4 / 62
第一章
第四話
しおりを挟む
折戸をさかいに空気は独特な無臭になり、三人がひらけた最後部座席に座ると、その小高い無機物の丘から、疎らな乗客の、内々にむけたまなざしを望めた。学生服でスマートフォンをいじる少年も、念じるように眠る老婦人も、窓に首をもたれる白シャツの男も、みなうつむき、内省に勤しんでいる。夏の熱射に横顔を打たれても、逆にバスのよぎった木の葉の揺らぎが淡い影をつくり泳いでも、彼らの傾きはびくともしなかった。
秋子の恋人は、その乗客の無関心さに安堵した。
秋子は、誰の目からも美しかった。ふたりで歩くとき、夏樹は男たちの好奇でにやついた視線が恋人にからむのを感じた。シルクのような白肌や、長い睫毛、身体のなだらかな曲線にみだらな印象はなかったが、かえって男たちは彼女にファンタジーな欲望を見出し、わが物にしようと挑んできた。また秋子は道に迷った老婆や上京したばかりの女子からも話しかけられた。秋子の美しさは上品であったが、他方で親しみやすさもあった。同期のある男子などは酔いながら、「お前の彼女はこ洒落た豪邸の心地の良い日向みたいだ」なんて下手な文句をいった。
秋子はまだぼんやりとしている。大きく濃い、濡れた黒真珠の瞳は窓外にあてられていた。
夏樹も外を眺めると、公園のベンチで中学生が呑気にアイスを齧っていた。中学生は二人組で、その一方が氷の溶けた汁を口の端から垂らし、もう一人がぎょっとしてその口を指さした。
「今日は土曜なのにめずらしいね。制服を着ている」
秋子の気をひこうとして、夏樹はまたそんなことをいった。
「ほんとう。なんでだろう」
秋子は疑問符の抑揚のない、乾燥した声で相槌した。夏樹は経験から、熱のない返事にはやくも観念して、
「あ、そうか、部活帰りなんだろう。制服で帰るってことは剣道とか柔道とか、そこらへんかもしれない」
と完結したつぶやきを早口でいった。それは事実上の敗走だったが、抵抗をすればするほど彼の擦り傷は増えてしまうのだった。
夏樹はしばしば秋子の姉好きに困ることがあった。いや困るほどではないが、どこか息苦しい、鼻づまりのようなものがこの姉妹の親愛だった。
秋子は、恋人よりも姉が大事だった。しかしそれは夏樹も似たようなもので、自分の研究やサークルのほうが秋子より大事である。けれども恋人といるときにそのことで考えがいっぱいになるほどではない。夏樹の研究が大事というのは、あくまで秤で量ったらということで、秋子のような明らかなウエイト差、次元の上下はなかった。秋子のもつ姉への過剰な親愛が、ときおり透明な綿糸になって恋人の身体にまきついた。
だからといって、「君の姉にたいする愛情は異常だ」とは夏樹はいえない。彼にとって秋子ははじめての恋人だったから、その距離は潮の満ち引きのように曖昧な境目をしていた。付き合って一年も経つというのに、ふたりはキスも一度しかしていない。
恋人だけでない。夏樹は上京してからあまりにも沢山のことを経験した。地下鉄、雑踏、パソコンの細々とした機能……。彼の経験は目まぐるしく、しかし質量をもったかたちで、油絵の具のように重なっていった。いまや夏樹の高校までの、徳之島の生活が彼の表面にあらわれることはあるだろうか。鋭く研磨された彫刻刀で、いまある表面をすべて削ればいいのだろうか。
夏樹は手提げかばんからメモ帳を取り出した。いまだデジタルに慣れない彼は、サークルの活動報告もまずは紙に下書きをしてからワードに写した。手元にある愛用のメモ帳は、去年のいまごろに秋子からプレゼントされたもので、茶色の牛革に金色の刺繍がついている。といってもこれも、雪子のお薦めらしいが。
頻繁にバスが揺れ、さすがの夏樹もメモが安定しなかった。夏樹はまたメモをもどし、秋子とは逆の窓を眺める美玖に、「さっきの話だけどさ」なんて前置きをして、
「ボランティアだか何だか色々やっていても、けっきょく君らのピアノが一等受けがいいんだ。いや、受けがいいというと商売じみてるけど、僕らは所詮学生のボランティアサークルでしかなくてさ、根本的に世界をどうこうっていうのはどだい困難なんだけど、しかしこういう困っている人たちを……いや老人ホームの人たちが困っているとは限らないんだけどさ……ともかく人を感動させたりするのが僕らに出来る上等なボランティアなんだと思うんだ。そういう意味で、美玖さんたちのピアノはやっぱりいいんだよ」
とくすぐったい講釈を聞かせた。美玖は健気に話にのって、なにかと気の利いた相槌を返した。
秋子の恋人は、その乗客の無関心さに安堵した。
秋子は、誰の目からも美しかった。ふたりで歩くとき、夏樹は男たちの好奇でにやついた視線が恋人にからむのを感じた。シルクのような白肌や、長い睫毛、身体のなだらかな曲線にみだらな印象はなかったが、かえって男たちは彼女にファンタジーな欲望を見出し、わが物にしようと挑んできた。また秋子は道に迷った老婆や上京したばかりの女子からも話しかけられた。秋子の美しさは上品であったが、他方で親しみやすさもあった。同期のある男子などは酔いながら、「お前の彼女はこ洒落た豪邸の心地の良い日向みたいだ」なんて下手な文句をいった。
秋子はまだぼんやりとしている。大きく濃い、濡れた黒真珠の瞳は窓外にあてられていた。
夏樹も外を眺めると、公園のベンチで中学生が呑気にアイスを齧っていた。中学生は二人組で、その一方が氷の溶けた汁を口の端から垂らし、もう一人がぎょっとしてその口を指さした。
「今日は土曜なのにめずらしいね。制服を着ている」
秋子の気をひこうとして、夏樹はまたそんなことをいった。
「ほんとう。なんでだろう」
秋子は疑問符の抑揚のない、乾燥した声で相槌した。夏樹は経験から、熱のない返事にはやくも観念して、
「あ、そうか、部活帰りなんだろう。制服で帰るってことは剣道とか柔道とか、そこらへんかもしれない」
と完結したつぶやきを早口でいった。それは事実上の敗走だったが、抵抗をすればするほど彼の擦り傷は増えてしまうのだった。
夏樹はしばしば秋子の姉好きに困ることがあった。いや困るほどではないが、どこか息苦しい、鼻づまりのようなものがこの姉妹の親愛だった。
秋子は、恋人よりも姉が大事だった。しかしそれは夏樹も似たようなもので、自分の研究やサークルのほうが秋子より大事である。けれども恋人といるときにそのことで考えがいっぱいになるほどではない。夏樹の研究が大事というのは、あくまで秤で量ったらということで、秋子のような明らかなウエイト差、次元の上下はなかった。秋子のもつ姉への過剰な親愛が、ときおり透明な綿糸になって恋人の身体にまきついた。
だからといって、「君の姉にたいする愛情は異常だ」とは夏樹はいえない。彼にとって秋子ははじめての恋人だったから、その距離は潮の満ち引きのように曖昧な境目をしていた。付き合って一年も経つというのに、ふたりはキスも一度しかしていない。
恋人だけでない。夏樹は上京してからあまりにも沢山のことを経験した。地下鉄、雑踏、パソコンの細々とした機能……。彼の経験は目まぐるしく、しかし質量をもったかたちで、油絵の具のように重なっていった。いまや夏樹の高校までの、徳之島の生活が彼の表面にあらわれることはあるだろうか。鋭く研磨された彫刻刀で、いまある表面をすべて削ればいいのだろうか。
夏樹は手提げかばんからメモ帳を取り出した。いまだデジタルに慣れない彼は、サークルの活動報告もまずは紙に下書きをしてからワードに写した。手元にある愛用のメモ帳は、去年のいまごろに秋子からプレゼントされたもので、茶色の牛革に金色の刺繍がついている。といってもこれも、雪子のお薦めらしいが。
頻繁にバスが揺れ、さすがの夏樹もメモが安定しなかった。夏樹はまたメモをもどし、秋子とは逆の窓を眺める美玖に、「さっきの話だけどさ」なんて前置きをして、
「ボランティアだか何だか色々やっていても、けっきょく君らのピアノが一等受けがいいんだ。いや、受けがいいというと商売じみてるけど、僕らは所詮学生のボランティアサークルでしかなくてさ、根本的に世界をどうこうっていうのはどだい困難なんだけど、しかしこういう困っている人たちを……いや老人ホームの人たちが困っているとは限らないんだけどさ……ともかく人を感動させたりするのが僕らに出来る上等なボランティアなんだと思うんだ。そういう意味で、美玖さんたちのピアノはやっぱりいいんだよ」
とくすぐったい講釈を聞かせた。美玖は健気に話にのって、なにかと気の利いた相槌を返した。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
黒蜜先生のヤバい秘密
月狂 紫乃/月狂 四郎
ライト文芸
高校生の須藤語(すとう かたる)がいるクラスで、新任の教師が担当に就いた。新しい担任の名前は黒蜜凛(くろみつ りん)。アイドル並みの美貌を持つ彼女は、あっという間にクラスの人気者となる。
須藤はそんな黒蜜先生に小説を書いていることがバレてしまう。リアルの世界でファン第1号となった黒蜜先生。須藤は先生でありファンでもある彼女と、小説を介して良い関係を築きつつあった。
だが、その裏側で黒蜜先生の人気をよく思わない女子たちが、陰湿な嫌がらせをやりはじめる。解決策を模索する過程で、須藤は黒蜜先生のヤバい過去を知ることになる……。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
貧乏男爵家の末っ子が眠り姫になるまでとその後
空月
恋愛
貧乏男爵家の末っ子・アルティアの婚約者は、何故か公爵家嫡男で非の打ち所のない男・キースである。
魔術学院の二年生に進学して少し経った頃、「君と俺とでは釣り合わないと思わないか」と言われる。
そのときは曖昧な笑みで流したアルティアだったが、その数日後、倒れて眠ったままの状態になってしまう。
すると、キースの態度が豹変して……?
粗暴で優しい幼馴染彼氏はおっとり系彼女を好きすぎる
春音優月
恋愛
おっとりふわふわ大学生の一色のどかは、中学生の時から付き合っている幼馴染彼氏の黒瀬逸希と同棲中。態度や口は荒っぽい逸希だけど、のどかへの愛は大きすぎるほど。
幸せいっぱいなはずなのに、逸希から一度も「好き」と言われてないことに気がついてしまって……?
幼馴染大学生の糖度高めなショートストーリー。
2024.03.06
イラスト:雪緒さま
熱血豪傑ビッグバンダー!
ハリエンジュ
SF
時は地球人の宇宙進出が当たり前になった、今より遥か遠い未来。
舞台は第二の地球として人類が住みやすいように改良を加え、文明が発展した惑星『セカンドアース』。
しかし、二十数年前の最高権力者の暗殺をきっかけに、セカンドアースは地区間の争いが絶えず治安は絶望的なものとなっていました。
さらに、外界からの謎の侵略生物『アンノウン』の襲撃も始まって、セカンドアースは現在未曽有の危機に。
そこで政府は、セカンドアース内のカースト制度を明確にする為に、さらにはアンノウンに対抗する為に、アンノウン討伐も兼ねた人型ロボット『ビッグバンダー』を用いた代理戦争『バトル・ロボイヤル』を提案。
各地区から一人選出された代表パイロット『ファイター』が、機体整備や医療、ファイターのメンタルケア、身の回りの世話などの仕事を担う『サポーター』とペアを組んで共に参戦。
ファイターはビッグバンダーに搭乗し、ビッグバンダー同士で戦い、最後に勝ち残ったビッグバンダーを擁する地区がセカンドアースの全ての権力を握る、と言ったルールの下、それぞれの地区は戦うことになりました。
主人公・バッカス=リュボフはスラム街の比率が多い荒れた第13地区の代表ファイターである29歳メタボ体型の陽気で大らかなドルオタ青年。
『宇宙中の人が好きなだけ美味しいごはんを食べられる世界を作ること』を夢見るバッカスは幼馴染のシーメールなサポーター・ピアス=トゥインクルと共に、ファイター・サポーターが集まる『カーバンクル寮』での生活を通し、様々なライバルとの出会いを経験しながら、美味しいごはんを沢山食べたり推してるアイドルに夢中になったりしつつ、戦いに身を投じていくのでした。
『熱血豪傑ビッグバンダー!』はファイターとサポーターの絆を描いたゆるふわ熱血ロボットSF(すこしふぁんたじー)アクション恋愛ドラマです。
※この作品は「小説家になろう」でも公開しております。
僕は君を思うと吐き気がする
月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。
プラトニック添い寝フレンド
天野アンジェラ
ライト文芸
※8/25(金)完結しました※
※交互視点で話が進みます。スタートは理雄、次が伊月です※
恋愛にすっかり嫌気がさし、今はボーイズグループの推し活が趣味の鈴鹿伊月(すずか・いつき)、34歳。
伊月の職場の先輩で、若い頃の離婚経験から恋愛を避けて生きてきた大宮理雄(おおみや・りおう)41歳。
ある日二人で飲んでいたら、伊月が「ソフレがほしい」と言い出し、それにうっかり同調してしまった理雄は伊月のソフレになる羽目に。
先行きに不安を感じつつもとりあえずソフレ関係を始めてみるが――?
(表紙イラスト:カザキ様)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる