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序章
ミーシャ
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ワーッ、と耳鳴りがひどい。
彼女は肩で激しく息をしたまま、クローゼットの中の服の間に埋もれるようにしゃがんで隠れていた。
閉じたクローゼットの外では恐ろしいほどの喧騒と怒号、悲鳴が響いている。
──一体、この城内で何が起きているのだろう?
ガタガタと、身体中が震えている。
いつもは侍女がきれいに結わえてくれている長い黒髪はそのまま肩に流れ、ゆったりとした寝巻きからのぞく細い腕や足はひどく頼りない。
先程から、歯の根も合わない。
「──まだ第二王子と王女がいるはずだ!
逃がすな!確実に捕らえて始末しろ!!」
ガシャガシャと鎧と鎧が激しくぶつかり合う音と共に怒鳴り声が響いてくる。
彼女は、ますます動悸がひどくなるのを感じた。
クローゼットの扉の隙間から、ちらちらと赤い光が見えだした。
炎だろうか。
そういえばどこか焦げ臭い。
父王は、母は──…そして二人の兄たちは、一体どうしただろう?
真夜中の突然の襲撃に、ひとまずこのクローゼットの中へ隠れてしまったが、見つかるのは時間の問題だろう。
それとも徐々に温度を上げ、迫っているらしい炎に巻かれて死ぬ方が先か。
息を潜めたいのに、肺がいうことを聞かない。
──誰か……
願い、目をつぶった、瞬間に。
ガッと乱暴にクローゼットの扉が開け放たれた。
そして、腕を掴まれ乱暴に引っ張り出される。
「きゃあっ…!」
半ばパニックになりかけ、声をあげた彼女に。
「ミーシャ姫、私です」
冷静な、けれど緊迫した声がかけられる。
よく知った、頼りがいのある男だった。
長兄の身辺を守る騎士、ジュードだ。
ミーシャはその事に気づき、「ジュード…」と息をつきながら答えた。
騎士、ジュードがいう。
「ご無事でしたか。
アルフォンソ様の命により、お助けに上がりました」
アルフォンソというのは、長兄の名だ。
ミーシャはぞくりと背筋に凍りつくようなものを感じた。
どうしてこの非常時に、ジュードは主を──…アルフォンソを放ってここへ来たのだろう。
「──兄上は…?」
心許なく問いかけた先でジュードの眉がピクリと動いた。
それが答えのようなものだった。
ジュードはまっすぐミーシャを見、いう。
「話は後です。
とにかく今は、ここを無事に抜けることだけ考えましょう。
私についてきてください。抜け道からあなたを外へ逃がします」
有無を言わせぬ口調で言って、ジュードがミーシャの手を引いて部屋を出る。
部屋の外は──まさに地獄だった。
壁、床に広がる血、血、血。
倒れた兵士、落ちた剣、それらが踏み荒らされ、血の赤と泥の黒に染まっている。
廊下の向こうには、迫り来る炎が見えた。
思わず立ちすくんだミーシャの手を力強く引いて、ジュードが炎とは反対方向へ走り出す。
ミーシャはこけそうになりながらそれに従い、走った。
どこをどう進んだのか、生まれてからずっと、15年も住んでいた城なのに分からない。
気がつくとジュードが廊下の一角にある壁の下部を蹴りつけ、小さな扉を押し上げていた。
扉の向こうには、真っ暗闇の中下へ下へと階段が続いているのが見える。
「さあ、早く」
ジュードがミーシャの背を押し、中へ急ぐよう指示する。
扉は、小柄なミーシャが小さくかがんで入るのがやっとという大きさだ。
中へ入ってしまえば天井は高く、横幅も広くなるが、体格のいいジュードはとても入れない。
「いたぞ!あそこだ!」
廊下の向こうから声が上がるのが分かる。
ミーシャは扉の外に未だ立つジュードへ声をあげた。
「~ジュード!」
「ミーシャ姫、これを」
言って、ジュードが何かをこちらへ放る。
──ジュードが予備に腰に下げていた、剣だった。
「ジュ…」
「いつか兄君たちと同じように剣の鍛練をしたいとおっしゃってましたね。
お教えすることは叶いませんでしたが、あなたにそれを。
その剣があなたの身を守ってくれることを祈っています。
──どうかご無事で」
「ジュー…」
ジュード、という叫びは、彼自身の耳に届いたかどうか。
ズドドドド、と素早く音を立て、扉が下へ落ちて閉まる。
残ったのは先程までが嘘だったかのような静寂と、暗闇。
ミーシャは…ただただ剣を懐に抱え込んで、その場に立ち尽くしたのだった──。
◆◆◆◆◆
どれだけの間そこでそうしていただろう。
ミーシャは、ジュードの剣を抱いたまま階段に座り込み、ただただじっとしていた。
ジュードは、来ない。
外の音も、何も聞こえない。
暗闇には目が慣れたが…それだけだった。
父や母、二人の兄、そして、ジュードの生存さえ定かではない。
──一体、何が起こったの……?
内乱だったのか、それとも敵国が攻めてきたのか?
ミーシャには分からなかった。
ここでじっとしていても、仕方がないことも分かっている。
けれど、どうしてもこの場を離れたい気がしなかった。
怖かったのだ。
それまでの全てを切り捨てて──見捨てて、それでもどこへ行くというあてもなく、未来さえも見えない。
自分が、こんなに臆病だったなんて。
ぎゅっと剣を握りしめる。
ジュードは、どうして剣をミーシャに託したのだろう。
確かに前は、二人の兄たちや、騎士たちと同じように剣を振り回し、戦ってみたいと思っていた。
けれどそれは練習でだけのことだ。
自分自身の身を守る為に、人を斬ることではなく……。
ミーシャはそっと、胸に抱いた剣を見た。
そうしてふっと息を深くつき、剣を片手に立ち上がる。
剣を鞘から抜くと、きれいに手入れされた刀身が、暗闇の中でも小さく光を反射した。
ここに入った時は真っ暗闇だと思っていたこの場所にも、微かな光はあるらしい。
ミーシャは髪と首との間にその刀身を持っていって──
ザンッ
音を立てて、剣を振るった。
パサパサ、と音をたて、長く艶めく黒髪が、地面に落ちる。
見ていないので定かではないが、かなりの長さを切っただろう。
頭も軽くなった。
ミーシャは剣を元通り鞘に戻して、階段から一歩踏み出す。
ここで、永遠にこうしている訳にもいかない。
とにかく、前へ進まなければ──。
長く暗い階段道を、ミーシャは進み始めた──…。
◆◆◆◆◆
階段を下りきると、そこには平坦でまっすぐな道が続いていた。
ミーシャは剣を胸の前で抱えたまま、その道を進む。
すぐ横では水の流れる音が聞こえる。
どうやら地下水路に出たようだ。
ひたすら黙々と歩き続けた、ミーシャの足元に。
ゴスッ、と何かが引っ掛かって、つまずいた。
「きゃあ!」
正面から思いきり、地面に倒れ込む。
いや、地面に、ではなかった。
つまずいた何かの物体の上に、倒れ込んだのだった。
「~いったぁ……」
思わず口に出しながら、ミーシャはのそのそとそのまま起き上がる。
暗闇に慣れた目が、“物体”の正体を映し出した。
それは、布にくるまれた骸骨の姿だった。
薄暗いため、詳細は分からない。
けれどはっきりと、骸骨だということは分かった。
骸骨を包む布と思っていたのは、服のようだった。
髪もボサボサだが、頭の部分にまだついている。
暗い闇よりもっと濃い闇が、骸骨の相眼の奥に広がっていた。
ぞくり、とミーシャの胸の内に不安が押し寄せる。
この姿はまるで、これからのミーシャの姿を予見しているかのようだった。
悲鳴を上げそうになるのを押さえて──ミーシャは静かに、問う。
「──あなたは……一体、どこの誰だったの……?」
答えがないことは分かりきっていた。
けれど、パニックを押さえる手助けにはなった。
「…………」
無論、答えはない。
けれど。
かたん、と音を立てて、何かが地面に落ちた。
ミーシャは、そっと屈んで、その“何か”を拾い上げる。
それは、錆び付いた何かの鍵のようなものだった。
鍵とは言っても、普通の形状の鍵ではない。
ミーシャが見たこともないような、何かの鍵だ。
鍵にはキーチェーンがついていて、先に平べったい金属製のタグのようなものがついていた。
「──『ダルク・カルト』……?」
金属に掘られた文字を、指先だけで辿って識別する。
「ダルク──」
男の名だろうか。
なぜこの人は、こんな所で力尽きることになってしまったのだろう。
ミーシャは──そっとその鍵を骸骨の横に戻し、手を合わせると、剣を抱えたまま再び歩き始めた。
「──名前だけ、もらわせてね」
そんな言葉を、後ろの骸骨にかけながら──。
彼女は肩で激しく息をしたまま、クローゼットの中の服の間に埋もれるようにしゃがんで隠れていた。
閉じたクローゼットの外では恐ろしいほどの喧騒と怒号、悲鳴が響いている。
──一体、この城内で何が起きているのだろう?
ガタガタと、身体中が震えている。
いつもは侍女がきれいに結わえてくれている長い黒髪はそのまま肩に流れ、ゆったりとした寝巻きからのぞく細い腕や足はひどく頼りない。
先程から、歯の根も合わない。
「──まだ第二王子と王女がいるはずだ!
逃がすな!確実に捕らえて始末しろ!!」
ガシャガシャと鎧と鎧が激しくぶつかり合う音と共に怒鳴り声が響いてくる。
彼女は、ますます動悸がひどくなるのを感じた。
クローゼットの扉の隙間から、ちらちらと赤い光が見えだした。
炎だろうか。
そういえばどこか焦げ臭い。
父王は、母は──…そして二人の兄たちは、一体どうしただろう?
真夜中の突然の襲撃に、ひとまずこのクローゼットの中へ隠れてしまったが、見つかるのは時間の問題だろう。
それとも徐々に温度を上げ、迫っているらしい炎に巻かれて死ぬ方が先か。
息を潜めたいのに、肺がいうことを聞かない。
──誰か……
願い、目をつぶった、瞬間に。
ガッと乱暴にクローゼットの扉が開け放たれた。
そして、腕を掴まれ乱暴に引っ張り出される。
「きゃあっ…!」
半ばパニックになりかけ、声をあげた彼女に。
「ミーシャ姫、私です」
冷静な、けれど緊迫した声がかけられる。
よく知った、頼りがいのある男だった。
長兄の身辺を守る騎士、ジュードだ。
ミーシャはその事に気づき、「ジュード…」と息をつきながら答えた。
騎士、ジュードがいう。
「ご無事でしたか。
アルフォンソ様の命により、お助けに上がりました」
アルフォンソというのは、長兄の名だ。
ミーシャはぞくりと背筋に凍りつくようなものを感じた。
どうしてこの非常時に、ジュードは主を──…アルフォンソを放ってここへ来たのだろう。
「──兄上は…?」
心許なく問いかけた先でジュードの眉がピクリと動いた。
それが答えのようなものだった。
ジュードはまっすぐミーシャを見、いう。
「話は後です。
とにかく今は、ここを無事に抜けることだけ考えましょう。
私についてきてください。抜け道からあなたを外へ逃がします」
有無を言わせぬ口調で言って、ジュードがミーシャの手を引いて部屋を出る。
部屋の外は──まさに地獄だった。
壁、床に広がる血、血、血。
倒れた兵士、落ちた剣、それらが踏み荒らされ、血の赤と泥の黒に染まっている。
廊下の向こうには、迫り来る炎が見えた。
思わず立ちすくんだミーシャの手を力強く引いて、ジュードが炎とは反対方向へ走り出す。
ミーシャはこけそうになりながらそれに従い、走った。
どこをどう進んだのか、生まれてからずっと、15年も住んでいた城なのに分からない。
気がつくとジュードが廊下の一角にある壁の下部を蹴りつけ、小さな扉を押し上げていた。
扉の向こうには、真っ暗闇の中下へ下へと階段が続いているのが見える。
「さあ、早く」
ジュードがミーシャの背を押し、中へ急ぐよう指示する。
扉は、小柄なミーシャが小さくかがんで入るのがやっとという大きさだ。
中へ入ってしまえば天井は高く、横幅も広くなるが、体格のいいジュードはとても入れない。
「いたぞ!あそこだ!」
廊下の向こうから声が上がるのが分かる。
ミーシャは扉の外に未だ立つジュードへ声をあげた。
「~ジュード!」
「ミーシャ姫、これを」
言って、ジュードが何かをこちらへ放る。
──ジュードが予備に腰に下げていた、剣だった。
「ジュ…」
「いつか兄君たちと同じように剣の鍛練をしたいとおっしゃってましたね。
お教えすることは叶いませんでしたが、あなたにそれを。
その剣があなたの身を守ってくれることを祈っています。
──どうかご無事で」
「ジュー…」
ジュード、という叫びは、彼自身の耳に届いたかどうか。
ズドドドド、と素早く音を立て、扉が下へ落ちて閉まる。
残ったのは先程までが嘘だったかのような静寂と、暗闇。
ミーシャは…ただただ剣を懐に抱え込んで、その場に立ち尽くしたのだった──。
◆◆◆◆◆
どれだけの間そこでそうしていただろう。
ミーシャは、ジュードの剣を抱いたまま階段に座り込み、ただただじっとしていた。
ジュードは、来ない。
外の音も、何も聞こえない。
暗闇には目が慣れたが…それだけだった。
父や母、二人の兄、そして、ジュードの生存さえ定かではない。
──一体、何が起こったの……?
内乱だったのか、それとも敵国が攻めてきたのか?
ミーシャには分からなかった。
ここでじっとしていても、仕方がないことも分かっている。
けれど、どうしてもこの場を離れたい気がしなかった。
怖かったのだ。
それまでの全てを切り捨てて──見捨てて、それでもどこへ行くというあてもなく、未来さえも見えない。
自分が、こんなに臆病だったなんて。
ぎゅっと剣を握りしめる。
ジュードは、どうして剣をミーシャに託したのだろう。
確かに前は、二人の兄たちや、騎士たちと同じように剣を振り回し、戦ってみたいと思っていた。
けれどそれは練習でだけのことだ。
自分自身の身を守る為に、人を斬ることではなく……。
ミーシャはそっと、胸に抱いた剣を見た。
そうしてふっと息を深くつき、剣を片手に立ち上がる。
剣を鞘から抜くと、きれいに手入れされた刀身が、暗闇の中でも小さく光を反射した。
ここに入った時は真っ暗闇だと思っていたこの場所にも、微かな光はあるらしい。
ミーシャは髪と首との間にその刀身を持っていって──
ザンッ
音を立てて、剣を振るった。
パサパサ、と音をたて、長く艶めく黒髪が、地面に落ちる。
見ていないので定かではないが、かなりの長さを切っただろう。
頭も軽くなった。
ミーシャは剣を元通り鞘に戻して、階段から一歩踏み出す。
ここで、永遠にこうしている訳にもいかない。
とにかく、前へ進まなければ──。
長く暗い階段道を、ミーシャは進み始めた──…。
◆◆◆◆◆
階段を下りきると、そこには平坦でまっすぐな道が続いていた。
ミーシャは剣を胸の前で抱えたまま、その道を進む。
すぐ横では水の流れる音が聞こえる。
どうやら地下水路に出たようだ。
ひたすら黙々と歩き続けた、ミーシャの足元に。
ゴスッ、と何かが引っ掛かって、つまずいた。
「きゃあ!」
正面から思いきり、地面に倒れ込む。
いや、地面に、ではなかった。
つまずいた何かの物体の上に、倒れ込んだのだった。
「~いったぁ……」
思わず口に出しながら、ミーシャはのそのそとそのまま起き上がる。
暗闇に慣れた目が、“物体”の正体を映し出した。
それは、布にくるまれた骸骨の姿だった。
薄暗いため、詳細は分からない。
けれどはっきりと、骸骨だということは分かった。
骸骨を包む布と思っていたのは、服のようだった。
髪もボサボサだが、頭の部分にまだついている。
暗い闇よりもっと濃い闇が、骸骨の相眼の奥に広がっていた。
ぞくり、とミーシャの胸の内に不安が押し寄せる。
この姿はまるで、これからのミーシャの姿を予見しているかのようだった。
悲鳴を上げそうになるのを押さえて──ミーシャは静かに、問う。
「──あなたは……一体、どこの誰だったの……?」
答えがないことは分かりきっていた。
けれど、パニックを押さえる手助けにはなった。
「…………」
無論、答えはない。
けれど。
かたん、と音を立てて、何かが地面に落ちた。
ミーシャは、そっと屈んで、その“何か”を拾い上げる。
それは、錆び付いた何かの鍵のようなものだった。
鍵とは言っても、普通の形状の鍵ではない。
ミーシャが見たこともないような、何かの鍵だ。
鍵にはキーチェーンがついていて、先に平べったい金属製のタグのようなものがついていた。
「──『ダルク・カルト』……?」
金属に掘られた文字を、指先だけで辿って識別する。
「ダルク──」
男の名だろうか。
なぜこの人は、こんな所で力尽きることになってしまったのだろう。
ミーシャは──そっとその鍵を骸骨の横に戻し、手を合わせると、剣を抱えたまま再び歩き始めた。
「──名前だけ、もらわせてね」
そんな言葉を、後ろの骸骨にかけながら──。
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