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■第二話 わがまま作家の願いごと

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 なんで私、こんなところにいるんだろう。
 試合が終わり、ぞろぞろと引き上げていく観戦客たちを見るともなしに眺めながら、ちひろはもう二時間以上前から、ずっとそんなことを思っていた。
 隣では櫻田と宝永社の長浜さんがセパ交流戦最終試合の楽天VS巨人戦で、今年、開幕からトップを走り続けている楽天が今日もいかに巨人を投打で圧倒していたかという話で大変盛り上がっていて、野球に疎いちひろは試合開始から完全に蚊帳の外だった。
 しかも今日は日曜日。普段ならアパートの自室にこもり、朝から晩まで読書に耽りながら、厳しい校閲の目をかいくぐって世に出てきた誤字を発見して愛でる日だ。
 なのに今朝、起き抜けにスマホに着信があり、寝ぼけ眼で取ってみれば「今日、長浜さんと楽天VS巨人戦を見に行くから、ちひろちゃんも来て」という、実に一方的な櫻田からの電話だった。やっとチケットを用意したんだな、交流戦が終わる前に間に合ってよかった、と思ったまではよかったものの、なぜ私まで? と一拍遅れて気づき、慌ててスマホを握り直した。しかし櫻田は、ちひろが何か言う前に「東京ドーム前に十二時集合ね。来ないと廻進堂は検討させてもらうよ~」と実に恐ろしいことを言って一方的に通話を切ってしまった。しかもその後、何度かけても繋がらないときた。
 廻進堂はちひろの大好物の老舗和菓子店だ。そして約束はまだ果たされていない。
 散々悩んだ末、仕方なしに指定された時刻に東京ドームに行くと、臙脂色のレプリカユニホームに身を包んだ長浜さんと、カジュアルな格好をした櫻田が「おーい、こっち!」とちひろに手を振り、訳がわからないまま野球観戦はスタートした。
 が、さすが野球観戦が好きなものと言っていただけあって、長浜さんは選手や野球のルールに詳しく、また櫻田も元高校球児だったとかで、二人はちひろそっちのけで終始盛り上がる。終わってみればちひろはほとんど何も喋らず終いで、冒頭の心の声に戻る。
 ……ほんと、なんで私、こんなところにいるんだろう。
 つい廻進堂に目が眩んでのこのこ来てしまったけれど、二人がこんなに盛り上がっているなら、むしろ私邪魔じゃない? ちひろは何度そう思ったことか。
「あ、そうだ。ちょっと早いですけど、ご飯食べに行きませんか? 私、こんなに野球の話で盛り上がれる人と会ったのは久しぶりで。もっとゆっくりお話ししたいです」
「いいですね、それ。デーゲームだったので、このあともたっぷり時間ありますし」
「ぜひ! そうしましょう!」
 そんなちひろの前では、ぞろぞろと通路を引き上げていく観戦客たちに混じって、相変わらず櫻田と長浜さんがめちゃくちゃ盛り上がっている。ご飯というか、これは飲みに行く感じだ。このまましれっと帰っても二人は気づかないんじゃないだろうか。
 この人混みだ、あとでもし連絡が来たとしても、はぐれたと言えば通用しそうだ。ちひろは徐々に櫻田たちと距離を取り、このままバックレる用意をする。
 けれど。
「もちろん、ちひろちゃんも行くよな?」
 そのとたん櫻田がぐりんと振り返った。長浜さんもレプリカのベースボールキャップの後ろのアジャスター部分からぴろりんと伸びる一つに結わえた髪を揺らし、「お知り合いになれたのも何かの縁ですし、ぜひ斎藤さんも行きましょうよ」と屈託なく笑う。
 櫻田からは廻進堂の匂いがぷんぷんするが、長浜さんのこの屈託のなさには、ちひろもさすがに良心が痛む。確かに、知り合いになれたのは早峰カズキのことがあっての縁だ。
 あのときは時間がなかったこともあって、欲しい情報だけもらってこちらは詳しい事情も話さず心苦しい思いだった。何か自分でも埋め合わせができないものかとも考えたが、しかし活字さえあれば生きていけるちひろは、役立たずの対人スキルしかない。
「……じゃ、じゃあ、お供します」
 ニヤリと口角を持ち上げた櫻田はこの際無視することにして、ちひろは邪魔者なんじゃないかという気もしつつ、キラキラと眩しい笑顔の長浜さんに頷いた。ご飯を一緒に食べることが埋め合わせになるなら、それで自分の気持ちが少しでも軽くなるなら。どうせ櫻田に奢らせればいいし、もう二時間や三時間、一緒にいようと思う。
 そうして場所をリーズナブルなイタリアンレストランに移したちひろたちは、運ばれてきた料理やお酒を楽しみつつ、それから二時間半ほどを過ごした。店を出る頃には三人ともほろ酔いで、気持ちのいい酔いが幾分ちひろの気持ちも軽くしてくれる。
 あんまり乗り気じゃなかったけど、来てみれば意外と楽しかったかも……。
 レストランでも櫻田と長浜さんは終始野球の話で(セパ交流戦最終戦は楽天が八―二で危なげなく勝った。ちなみに長浜さんは銀次の大ファンらしい)盛り上がり、ちひろはパスタにワインに口を動かすだけだったが、あれだけ敬遠していた飲み会や食事の席は、いざ出てみれば、聞き役だけでもそれはそれで面白いものがあった。
 もう遅いですし送りますよ、と言う櫻田を丁重に断り、長浜さんが「じゃあ、私こっちなので。斎藤さんを送ってあげてください」と近くの駅構内に消えていく。
 彼女とは思わぬ縁で繋がったけれど、電話での印象の通り、明るいし気さくだし笑顔はキラキラだし、こういう人とならまたご飯を食べても楽しいだろうなと。
 ちひろは、ほろ酔いの頭で、背中に大きく【GINJI】の名前と、彼の背番号【33】を背負った後ろ姿を見送りながら、そんなことをぼんやり思った。
「はあー、長浜さんってアクティブだなぁ。うちの校閲部だったら、逆に普通すぎて浮いちゃうんじゃね? 宝永社の校閲部でよかったよ。あー、楽しくてつい飲みすぎた~」
 その横では、櫻田が機嫌よさそうに膨れたお腹をさすっている。
「ですね。私も楽しかったです、長浜さんといるの」
「お? 飲み会の楽しさ、わかってきたか?」
「あくまで〝長浜さんと〟ご一緒するのは、って話ですよ。ほかはいやです」
「相変わらず変わってんねー、ちひろちゃんは。そう言うだろうなって気はしてたけど」
「……わかったようなこと言わないでくださいよ。この酔っ払い」
「えー? ちひろちゃんもじゃん。ま、いいけどね、別に。細かいことは」
「……」
 櫻田の言い方には〝うちの校閲部は変人だらけ〟というニュアンスが多分に含まれていたが、ちひろもその考えには賛成だ。彼女は普通の女性すぎて、たぶんうちでは息苦しい思いをさせてしまうだろう。仕草とか表情とか、同じ女として参考になるし勉強にもなるけれど、勉強したからといって意中の男性がいるわけでもなければ、誰に披露するんだというレベルのちひろは、やっぱり活字さえあれば全然余裕で生きていける。
「じゃあ、ほろ酔いのちひろちゃんを送りますか」
 そう言って道を歩きはじめた櫻田の、よく見ると意外に広い背中についていく。からかわれるのが嫌だったので言っていなかったが、実は少し足元が覚束ないのだ。
 席を立つときにふらついてしまったのを見ていたのは長浜さんだった。彼女のこういうさり気ない気遣いもとても参考になる。けれど、だから誰にしたらいいのだろう。やっぱり私は活字さえあれば一人でも十分楽しくやっていけるな。そう思うちひろだった。
 その後、何本か電車を乗り継ぎ、櫻田にはちひろのアパートがある最寄りの駅まで送ってもらった。移動中はもっぱら長浜さんのアクティブさから端を発した、櫻田が担当している作家たちの〝変にアクティブなところ〟という話で終始し(もちろん櫻田が一方的に喋った)、彼は「こっちがどんだけ疲れてても平気でわがままに付き合わすんだよな~」と愚痴をこぼしつつ、「でも書いてもらわなきゃなんないから、笑顔を貼りつけて満足するまで付き合うんだけど」と、慣れと諦めを混在させたような微妙な顔で笑う。
 野球観戦やゴルフといった趣味に付き合うならまだいいけれど、中には、今いいところだから、と言って幼稚園や保育園の子供のお迎えのためだけに櫻田を使う女流作家がいたり、インスピレーションが湧かないと言って櫻田に面白い話をせがんで、つまらなかったら機嫌を損ねる作家がいたり。本当か嘘かはわからないが、書いてほしいんでしょ? とベッドに誘ってくる女性作家だったり男性作家だったりがいたりするという。
 ちひろは、電車の揺れでますます酔いが回ってきた頭で思った。
 ああ、校閲部でよかった。
 そして、心の底から平和な職場に感謝した。
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