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十七章 ノワール貴族

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「~リア!犬カバ!!」

ミーシャの声がした。

それに慌てた様に「お待ち下さい!!」と制止しようとするジュードの声も。

俺の目の端に、こちらに駆け寄り腰に下げた剣の柄に手をかけるミーシャの姿と、リュートを降ろし、すぐにミーシャの後を追おうとするジュードの姿が見えた。

だが、どれもこれも間に合わねぇ。

何の解決にもならねぇと分かってんのに、俺は尻餅ついたまま一つも動けず、ただ犬カバをギュッと抱いて守る事しか出来なかった。

男の手が、俺の腕に伸びる。

ヤベェ、犬カバを奪われる……!!

思わずギュッと目を瞑った──その時。

ザッと俺のすぐ横に、大きな一つの足音が鳴った。

反射的に目を細めてそいつを見る中、その背の高い男はグイッと俺の方へ伸ばされた男の腕を捻り上げ、そのまま横倒しに男を地面に組み伏せさせる。

「ぐあぁっ……!」

男が俺の目の前で組み伏せられたまま苦しげにもがき、声を上げる。

俺と、俺の腕の中にいる犬カバが思わず目を丸くしてその光景を見つめる中──俺を助けた男は、

「~リアさん、怪我は!?」

珍しく焦った様子で問いかけてくる。

──レイジスだった。

俺はその姿を目の前に、意味もなく二、三度目を瞬いてから、

「だ……大丈夫、です」

言ってみせる。

もしかしたら地声だったかもしんねぇが……俺自身にもよく分からなかった。

ただただ呆けて犬カバと二人、目の前の光景をぽかんとして見る。

「離せぇぇっ!!
聖獣を──血を……血をぉぉぉ!!」

まるで断末魔の叫びくれぇな声量で男が声を上げ、捻り上げられていない方の手を俺の方へ──犬カバの方へ伸ばす。

血管がくっきりと浮かび上がった手が、大きくブレて震えている。

その、あんまりにも必死な男の様子に……ひどく胸が痛んだ。

──……もう、いいじゃねぇか。

あんたはもう、十分すぎる程娘の為に尽くしたじゃねぇか。

これ以上は、もう……。

男を地面に組み伏したレイジスが厳しい面持ちでその動きを封じようとするが、完全にはいかねぇ。

それほど強い力で、犬カバに手を伸ばしている。

「~リア!犬カバ!」

ミーシャが心配そうな面持ちで俺の側へ駆け寄る。

そうして──俺と犬カバの視線の先に気づいたんだろう、憐む様な辛そうな目を男へ向ける。

一瞬遅れで辿り着いたジュードがレイジスに手を貸し、男の首を地面に押し当て、そのまま背に馬乗りになって動きを封じる。

それが──終焉だった。

男の手が、震えながら地面に落ちる。

後に残ったのは「うっ、うっ、うっ……」という何とも憐れな嗚咽だけだ。

エレナ……と男が泣きながら声を漏らす。

たぶん……娘の名前、なんだろう。

もう到底動けやしねぇのは、誰の目にも明らかだった。

ジュードがレイジスに一つ頷くと……レイジスがゆっくりと男から手と身を剥がす。

もう、そんな必要があんのかどうかすら分からなかったが、ジュードがレイジスの代わりに一層キッチリと男の動きを固め、地面に伏せさせて、それで……男は完全に力を失くしちまった。

泣いて──泣いて、泣いて。

その姿を見てると、胸が締めつけられそうになる。

「……リア、犬カバ、怪我はない?」

ミーシャが気遣う様に声をかけ、手を差し伸べてくれる。

図らずも、聞いてきた言葉がさっきのレイジスと一緒だ。

俺は遠慮なくその手を取って──瞬間ジュードがギロッとした目で俺を睨むのが分かったが、んなもんは無視だ──立ち上がる。

うっうっうっ、という嗚咽が続いている。

俺が気にしてんのに、ミーシャも気付いてんだろう、ちら、と痛ましげな視線を男へ向けた。

俺の腕の中の犬カバがしょぼんと頭を垂れる。

俺はしばらく男の方を見つめて……そーしてそっと、腕の中の犬カバをミーシャに託した。

「……リア?」

「クヒ?」

ミーシャと犬カバが問いかけてくるのには答えず、俺は男の頭のすぐ前まで来て、そのまま腰を落とす。

「~リアさん……」

レイジスが慌てた様に声をかけてくるが、俺は首を横に振ってそれに応えた。

男に馬乗りになったまま動きを制しているジュードが俺を見る。

俺は──……ただ男の方だけに集中した。

「──ノワールの貴族さん、」

他にどう呼びかけていいのか分からず、そう呼びかける。

男は何にも反応しねぇ。

俺の声なんかこれっぽっちも聞こえちゃいねぇみてぇに、ただただ泣いて嗚咽を漏らしている。

俺は苦い気持ちで──『リア』の口調で先を続ける。

その方が届く声がある。

そんな気がしたからだ。

「──私は……私も、ずっと昔に、大切な人を亡くしました。
その人はあなたのお子さんほどではないにしろ、死ぬには若過ぎたし、本当ならもっと長生きをして──何もなければ、今だって生きていたはずで……。
そんな歳で、死んでしまいました。
だから、そんな人がこんなに早く逝ってしまうなんておかしい、嫌だ、と思う気持ちは、私にも分かります。
もう一度会えたら……生きていたら、声を聞けたらと、思う気持ちも……。
もし生き返らせる術があるのならと、考えてしまう気持ちも……正直に言えば、分からない事もない」

「……リア……」

ミーシャが小さく口にする。

その声に悲しそうな響きがある事も、その腕に抱いた犬カバがしょげた様子なのにも気づいていたが……俺は目を伏せて「だけど、」と男に語りかける。

「……だけど、他の者の命で自分の大切な人の命を生き返らせるなんて、そんな事は間違ってる。
ましてやあなたの娘さんは動物が大好きだったんでしょう?
重い病に冒された娘さんに、あなたはわざわざ見世物屋さんを自宅に呼んで、大好きな動物を見させてあげたくらい。
その娘さんの大好きな動物を殺して、それでもし、娘さんが生き返る事があったとしても……。
娘さんは、本当にそれで喜ぶのでしょうか?
娘さんの遺体を保存して眠らせて……。
どうして生き返らせたいと望むのは、娘さんの為ではなく、あなたの為なのではないですか?
娘さんがいない生活は、自分を辛くて惨めな気持ちにさせるから……」

言いかけた──ところで。

男の手指が ざり、とわずかに土を掻く。

そこに力はなかったし、俺の言葉に反応したものだったのか、それとも単に体が反射的に動いただけだったのか──それは分からねぇ。

分からねぇが、俺は──息をつく様に静かに最後の言葉を口にする。

「……もう、許してあげて下さい。
娘さんを、安らかに眠らせてあげて。
娘さんの為にも……あなた自身のためにも……」

男は──何も言わねぇ。

たださっきまでと同じ様に肩を震わせ、咽び泣くだけだ。

俺の声は──届かなかったのかも知れなかった。

「うぉ~い!!無事か!?」

「リアさん、大丈夫か!?」

無事にリュートを保護出来たからだろう、丘の下からようやく冒険者達が駆けつけて来て、まず初めに俺の無事を確認し、そうしてようやくジュードと──そいつに取り押さえられている男の姿を見る。

そーして──皆一様に、眉を潜めた。

ぼろぼろの衣服に、骸骨の様に痩せ細った姿。

取り押さえられる姿には、欠片も力が残っちゃいねぇ。

『これがリュートを拐った犯人か?』

『よくこんな状態で人質事件なんか起こしたもんだ』

そう、冒険者達の顔に書いてある。

ジュードがやってきた冒険者達に男の身柄を預けると、冒険者がきゅっと表情を引き締め二人体制で男を立たせ、引っ立てていく。

薄暗い月明かりの元、男が力なくうな垂れたまま俺のすぐ目の前を──そして犬カバを抱くミーシャの前を通っていく。

男が目の前を通る瞬間、ミーシャはきゅっと犬カバを強く抱いて警戒したみてぇだったが……男にはその犬カバの姿さえももう目に入っちゃいねぇみてぇだった。
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