絵にしてみたい一日

ロム猫

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サイクリング

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「あのさ、わたし、車買い替えようと思うんだけど、いいかな」

 ある日、妻がそう話を持ちかけてきた。

「ん? 別にいいけど、どした? ステップワゴン、調子悪いのか?」

 購入して八年。決して買い替えても悪くはない年数だが、かといって積極的に乗り換えを検討するほど古くはない。私たちの職場は妻の実家なので、子供の送り迎えとたまの遠出くらいしか自動車を使わない。走行距離だってまだ四万キロも走っていないはずだ。

「調子悪いわけじゃないんだけどさ、送り迎えに使うにはちょっと大きいな、とずっと思ってて。ほら、うちのチビもオムツがとれてさ、最近ディズニーなんかも電車で行けるようになったじゃん?」

「まあ、確かにね」

「送り迎えがメインならもうひと回り小さくてもいいかなって」

 そういう事であれば反対する理由はない。私の所用はほとんど社用車で済ませているので、実質妻しか使わない。思い返してみれば、ちょこちょこ妻から「車をぶつけた」、なんて話を聞いていた。私たちの住む古い街の狭い道路では少し不便な大きさなのかもしれない。

「ああ、俺が運転するわけじゃないんだし、好きな奴買えばいいんじゃない?」

 妻にそう答えたとき、ふと、忘れていた記憶が甦った。

 あれは次女が生まれ間もない頃だった。当時私たちが乗っていたのは「日産キューブ」という車で、四人乗りとはいえ乳児が増えたことで手狭さを感じていた。次女は勿論の事、長女もチャイルドシートを使わなければならない年齢。加えて、乳児というのは、予備のオムツであったり、着替えであったり、哺乳瓶、粉ミルク、その他衛生製品など、常備しておかなければならないものが多い。
 子供を少なくとも三人欲しいと考えている妻は、将来的なことも考えてファミリーカーへの買い替えを検討していた。

 私は生来ものに対する頓着が薄く、車に対しても動けば良い、という程度の認識だった。ところが妻は私とは正反対の気質で、何かを購入する際には吟味に吟味を重ねて、納得がいかないと購入そのものも辞めてしまう慎重派だ。買い替えを検討し始めてからの休日は子供達を義母に預け、ディーラーをひたすらに巡る日々となってしまった。
 あちらのディーラーからこちらのディーラー。そしてまた別のディーラーから再び最初のディーラーへ。そんな日々を重ねてひと月ほど経った頃、私は次第に痺れを切らすようになってきた。車など動けばいい。車内が広いものにしたいなら、広いものを買えばいい。ただそれだけのことじゃないか。
 それぞれのメーカーが誇るファミリーカーの実物とカタログを見ながら営業マンの話を聞く。正直どのメーカーのものもそれなりに魅力的に思えたが、妻にとってはどの車も決め手に欠いていたようだ。かつて長女が生まれたとき、粉ミルクの湯を得るために購入した電子ケトル。あの時でさえひと月も迷っていた。たかだか四、五千円のものでそんな塩梅なら、何百万円もする自動車ならどれ程月日を数えることになるのか。私は恐ろしく感じた。

 そんな折のこと、件の「ステップワゴン」のカタログをパラパラと眺めていると自転車が二台積んである写真を、私は見つけた。

「なあ、ちょっとこれ良くない?」

 妻に話す。

「後部座席がさ、完全にフラットになるのってステップワゴンだけじゃん? そうすると自転車二台積めるんだな」

「自転車二台積んでどうすんの?」

「将来さ、子供たちの手がかからなくなったらさ、例えば富士五湖みたいな景色のいいとこまで行ってさ、ふたりでサイクリングとかやれたらいいよな」

 私がそういうと妻は黙り込み何かを考えているようだった。しかし、これは私の本心ではなく決断を促す為の方便だ。
 商品を購入する際、価値観が拮抗して迷いが生じたとき、どんな些細なことでもいい、付加価値を納得できる形で提案すれば購入に導くことが可能なことを、私は営業という仕事を通して学んでいた。そして、その付加価値は映像化できるほどの具体性を備えていればなお効果的だ。
 結婚する前にふたりで旅行に行った「富士五湖」。妻の頭の中には霧に包まれて美しいその景観が浮かんだことだろう。そして、その中を走る自転車の影がふたつ。
 即決とはならなかったが一週間後には妻は「ステップワゴン」を購入することを決めた。
 購入してから暫く、私は美しい景観のサイクリングコースをネットで調べてはそれを妻に見せたり、ふたりで遠い先の話を計画しては空想を楽しんだりした。それは自分の都合の為に妻を誘導した後ろめたさから出た行動だったのかもしれない。けれども、その空想を楽しむ妻の姿を眺めている内に、私の方便は私のなかで真実に変わっていった。
 子育ての慌ただしさがひと段落して、自分の時間を自分の為に使えるようになった時、そこには安堵があるのだろうか、あるいは一抹の寂しさがあるのだろうか。妻をサイクリングに誘う日。それはふたりで始まった結婚生活が再びふたりに戻る日なのかもしれない。少し照れながら、やっと行けるね、などと話すのだろうか。そんな事を考えていた。

 あれから八年。子育ての慌ただしさのなかですっかりそんなことを忘れていた。勿論妻も忘れてしまっているに違いない。
 妻は、あの頃とは違い忙しい身となった私に対する気遣いからか、ある程度自分の中で候補を絞ってから私をディーラーに誘った。ホンダ「ルイード」。妻の本命を紹介された。私は少し考える振りをして、これにしなよ、という。妻は契約書にサインをした。

 翌日の納車を控え、ふたりで「ステップワゴン」に積まれた荷物の整理をする。三人の娘たちの私物やらDVDやら情報誌やら、運び出してみると結構な量になることに驚いた。すっかり空になった車内はガランとして寂しく、ああ、やっぱり広かったんだな、などと改めて感じながら、ぼんやりと眺めていた。

「ごめんね」

 ふと、背中越しに妻の声がする。

「結局、サイクリング、行けなかったね」

 そう、続いた。

 妻は覚えていのだ。私でさえ忘れていた記憶を。

「気にすることはないよ」

 振り向いて私は答える。

「サイクリングをするより楽しそうなことを、また探せばいいじゃないか」

「でも……」

 言葉を濁す妻を愛おしく感じた。そして、覚えていてくれたことも。

「そんなことより今日はさ、みんなでなんか美味しいものでも食べにでもいかないか? 何がいい? パスタ? 焼き肉? うどん屋さん? それともラーメン? あるいはラーメン? もしくはラーメン屋さん?」

「また、ラーメン? ほんと好きだねー。 いいよ、じゃ今日はラーメン食べにいこ」

 済まなそうな表情をしていた妻の顔に笑顔が戻った。

 もともとは方便から始まったサイクリングの夢。また何か別の夢を探せばいいのだ。あるいは、いずれか先、大きな車に買い替えてもいい。
 子育てはまだまだ続く。その先のことは、その先になったときに考えればそれでいい。ただその時、隣にいるであろうこの女性を出来るだけ笑顔でいさせてあげたい。その為に何ができるのか。それを探す時間そのものが幸福なのかもしれない。嘘から出たまこと。方便も真実に変えられる事ができれば、それはやはり、真実なのだ。
 最後のステップワゴンに乗り込みながら、私はそんな事を考えていた。
 
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