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■第二話 わがまま作家の願いごと
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下の行にはカッコ付きで【まあ、一生後悔は消えないし、ただの自己満足とか願望のようなものだけど、きちんと向き合って背負い直すことはできたかな】と茶目っ気たっぷりにあり、流れる涙を指で拭いながらも、ちひろの口元はふっと緩んでいった。
そして最後に、マーガレットの花束を持った彼と美崎糸子のツーショット写真。
その下には【校閲ちゃん、新作の校閲はあなた以外にあり得ないわ!】と書いてあり、ちひろと櫻田は目を見合わせると、どちらからともなく声を上げて笑った。
「さすが先生。〝校閲ちゃん〟って言うのはブレないわ。でもまあ、ご指名が入っちゃったわけだし、こりゃ、気合い入れてやるしかないよな。な、ちひろちゃん」
「そうですね。どんな作品になるのか、今から楽しみで仕方ありません」
そう言いながら、涙を拭きつつ、すんと鼻をすする。館山駅に颯爽と入っていく後ろ姿を見たときに確信したことは、これからますます現実味を帯びて本当のことになっていくようだ。櫻田もいよいよここからが編集者の腕の見せ所となるだろう。本格的に作品執筆に取りかかる美崎糸子の手足となって資料を集めたり、取材時には同行したり、ときには一緒にプロットを考えたり作品に意見することもあるかもしれない。
そうして出来上がったものを、今度はちひろが校閲の〝目〟で見ていくのだ。近いうちに幻泉社から発表されるだろう美崎糸子の新作には、校閲部の名に懸けて、たったの一文字たりとも誤字脱字を見逃してなるものか。ちひろはそう、固く心に決める。
「……で、あれから三日も経ってるのに、どうして編集さんは手ぶらなんですか?」
「え?」
「三日もあれば、念書を守って廻進堂の和菓子を買ってくるには十分な時間があったと思うんですけど。美崎先生のお宅に伺ったときに『廻進堂も弾むしさ』とも言っていましたけど、それもどうなってるんですか? 手ぶらなの、おかしくないです?」
けれど、それとこれとは話が別だ。美崎糸子からのメールを読ませていい感じに話を終わらせようという魂胆なのかもしれないが、そんな見え透いた思惑なんて丸わかりだし、そうは問屋が卸さない。ちひろは冷徹な目をしながら自分のデスクの引き出しからさっと念書を取り出すと、印籠のように櫻田の顔面めがけてそれを突き出す。
「絶対におかしいですよね? ……おかしいですよねっ?」
一体、いつになったら手元に廻進堂の和菓子が献上されるのだろうか。このままでは、また何かあったら――もうないことを祈るが――ますます献上品が膨れ上がってしまうのではないだろうか。まあ、まとめて手に入るならそれでも構わないが、こちらにも一度に食べられる量というものがあるし、鬼と言われようが全部一人で食べたい。櫻田の財布事情が厳しくなるのは彼の自己責任だから別にどうでもいいとはいえ、賞味期限があるものだ、何回かに分けて献上してもらうにしても、そう何回も会いたい相手でもない。
と。
「……い、いやあ。――あっ!」
「えっ?」
「ごめん、また今度! 改めてお礼させてっ!」
「ちょ、編集さん!?」
櫻田は原始的な手でちひろの気を逸らさせ、その一瞬の隙をついて脱兎のごとく校閲部のドアのほうへと駆け出していった。そんな手に引っ掛かるちひろもちひろだが、体裁が悪くなると逃げ出す櫻田も櫻田だ。というか、誰に聞いても櫻田が悪いと言うに決まっている。どうしてこう逃げ足の速さだけは天下一品なんだろうか。こんな姿を見たら、気のいい宝永社の長浜さんだって、さすがにフォローのしようもないに違いない。
「……なんて人。あんなの、小説の中だけにしかいないと思ってた……。でも――」
櫻田の見事すぎる逃げっぷりに呆気に取られるあまり、追いかける気すら失せてしまったちひろは、けれどすぐに竹林のデスクへ向かうことにした。たとえ内線でも電話は電話だ。こうなったら、電話が苦手なちひろの代わりに、竹林から相原編集長へ、そちらの部署の部下の度重なる虚言癖によって校閲部の社員が大変な迷惑を被っていることを厳しく伝えてもらい、早急に廻進堂を献上してもらう手筈を整えてもらうしかない。
「あ、斎藤さん、ちょうどいいところに。お茶でも飲みながら廻進堂のゼリーを食べませんか? 頂きものなんですけど、数が多くて家で食べきれなくて持ってきたんです」
「……え?」
「あれ、ゼリー、好きじゃなかったでしたっけ?」
「いやっ、そんな。大好きです……けど」
が、いざ竹林のデスクの前に立ってみれば、その竹林はにこやかに笑いながら平然と廻進堂の名前を出し、ちひろの心を大きく揺さぶった。……もしかして部長はこうなることをあらかじめ予想してわざと廻進堂のお菓子を買って食べさせてくれるのではないだろうか。なんて、あまりのタイミングの良さに、ちひろは逆に変に疑い深くなってしまう。
「さあさあ、お茶が入りましたよ。ゼリーも冷え冷えで食べごろです」
「あ、はい。すみません、お茶まで淹れて頂いて。ごちそうになります、いただきます」
「どうぞゆっくり食べてください」
しかし、廻進堂に目がないちひろが、それを前に欲求に抗えるわけもなかった。
まずは熱々の日本茶で喉を潤してから、ゼリーをスプーンに一匙掬って口に入れる。熱いお茶を先に飲んだので、ゼリーがよりいっそう冷たく舌の上に転がり、逃げ足だけは速い櫻田に対する怒りも不満も、なんとなく静まっていくような気がしてくる。
「はあぁぁ、美味しい~。夏になると、やっぱり桃ですね」
「そうですねぇ。この大ぶりの桃の果肉がごろっと入っているのがたまりませんね。櫻田君も早々に出て行かないで、ここでゆっくり食べていけばよかったのに……」
「そんな、もったいないですよ部長。彼にあげるなら、私にください」
「はは。斎藤さんは本当に廻進堂に目がないですね」
「いえ、当然の報いです」
そうして、応接テーブルを挟んで向かい合いながら、老人会のようにお茶をすすりつつ果肉たっぷりの桃ゼリーをちびちび食べつつしているうちにすっかり毒気を抜かれてしまったちひろは、不可抗力ながら、いつの間にかほっこり和んでしまう。
「……あ、部長。一つご相談があるんですけど」
「はい?」
「作家先生からご指名を頂いた場合、校閲部的には大丈夫ですか? きっと近いうちに美崎糸子先生の新作が幻泉社から出ると思うんですけど、先生から校閲をしてもらえないかってお話を頂いてしまって……。さっき櫻田さんは、気合い入れないとな、なんて言っていましたけど、校閲部のルールに引っ掛かったりしないんでしょうか」
その和みついでに尋ねてみると、竹林はにっこり笑って言う。
「そういうことでしたら、問題ないですよ。懇意にしている作家と校閲同志は、ときにこうして指名されることもあります。これも縁です。大事にしてください」
「! あ、ありがとうございますっ」
礼を言って残り少なくなった桃ゼリーを頬張ると、ますます美味しく感じられて、頬がほくほくと綻んでしまう。櫻田のことについては全然納得できないし、今度会ったらなんとしてでも廻進堂を献上してもらうつもりだ。けれど、ゼリーも美味しいし美崎糸子の新作の校閲の許可も下りて、ちひろの胸はワクワクする気持ちでいっぱいだ。
実際の櫻田はあんな男だが、新作のために彼女のわがままにとことん付き合うと言っていたあのときの顔だけは、きっと本物だと信じて。彼女と花農家の彼のツーショット写真の笑顔がけして曇らぬように、ちひろも校閲で微力ながら力になりたいと思った。
その後しばらく、校閲部にはマーガレットの花が飾られることになった。
花農家の彼――槌西誠司さんが、お礼にとちひろに送ってくれたものだ。
花の時期はもうそろそろ終わりだが、まだ少しだけマーガレットが咲いているという東北の花農家の知り合いからわざわざ送ってもらったそうで、同封されていた手紙には、美崎先生にも同じものを送ったことと、よかったら洲崎のあの家と結子さんのお墓にお供えしてほしいとお伝えしたことが書かれていた。先生のほうには、マーガレットの種も同封したという。咲くかどうかわからないけれど、ということだったが、きっと彼女なら、来年の春には綺麗な白いマーガレットの花絨毯を家の庭に見事に咲かせるだろう。
その頃、また会いに行きたいなと、ちひろは思う。
今度ももちろん、彼女の新作に名前を入れてサインしてもらうために。
そして最後に、マーガレットの花束を持った彼と美崎糸子のツーショット写真。
その下には【校閲ちゃん、新作の校閲はあなた以外にあり得ないわ!】と書いてあり、ちひろと櫻田は目を見合わせると、どちらからともなく声を上げて笑った。
「さすが先生。〝校閲ちゃん〟って言うのはブレないわ。でもまあ、ご指名が入っちゃったわけだし、こりゃ、気合い入れてやるしかないよな。な、ちひろちゃん」
「そうですね。どんな作品になるのか、今から楽しみで仕方ありません」
そう言いながら、涙を拭きつつ、すんと鼻をすする。館山駅に颯爽と入っていく後ろ姿を見たときに確信したことは、これからますます現実味を帯びて本当のことになっていくようだ。櫻田もいよいよここからが編集者の腕の見せ所となるだろう。本格的に作品執筆に取りかかる美崎糸子の手足となって資料を集めたり、取材時には同行したり、ときには一緒にプロットを考えたり作品に意見することもあるかもしれない。
そうして出来上がったものを、今度はちひろが校閲の〝目〟で見ていくのだ。近いうちに幻泉社から発表されるだろう美崎糸子の新作には、校閲部の名に懸けて、たったの一文字たりとも誤字脱字を見逃してなるものか。ちひろはそう、固く心に決める。
「……で、あれから三日も経ってるのに、どうして編集さんは手ぶらなんですか?」
「え?」
「三日もあれば、念書を守って廻進堂の和菓子を買ってくるには十分な時間があったと思うんですけど。美崎先生のお宅に伺ったときに『廻進堂も弾むしさ』とも言っていましたけど、それもどうなってるんですか? 手ぶらなの、おかしくないです?」
けれど、それとこれとは話が別だ。美崎糸子からのメールを読ませていい感じに話を終わらせようという魂胆なのかもしれないが、そんな見え透いた思惑なんて丸わかりだし、そうは問屋が卸さない。ちひろは冷徹な目をしながら自分のデスクの引き出しからさっと念書を取り出すと、印籠のように櫻田の顔面めがけてそれを突き出す。
「絶対におかしいですよね? ……おかしいですよねっ?」
一体、いつになったら手元に廻進堂の和菓子が献上されるのだろうか。このままでは、また何かあったら――もうないことを祈るが――ますます献上品が膨れ上がってしまうのではないだろうか。まあ、まとめて手に入るならそれでも構わないが、こちらにも一度に食べられる量というものがあるし、鬼と言われようが全部一人で食べたい。櫻田の財布事情が厳しくなるのは彼の自己責任だから別にどうでもいいとはいえ、賞味期限があるものだ、何回かに分けて献上してもらうにしても、そう何回も会いたい相手でもない。
と。
「……い、いやあ。――あっ!」
「えっ?」
「ごめん、また今度! 改めてお礼させてっ!」
「ちょ、編集さん!?」
櫻田は原始的な手でちひろの気を逸らさせ、その一瞬の隙をついて脱兎のごとく校閲部のドアのほうへと駆け出していった。そんな手に引っ掛かるちひろもちひろだが、体裁が悪くなると逃げ出す櫻田も櫻田だ。というか、誰に聞いても櫻田が悪いと言うに決まっている。どうしてこう逃げ足の速さだけは天下一品なんだろうか。こんな姿を見たら、気のいい宝永社の長浜さんだって、さすがにフォローのしようもないに違いない。
「……なんて人。あんなの、小説の中だけにしかいないと思ってた……。でも――」
櫻田の見事すぎる逃げっぷりに呆気に取られるあまり、追いかける気すら失せてしまったちひろは、けれどすぐに竹林のデスクへ向かうことにした。たとえ内線でも電話は電話だ。こうなったら、電話が苦手なちひろの代わりに、竹林から相原編集長へ、そちらの部署の部下の度重なる虚言癖によって校閲部の社員が大変な迷惑を被っていることを厳しく伝えてもらい、早急に廻進堂を献上してもらう手筈を整えてもらうしかない。
「あ、斎藤さん、ちょうどいいところに。お茶でも飲みながら廻進堂のゼリーを食べませんか? 頂きものなんですけど、数が多くて家で食べきれなくて持ってきたんです」
「……え?」
「あれ、ゼリー、好きじゃなかったでしたっけ?」
「いやっ、そんな。大好きです……けど」
が、いざ竹林のデスクの前に立ってみれば、その竹林はにこやかに笑いながら平然と廻進堂の名前を出し、ちひろの心を大きく揺さぶった。……もしかして部長はこうなることをあらかじめ予想してわざと廻進堂のお菓子を買って食べさせてくれるのではないだろうか。なんて、あまりのタイミングの良さに、ちひろは逆に変に疑い深くなってしまう。
「さあさあ、お茶が入りましたよ。ゼリーも冷え冷えで食べごろです」
「あ、はい。すみません、お茶まで淹れて頂いて。ごちそうになります、いただきます」
「どうぞゆっくり食べてください」
しかし、廻進堂に目がないちひろが、それを前に欲求に抗えるわけもなかった。
まずは熱々の日本茶で喉を潤してから、ゼリーをスプーンに一匙掬って口に入れる。熱いお茶を先に飲んだので、ゼリーがよりいっそう冷たく舌の上に転がり、逃げ足だけは速い櫻田に対する怒りも不満も、なんとなく静まっていくような気がしてくる。
「はあぁぁ、美味しい~。夏になると、やっぱり桃ですね」
「そうですねぇ。この大ぶりの桃の果肉がごろっと入っているのがたまりませんね。櫻田君も早々に出て行かないで、ここでゆっくり食べていけばよかったのに……」
「そんな、もったいないですよ部長。彼にあげるなら、私にください」
「はは。斎藤さんは本当に廻進堂に目がないですね」
「いえ、当然の報いです」
そうして、応接テーブルを挟んで向かい合いながら、老人会のようにお茶をすすりつつ果肉たっぷりの桃ゼリーをちびちび食べつつしているうちにすっかり毒気を抜かれてしまったちひろは、不可抗力ながら、いつの間にかほっこり和んでしまう。
「……あ、部長。一つご相談があるんですけど」
「はい?」
「作家先生からご指名を頂いた場合、校閲部的には大丈夫ですか? きっと近いうちに美崎糸子先生の新作が幻泉社から出ると思うんですけど、先生から校閲をしてもらえないかってお話を頂いてしまって……。さっき櫻田さんは、気合い入れないとな、なんて言っていましたけど、校閲部のルールに引っ掛かったりしないんでしょうか」
その和みついでに尋ねてみると、竹林はにっこり笑って言う。
「そういうことでしたら、問題ないですよ。懇意にしている作家と校閲同志は、ときにこうして指名されることもあります。これも縁です。大事にしてください」
「! あ、ありがとうございますっ」
礼を言って残り少なくなった桃ゼリーを頬張ると、ますます美味しく感じられて、頬がほくほくと綻んでしまう。櫻田のことについては全然納得できないし、今度会ったらなんとしてでも廻進堂を献上してもらうつもりだ。けれど、ゼリーも美味しいし美崎糸子の新作の校閲の許可も下りて、ちひろの胸はワクワクする気持ちでいっぱいだ。
実際の櫻田はあんな男だが、新作のために彼女のわがままにとことん付き合うと言っていたあのときの顔だけは、きっと本物だと信じて。彼女と花農家の彼のツーショット写真の笑顔がけして曇らぬように、ちひろも校閲で微力ながら力になりたいと思った。
その後しばらく、校閲部にはマーガレットの花が飾られることになった。
花農家の彼――槌西誠司さんが、お礼にとちひろに送ってくれたものだ。
花の時期はもうそろそろ終わりだが、まだ少しだけマーガレットが咲いているという東北の花農家の知り合いからわざわざ送ってもらったそうで、同封されていた手紙には、美崎先生にも同じものを送ったことと、よかったら洲崎のあの家と結子さんのお墓にお供えしてほしいとお伝えしたことが書かれていた。先生のほうには、マーガレットの種も同封したという。咲くかどうかわからないけれど、ということだったが、きっと彼女なら、来年の春には綺麗な白いマーガレットの花絨毯を家の庭に見事に咲かせるだろう。
その頃、また会いに行きたいなと、ちひろは思う。
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