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第一章 5月6月
三波優香との出あい
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「とにかく、ものすごくたのしいんだよ!」
三波優香は、そこで声を張り上げたのだ。心底楽しげに。
へえ、と紀美はあまり気乗りしない返事とともに、コーヒーカップを取り上げる。
中はすでに空だった。
優香のカップも空なのはとっくに分っていたが、お代わりどう? と訊くのも、もう面倒になっている。
優香が
「キサラギさーん、ねえ今寄っていい? ちょっとだけー」
とふらりと紀美の家に来てから、すでに二時間以上が経過している。
三波優香は、紀美の娘がここの鴨池第一小学校に転入して、まず最初にできた友だち・三波ハルカの母親だった。
そして彼女がここに入り浸るようになるまでは、あっという間のことだった。
きっかけは、五月下旬のある日。
一人娘のルイを待って、下校の三十分前、紀美はすでに昇降口の前でそわそわと立ち待ちしていた。
梅雨に入ったばかりだというのに、幸いにも晴れの日が続いていた。
雨ならば車で送迎も考えていたが、紀美は家から歩いてきたのだった。
家は子どもの足で歩いても十分ほどだし、住宅と田畑に囲まれたのどかな道のりだし、引っ越してきたばかりだと言っても本当ならばひとりで帰ってこられるはずだ。
それでも、帰り道を一緒に歩きたかった。
登校初日から、いじめられたりしていないだろうか、とにかくそれが心配だ。
担任の先生はベテランの女性教師だという話だったが、五月中旬、転入前の初対面時には、どことなく固い感じにみえた。
ようやく新年度からの新クラスが落ち着いてきたところに、わざわざ転入してきてまたかき回してくれるのですか、とでも言いたげに小鼻を膨らませ、あごを心持ち上向きにしていたのも、冷たい雰囲気だった。
両者の緊張が伝わっていたのか、ルイも少しも笑顔を見せようとしなかった。
元々ハキハキと笑って話すタイプではない。そんなルイが、可愛げがないと思われて彼女から何かいじわるなことを言われたりしていないだろうか、給食はちゃんと食べられただろうか。気になりだすとキリがない。
早く子どもに会って、きょう一日のできごとを逐一、訊きただしたい。
紀美は何度も細かく姿勢を変えながら、靴箱の前に立ち続ける。
永遠とも思える時間の果てに、おそるおそる首をのばし、暗い廊下をのぞいてみた。
給食のものか、パンから発したらしきちょっぴり甘酸っぱい匂いと、靴箱独特の湿った匂いとが混ざり合い、小学校の昇降口はどこか懐かしい、胸の痛くなるような空気に包まれている。
と、急に奥まったあたりが騒がしくなった。
小学一年の子どもらだろう、文字通りわあーっと歓声をあげて教室から飛び出してくる、そんな中にまぎれ、ルイが頬を赤く染めて、暗がりから急に明るく日の射す昇降口に姿をみせた。
ルイは後ろ手で、誰かと手をつないでいた。
「あのねぇ、ママ」
いたの? でもなく、ただいま、でもなく、ルイはこう続けた。
「おともだちできたの。ミナミ・ハルカちゃん」
ルイの背後から、ふわふわの茶色い髪をなびかせ、可愛い笑顔がちょこんとのぞいた。
「こんにちは」
明るい声であいさつするようすが、とても感じよかった。前歯がひとつ、欠けているのもいかにも幼い子どもらしかった。
「ねえハルカちゃんといっしょに帰ってもいい? おうち、すぐ近くなんだ」
とまどいながらもつい、紀美は、ふたりの笑顔につられてうなずいてしまった。
「じゃあねー、ママ、またあとでね」
軽く手をふって、ルイはさっと紀美を追い越し、新しい友だちと手をつないで小走りに正門から出て行った。
初めてハルカの母に会ったのはその数日後。
家も近所だし、一度ちゃんとあいさつを、と思って、紀美は手作りのパウンドケーキを持ってさっそく訪ねていった。
ハルカちゃんのママは、いつもおうちにいるんだって、そうルイから聞いていたのだが、はたして彼女は在宅中だった。
三波家は、如月家と同じ分譲地の一画に位置する。
やはり数年前に引っ越してきたのだと聞いていた。家のつくりも規模も、如月家と似たりよったりだ。
ただ置いてある赤い軽自動車は、紀美の五年ものの白い軽ワゴンよりもずいぶん奇麗で、新しそうだ。
「パウンドケーキ、大好きなんですぅ、わぁありがとう。ルイちゃんのママ、器用ですねぇ」
家の玄関外にぴょこんと飛び出してきた優香は、自分より少し若そうで、笑顔も感じがいい。
しかし、敬語はその日限りだった。
翌日、突然何の前触れもなく訪ねてきた三波優香の第一声は、
「今、いい?」
だった。
引っ越してきたばかりでこの土地に知り合いの一人もいなかったということもあって、紀美はほぼ刷り込みに近い状態で、優香を玄関から招き入れていた。
一ヶ月もしないうちに、週一~二日程度、彼女が訪ねて来るようになっていた。
そして、一度家に上げると、なかなか帰ろうとしなかった……今日のように。
それでも、優香と付き合うのが特別嫌だというわけではない。
とにかく明るくて、次から次へといろんな話題が飛び出してくる。学校のことについても、面白おかしく話してくれるのだが、安心できることに、他人の悪口はほとんど出て来なかった。
それにほめ上手で、紀美が手掛けているガーデニングや部屋のインテリアについても
「センスいいわー」
といつも肯定的なコメントをしてくれる。
それでも、たまには三波家に行こうか、とさりげなく提案したこともあった。しかしなぜか優香はそれにはあやふやな受け答えしかせず、結局いつも、優香の方が紀美を訪ねてくることになった。
紀美の方は業者が訪ねてくることも多いし、ルイの下校が早い時にはできるだけ家にいてやりたかったし何かと便利なことも多いので、特に彼女の訪問をこばむこともないのだが。
それでも、日が経つにつれて胸のモヤモヤは大きくなるばかりだった。
三波優香は、そこで声を張り上げたのだ。心底楽しげに。
へえ、と紀美はあまり気乗りしない返事とともに、コーヒーカップを取り上げる。
中はすでに空だった。
優香のカップも空なのはとっくに分っていたが、お代わりどう? と訊くのも、もう面倒になっている。
優香が
「キサラギさーん、ねえ今寄っていい? ちょっとだけー」
とふらりと紀美の家に来てから、すでに二時間以上が経過している。
三波優香は、紀美の娘がここの鴨池第一小学校に転入して、まず最初にできた友だち・三波ハルカの母親だった。
そして彼女がここに入り浸るようになるまでは、あっという間のことだった。
きっかけは、五月下旬のある日。
一人娘のルイを待って、下校の三十分前、紀美はすでに昇降口の前でそわそわと立ち待ちしていた。
梅雨に入ったばかりだというのに、幸いにも晴れの日が続いていた。
雨ならば車で送迎も考えていたが、紀美は家から歩いてきたのだった。
家は子どもの足で歩いても十分ほどだし、住宅と田畑に囲まれたのどかな道のりだし、引っ越してきたばかりだと言っても本当ならばひとりで帰ってこられるはずだ。
それでも、帰り道を一緒に歩きたかった。
登校初日から、いじめられたりしていないだろうか、とにかくそれが心配だ。
担任の先生はベテランの女性教師だという話だったが、五月中旬、転入前の初対面時には、どことなく固い感じにみえた。
ようやく新年度からの新クラスが落ち着いてきたところに、わざわざ転入してきてまたかき回してくれるのですか、とでも言いたげに小鼻を膨らませ、あごを心持ち上向きにしていたのも、冷たい雰囲気だった。
両者の緊張が伝わっていたのか、ルイも少しも笑顔を見せようとしなかった。
元々ハキハキと笑って話すタイプではない。そんなルイが、可愛げがないと思われて彼女から何かいじわるなことを言われたりしていないだろうか、給食はちゃんと食べられただろうか。気になりだすとキリがない。
早く子どもに会って、きょう一日のできごとを逐一、訊きただしたい。
紀美は何度も細かく姿勢を変えながら、靴箱の前に立ち続ける。
永遠とも思える時間の果てに、おそるおそる首をのばし、暗い廊下をのぞいてみた。
給食のものか、パンから発したらしきちょっぴり甘酸っぱい匂いと、靴箱独特の湿った匂いとが混ざり合い、小学校の昇降口はどこか懐かしい、胸の痛くなるような空気に包まれている。
と、急に奥まったあたりが騒がしくなった。
小学一年の子どもらだろう、文字通りわあーっと歓声をあげて教室から飛び出してくる、そんな中にまぎれ、ルイが頬を赤く染めて、暗がりから急に明るく日の射す昇降口に姿をみせた。
ルイは後ろ手で、誰かと手をつないでいた。
「あのねぇ、ママ」
いたの? でもなく、ただいま、でもなく、ルイはこう続けた。
「おともだちできたの。ミナミ・ハルカちゃん」
ルイの背後から、ふわふわの茶色い髪をなびかせ、可愛い笑顔がちょこんとのぞいた。
「こんにちは」
明るい声であいさつするようすが、とても感じよかった。前歯がひとつ、欠けているのもいかにも幼い子どもらしかった。
「ねえハルカちゃんといっしょに帰ってもいい? おうち、すぐ近くなんだ」
とまどいながらもつい、紀美は、ふたりの笑顔につられてうなずいてしまった。
「じゃあねー、ママ、またあとでね」
軽く手をふって、ルイはさっと紀美を追い越し、新しい友だちと手をつないで小走りに正門から出て行った。
初めてハルカの母に会ったのはその数日後。
家も近所だし、一度ちゃんとあいさつを、と思って、紀美は手作りのパウンドケーキを持ってさっそく訪ねていった。
ハルカちゃんのママは、いつもおうちにいるんだって、そうルイから聞いていたのだが、はたして彼女は在宅中だった。
三波家は、如月家と同じ分譲地の一画に位置する。
やはり数年前に引っ越してきたのだと聞いていた。家のつくりも規模も、如月家と似たりよったりだ。
ただ置いてある赤い軽自動車は、紀美の五年ものの白い軽ワゴンよりもずいぶん奇麗で、新しそうだ。
「パウンドケーキ、大好きなんですぅ、わぁありがとう。ルイちゃんのママ、器用ですねぇ」
家の玄関外にぴょこんと飛び出してきた優香は、自分より少し若そうで、笑顔も感じがいい。
しかし、敬語はその日限りだった。
翌日、突然何の前触れもなく訪ねてきた三波優香の第一声は、
「今、いい?」
だった。
引っ越してきたばかりでこの土地に知り合いの一人もいなかったということもあって、紀美はほぼ刷り込みに近い状態で、優香を玄関から招き入れていた。
一ヶ月もしないうちに、週一~二日程度、彼女が訪ねて来るようになっていた。
そして、一度家に上げると、なかなか帰ろうとしなかった……今日のように。
それでも、優香と付き合うのが特別嫌だというわけではない。
とにかく明るくて、次から次へといろんな話題が飛び出してくる。学校のことについても、面白おかしく話してくれるのだが、安心できることに、他人の悪口はほとんど出て来なかった。
それにほめ上手で、紀美が手掛けているガーデニングや部屋のインテリアについても
「センスいいわー」
といつも肯定的なコメントをしてくれる。
それでも、たまには三波家に行こうか、とさりげなく提案したこともあった。しかしなぜか優香はそれにはあやふやな受け答えしかせず、結局いつも、優香の方が紀美を訪ねてくることになった。
紀美の方は業者が訪ねてくることも多いし、ルイの下校が早い時にはできるだけ家にいてやりたかったし何かと便利なことも多いので、特に彼女の訪問をこばむこともないのだが。
それでも、日が経つにつれて胸のモヤモヤは大きくなるばかりだった。
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