物じゃありません」
「じゃあ何なの?」
雪子がそういうと、青年はハンカチを広げ、ふだん折り方からして内側にある黒いシミを見せた。それはさっきついた泥とちがって、呪いのような不穏な根深さがある。紺色の憎んだような変色は、そこだけ数十年の年月が経ったようだった。
「なあに、それ」雪子はハンドルを遊ばせながら、また穏やかな調子で訊いた。
青年はいった。
「血です」
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