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十七章 ノワール貴族

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はぁ、はぁとその人物は苦しげに息をし、壁に手をついて体を支え、辛うじてその場に立っていた。

呼吸が荒い。

顔色はそこぶる悪い。

体を支える為についた手は、骨が浮き出るほど貧相で、まるで枯れ枝に古布を張った様な状態だった。

元は上等であったのだろう服や上着はあちこちが汚れきり、裾がほつれ、破けてしまっている。

目は落ち窪み、クマが酷い。

以前は栗毛だった髪色は、度重なる疲労の為か、いつの間にか全て白髪に染まってしまっていた。

実際の彼の年齢は三十代の半程だったのだが……今のこの姿を見れば、一瞬老人と見間違う者も多いだろう。

それほどに彼はやつれ切ってしまっていた。

通りを行く人々がどこか不安なものを見る様な目で彼をちら見し、足早に先を抜けてゆく。

彼の行く道の先にはトルスからエスティリアへ抜ける為の国境があり、関所がある。

彼はあるたった一人の人物を追って、ノワールからトルスへ、そしてトルスからエスティリアという国まで、死に物狂いで旅をしてきたのだが……。

「申し訳ないが、現在その旅券状ではこの関所は通せない。
ここを通りたいのであれば、再度ノワール国かトルスで新たな旅券状を発行していただく必要がある」

関所に詰める国境警備の男にそう言われ、彼は道を失くしてしまったのだった。

他の関所と同じ様に、ここにも以前はノワールの息のかかった警備隊がいたはずで、彼がここで足止めを食らう道理など本来なかったはずなのだが……。

「ほら、例の──南部の街で起こったとかいう山賊の誘拐事件。
誘拐された人達が、海外へ捌かれたんじゃって噂があったろ?
この頃旅券改めが厳しくなったのはきっとその影響だよ。
国境警備隊が誘拐事件に加担してるなんて噂が立っちゃあ、旅券改めだって厳しくせざるを得ないだろう」

彼の横を通り抜けて行く男の一人が、ボソボソと小声で隣の男に話すのが聞こえた。

──あの、忌まわしい山賊共。

彼は呪いをかける様な気持ちで、そう胸の中でそう呟く。

あの山賊共の騒ぎに紛れて、彼が追っていた人物は姿を眩ませてしまった。

後に自身が構えていた見世物の店を捨てエスティリアへ抜けたのだと知れたが、一足遅かった。

彼はその人物を──見世物屋の店主を、ずっと長い事追っていた。

いや、本当に追っていたのは見世物屋の店主などという小者ではなく──

──飛翔獣。

いかにも間抜けな姿形をした、あのピンクの毛並みの、犬の様な生き物。

ノワールでは聖獣だと言われている、ある伝承を持った生き物だ。

その生き血を最後まで飲み干せば、その者は不老不死の力を得るのだと言う。

生きている者に不老不死の力を与えられるのならば、死んだ者に与えれば不死とまではいかずとも蘇らせる事くらいは出来るはずだ。

彼が調べた伝承の中には、実際その様な奇跡が起きたという話もある。

──伝承を、真実にしてみせる。

かわいい我が子を、蘇らせてみせる。

その為ならばどんな苦労も厭わない。

彼は落ち窪んだ目にギラリと光る強い色を宿して、再び顔を上げる。

──ここでこうしていても仕方があるまい。

あの見世物屋がエスティリアへ渡ったというのなら、こちらも取れる手段を取ってエスティリアへ向かうまでだ。

力が入らず震える手をようやく壁から離し、この場を後にする。

国境警備が新たな旅券状をというのであれば、さっさと準備をして出直す方が早い。

彼が一歩、二歩と地面に足をつきその場を離れかけた──ところで。

「南部の街で食べたカフェのパンケーキ、すごく美味しかったよねぇ」

「ああ。
さすが今話題のカフェって感じだよな。
店の雰囲気も良かったし」

彼の丁度目の前を通って、ある二人の男女が楽しそうに話すのが聞こえる。

旅行者のカップルだろうか。

どうやらトルスでの観光を終えてエスティリアへ帰る所の様だ。

どちらにしろ彼には何の関係もない。

彼はそのまま歩を進めかけたのだったが──

「そういえばあのカフェで子供と遊んでた犬、おっかしな犬だったよね。
黒毛にピンクのまだら模様の」

「ああ。
なんかピンクのペンキかぶったとか言ってたよな。
けど子供の服にはさー、黒いペンキ?みてぇのがついちまってたんだよな~。
あれほんとはピンクのペンキじゃなくて黒のペンキかぶっちまった犬なんじゃねぇかなぁ。
それにしても……。
あの飼い主らしい金髪の女の子、すっげぇ可愛かったなぁ……」

「……はぁ?」

男の言葉に女がほんのちょっとの険を込めて問い返すのに、男が慌てた様に「いっ、いや!お前の方が断然可愛いけど~!」などと話している。

彼は──はたと立ち止まってその男女のカップルを振り返った。

そうして──彼らを呼び止める。

神が私に彼らを引き会わせたのかもしれない。

私の娘を、哀れに思って。

そんな事を思いながら──。

◆◆◆◆◆

俺はぼんやりとしたまま地面の上に立って、飛行船の側面に手を触れ、考え事をしていた。

いつも通りきっちり整備も終えた事だし、普段の俺ならきっと「試験飛行だ!」な~んて言って颯爽とまたこいつを空に飛ばすとこなんだが……。

今はどうもそういう気になれなかった。

犬カバを追ってるっていうノワール貴族の事や、ジュードの事。

それに、飛行船をサランディール奪還の為に使わせて欲しいっていう、レイジスへの返事をどうするか。

んな事を考えてたら、何だか飛行船を飛ばすどころじゃなくなっちまった。

俺はふぅ、と息をついて、

「……レイジスへの答え、どーしたもんかな?」

誰にともなく一人、ぽつりと呟く。

誰もいねぇんだから、答えが返ってくる訳じゃねぇ。

んな事はもちろん分かっちゃいるんだが……。

俺は軽く頭を振って肩をすくめ、飛行船に手をついたままそのままそこに立ち尽くしたのだった──。

◆◆◆◆◆

それから数日は、俺やミーシャの周りは至って静かで平和だった。

遠慮してくれてんのか単に何かで忙しいからなのか、あれ以来レイジスもジュードもヘイデンの屋敷には一度も顔を出してねぇ。

まぁ、そう何度も出入りしてたら周りに怪しまれちまうってぇのもあるんだろうが、正直俺にとってはありがたかった。

飛行船の事──……レイジスへの答えをどうするのかを、俺はまだ決めかねていたからだ。

そりゃあもちろん、俺の取れる『最善の答え』は、その道筋はハッキリ分かってる。

『レイジスに協力し、サランディール奪還の手助けをする事』

レイジスはもちろんミーシャやサランディールで元宰相──セルジオ、とか言ったか?──の圧政に苦しむ連中の助けにもなるし、サランディールが平和になれば、いざとなりゃあ犬カバをノワールの手から隠させてもらう事だって出来るかもしれねぇ。

だけど──……。

そうだって分かっちゃいても、俺は今、レイジスにそう答えられる自信はなかった。

俺は静かに息を吐いてそっと肩を下ろす。
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