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第一章
第六話
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「降ってきたね」
バスから下車した夏樹は手のひらを宙にむけた。「これだからバスは不便だ。電車なら駅内で傘が買えるんだけどさ」
「じゃあなんで電車にしなかったの」と美玖が訊いた。
「調べたら乗り換えがあるっていうもんだからさ、大変かなって」
「そう? 大変かしら、乗り換え」
「大変だよ、いちいちどれに乗るか判断してなんて」
三人はそれからA大の学生食堂で反省会をした。反省会が終わると美玖がそそくさと片付けた。「じゃあ、わたしはこれで」
「ああ、ありがとう今日は。これからは帰るだけ?」夏樹はまだメモ帳に反省会の内容を書き込んでいた。
「ええ、そう。あ、でも買物もしようと思って」
「なら、わたしも行こうかしら」
「だめ、わたし夏樹くんに恨まれたくないの」美玖はそういって、トレイを食器置き場にもっていった。その口調がいやらしさもなかったものだから、夏樹はかえってどぎまぎした。
「雪子さんのほうは連絡がついた?」と夏樹が訊いた。
「ええ。さっき返事が来て、おもしろいことがあったらしいの。いま雪ちゃんはそこで会った人のハンカチを探しているわ」
「おもしろいこと」といいながら、秋子の顔色はまだ晴れない。いやむしろ、より曇天な顔つきになって、まるで深刻な、心痛ましい時事を語るような口調だった。
「ハンカチを? 親切だね」
「雪ちゃんはふだんこんなことする人じゃないの。ねえ、だから……」
「なにが?」
「いえ、恋してるんじゃないのかなって。雪ちゃん。一目惚れじゃないけど」
「そんなことあるかな」
「でもそうだと思うわ」
「秋ちゃんの勘は当たりそうだね」
「そんなことないわ。ただ雪ちゃんに関してはね、なんとなくなんだけど」
夏樹は表情に迷った。夏樹は時田の件を知っていて、それだから、恋という華やかな街角の言葉にも、慎重な反応をしなければならなかった。秋子の姉にたいする思い入れは恋人の夏樹にも牙をむく。おなじ街角でも、姉の話題となるとそこには夜警がたむろしていた。
「気になるかい」
秋子はまた考え込んでいる。「ええ。雪ちゃんがまた……」
「でも勘だろう。それに勘が当たっても、相手がそんな酷いやつじゃない可能性もあるわけで」
「ええ、そうね」
「それに雪子さんだって前の一件で警戒もしているだろうし、そんなほいほいと色んな人に惚れるわけでもないだろう」
「そうね」
「それよりむしろ、かえって来た秋ちゃんが暗い顔しているほうが嫌なんじゃないかな」
結局、秋子と夏樹は生協で傘を一本買って、最寄りの喫茶店で過ごした。秋子が六時までに帰らないといけないということで、三十分ほどの滞在だったが、そのときには会話が弾んだ。夏樹が研究の話題をしたからだった。夏樹の研究は長崎の隠れキリシタンの信仰体系についてだった。秋子は両手を顎にあてて、籠のなかの小鳥でも愛でるようにその話を聞いた。
「わかるかい。僕の話は」
「いいえ、ちっとも」秋子は笑っていた。だいぶ、機嫌はよくなっていた。
「ほんのすこしでも?」
「ええ、全然」
「じゃあ、この話はよそうか」
「えっ、なんで?」
「だってわからない説明を長々ときいたってつまらないだろう」
「そんなことないわ。それにまったく何もわからないわけではないもの」
「じゃあ、何をわかったんだい?」
「夏ちゃんの気持ち。研究内容よりも大切じゃない?」
夏樹はこれをロマンチックな言葉と感じて、赤面した。それは陽に焼けた肌にとってはわかりにくい赤みだったが、彼氏はその顔を見られるのを恥じた。「そろそろ出よう」
そのときには雨はあがっていた。しかし空は狭く、雑踏で雨粒のあたらない舗道も見えなかった。それだから夏樹は、大勢の往来人の右手にしまわれた傘で、雨雲の急なだんまりを察した。
「まずい。人が多くなった。はやく抜けないと。秋ちゃん今日はサンダルだから大変だよ」
夏樹はそういって手を差し出した。この初心な青年はさっきの照れた反発で、恋人に気遣える彼氏をみせたかったが、手を握られたとたん、どっと汗ばんだようで、また赤くなった。
バスから下車した夏樹は手のひらを宙にむけた。「これだからバスは不便だ。電車なら駅内で傘が買えるんだけどさ」
「じゃあなんで電車にしなかったの」と美玖が訊いた。
「調べたら乗り換えがあるっていうもんだからさ、大変かなって」
「そう? 大変かしら、乗り換え」
「大変だよ、いちいちどれに乗るか判断してなんて」
三人はそれからA大の学生食堂で反省会をした。反省会が終わると美玖がそそくさと片付けた。「じゃあ、わたしはこれで」
「ああ、ありがとう今日は。これからは帰るだけ?」夏樹はまだメモ帳に反省会の内容を書き込んでいた。
「ええ、そう。あ、でも買物もしようと思って」
「なら、わたしも行こうかしら」
「だめ、わたし夏樹くんに恨まれたくないの」美玖はそういって、トレイを食器置き場にもっていった。その口調がいやらしさもなかったものだから、夏樹はかえってどぎまぎした。
「雪子さんのほうは連絡がついた?」と夏樹が訊いた。
「ええ。さっき返事が来て、おもしろいことがあったらしいの。いま雪ちゃんはそこで会った人のハンカチを探しているわ」
「おもしろいこと」といいながら、秋子の顔色はまだ晴れない。いやむしろ、より曇天な顔つきになって、まるで深刻な、心痛ましい時事を語るような口調だった。
「ハンカチを? 親切だね」
「雪ちゃんはふだんこんなことする人じゃないの。ねえ、だから……」
「なにが?」
「いえ、恋してるんじゃないのかなって。雪ちゃん。一目惚れじゃないけど」
「そんなことあるかな」
「でもそうだと思うわ」
「秋ちゃんの勘は当たりそうだね」
「そんなことないわ。ただ雪ちゃんに関してはね、なんとなくなんだけど」
夏樹は表情に迷った。夏樹は時田の件を知っていて、それだから、恋という華やかな街角の言葉にも、慎重な反応をしなければならなかった。秋子の姉にたいする思い入れは恋人の夏樹にも牙をむく。おなじ街角でも、姉の話題となるとそこには夜警がたむろしていた。
「気になるかい」
秋子はまた考え込んでいる。「ええ。雪ちゃんがまた……」
「でも勘だろう。それに勘が当たっても、相手がそんな酷いやつじゃない可能性もあるわけで」
「ええ、そうね」
「それに雪子さんだって前の一件で警戒もしているだろうし、そんなほいほいと色んな人に惚れるわけでもないだろう」
「そうね」
「それよりむしろ、かえって来た秋ちゃんが暗い顔しているほうが嫌なんじゃないかな」
結局、秋子と夏樹は生協で傘を一本買って、最寄りの喫茶店で過ごした。秋子が六時までに帰らないといけないということで、三十分ほどの滞在だったが、そのときには会話が弾んだ。夏樹が研究の話題をしたからだった。夏樹の研究は長崎の隠れキリシタンの信仰体系についてだった。秋子は両手を顎にあてて、籠のなかの小鳥でも愛でるようにその話を聞いた。
「わかるかい。僕の話は」
「いいえ、ちっとも」秋子は笑っていた。だいぶ、機嫌はよくなっていた。
「ほんのすこしでも?」
「ええ、全然」
「じゃあ、この話はよそうか」
「えっ、なんで?」
「だってわからない説明を長々ときいたってつまらないだろう」
「そんなことないわ。それにまったく何もわからないわけではないもの」
「じゃあ、何をわかったんだい?」
「夏ちゃんの気持ち。研究内容よりも大切じゃない?」
夏樹はこれをロマンチックな言葉と感じて、赤面した。それは陽に焼けた肌にとってはわかりにくい赤みだったが、彼氏はその顔を見られるのを恥じた。「そろそろ出よう」
そのときには雨はあがっていた。しかし空は狭く、雑踏で雨粒のあたらない舗道も見えなかった。それだから夏樹は、大勢の往来人の右手にしまわれた傘で、雨雲の急なだんまりを察した。
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夏樹はそういって手を差し出した。この初心な青年はさっきの照れた反発で、恋人に気遣える彼氏をみせたかったが、手を握られたとたん、どっと汗ばんだようで、また赤くなった。
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