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■第一話 本当のストーカーは誰?
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そうして翌日。
朝一番、貫徹したとかで昨日と同じスーツに身を包み、目を真っ赤に充血させながら大あくびで校閲部に顔を出した櫻田と、どっちが宝永社に電話をかけるかでまたひと悶着ありつつ、結局一発勝負のじゃんけんで負けた櫻田が渋々、受話器を持ち上げると、早峰カズキの『誰?』を校閲した人物は、意外にもあっさり見つかった。
スピーカーフォンにすると周りで仕事をしている同僚たちの気を散らしてしまうかもしれないので、嫌々ながら仕方なしに櫻田と受話器を挟んで頭をくっつけ合う。
『はい、担当したのは私ですけど、どうかしました?』
そう電話口で気さくに応じてくれたのは、長浜さんという明るい声の女性だった。
いよいよ本になる、という段階の第三稿の校閲を担当したそうで、そのときにも文章自体は変わらないのに第一稿、第二稿にはなかった単独の誤字などがあり、それに気づいた担当編集と校閲を担当した長浜さんとの間で、少しだけ話題になったそうだ。けれどその後は、まあこういうこともあるよね、ということで話は落ち着き、無事に刊行を迎える運びとなった。言わずもがな、その作品は今も続々と重版がされている。
正直早峰カズキを幻泉社に取られたのは悔しい、と長浜さんは言った。けれどすぐに、次はうちが取り返しますよ~とカラカラ笑った彼女は、とても気さくな人だ。少しの世間話を挟み、いよいよ本題である早峰カズキの周りで作品と同じようなことがあったという話は聞かなかったか、という櫻田の質問にも、彼女は人のよさそうな声で答える。
『確かに刊行当時、社内でもその噂はありましたよ。でも、出どころのわからないものでしたし、何かあれば警察だって動くでしょう? 作品の中では犯人は血の繋がった父親でしたけど、実際、家族にストーキングに遭う人なんているんでしょうかね?』
その口振りからも、噂はあくまで噂程度でしかなく、根拠のないものだろうと思っているのがよく伝わってくる。小説の中だから設定としては面白いし、あり得る。けれど実際には非現実的だろうというのが、彼女の考えのようだった。
ちひろもそう思う。けれどそれは、昨日までの話だ。
確認しなければいけないことは、まだある。
「あの、大変お手数なんですが、その原稿の誤りの部分に本来ならなんと字が入るのが正しいのか、どんな文字が余分にあったのか、教えていただけないでしょうか?」
『……え?』
前のめりで尋ねた櫻田に、長浜さんが一拍遅れて怪訝に聞き返す。そりゃそうだ、そんなことを聞いて何になるんだろうと思うだろうし、データとしても紙の原稿としても控えは残っているはずだが、それを探す手間もある。誤字に気づいた担当編集が校閲に回す前に直していることだって十分に考えられることだ。そうなったら今度は担当編集に話を聞かなければならなくなる。担当にも変に思われるだろうし、完全に二度手間だ。
『……あの、たぶん探すのに時間がかかると思うので、折り返し連絡させていただいてもよろしいですか? 宝永社に電話をしてきたってことは、幻泉社さんのほうでも、おかしな点が見つかったんですよね? 私でよければ協力させてください』
けれど長浜さんは、事情を察してくれたようだった。
『今思い出したんですけど、担当編集がちらっと漏らしていたんです。契約書と打ち合わせの件で早峰カズキに会いに指定されたファミレスに行ったときの彼の様子が、どこか怯えているようだったって。最初は本を出版することに対して緊張しているのかなと思ったそうなんですが、それにしては、やっぱり何か引っかかるものがあったとかで……』
それを聞いて、ちひろと櫻田は受話器を挟んで至近距離で目を見張り合った。
指定されたファミレスというのは、おそらく昨日の店だろう。喫茶店などで打ち合わせをする作家も多いし、特段場所ついてはおかしな点は見当たらない。けれど、どうして怯える必要があるのだろうか? 昨日、原稿から読み取ったことと、覇気がなくすべてを諦めているようなあの目がすぐに思い出されて、ちひろの胸は再度不穏にざわついた。
しかしすぐに、あまりにも近すぎてキスの一つでも簡単にできてしまいそうな距離に、ちひろと櫻田はお互いに盛大にあたふたと顔を背け合う。
完全に油断していた。これが噂で聞く〝事故キス〟というやつか……。ああ未遂でよかった。貫徹なのでシャワーも浴びていないしヒゲも剃っていない。着替えてもいない。そんな櫻田が初キスの相手だなんて、いくら廻進堂の和菓子を積まれても絶対に嫌だ。
『あ、あの……?』
「はは、はいっ、あ、ありがとうございますっ!」
櫻田の声が見事にひっくり返る。ちひろもちひろで心臓がバックバックと言いはじめ、耳にうるさい。こんなときに顔を赤くしている場合ではないというのに、櫻田は不意打ちの至近距離に耳の裏まで真っ赤だし、ちひろも異様に顔が火照る。
「はい、はい。お手数をおかけします、よろしくお願いします」
こちらの電話番号を伝えて受話器を置いてからも、お互いに顔が赤いままだ。微妙すぎる沈黙が流れ、ものすごく気まずい空気がちひろと櫻田の間に漂う。
「とっ、とりあえず、こっちはこっちで謎解きを進めようか!」
「……そっ、そうですね!」
先ほどの事故キス未遂をやっとのことでうやむやにできたのは、気まずい沈黙が流れはじめてたっぷり一分ほど過ぎた頃だった。お互いにギクシャクしながら応接テーブルに第一稿と第二稿を広げ、誤字によって浮かび上がってきた文章を洗い出していく。
一秒が何分にも感じられるような時間の中で黙々と作業を続け、ようやく三分の一ほど洗い出しが終わると、タイミングを見計らったかように外線が鳴った。
きっと長浜さんだろう。電話を取ろうとした竹林に「こっちで取ります」と断りを入れた櫻田が、応接テーブルの隅に置かれている受話器を耳に当てる。
「はい、こちら幻泉社の櫻田です」
『あ、宝永社の長浜です。さっそくですみません、先ほどの件なんですけど、調べてみたら【とうちょう】って読むことができたんです。……これってもしかして、盗み聞くほうの【盗聴】だったりするんでしょうか? もしそうなら私、恐ろしくてもう……』
先ほどと同じように――今度は事故キスに十分注意を払いつつ受話器を挟んで頭をくっつけ合うと、そのとたん、長浜さんの焦った早口が衝撃的な事実を伝えた。
周りからは音が聞こえず、声にも少しエコーがかかっているので、トイレかどこかでスマホから電話をしているようだ。再び櫻田と目を見張り合うが、今度はお互いに気をつけているので適度な距離が保たれている。これでもう事故キス未遂にはなるまい。
いや、それよりも。
「そうでしたか、ありがとうございます。あとはこちらのことになりますので、このことはどうか長浜さんのところで止めておいていただけないでしょうか」
ちひろは、そう言った櫻田と静かに頷き合った。ここまで調べてもらった長浜さんには大変申し訳ないが、これ以上他社の人を巻き込むわけにはいかない。それに、やっぱりこれは今回作品を書いてもらった幻泉社が対処しなければならないことだと思う。
もしかしたら、一気に誤字脱字が見つかって、かえってよかったかもしれない。編集者としての櫻田の仕事ぶりには一ミリも褒めるところはないけれど、もしただの誤字として修正を加えたものがちひろの元に回ってきていたら、きっと気づけなかった。
『え、でも……』
「ところで、長浜さんの好きなものって何ですか?」
渋る長浜さんに、櫻田が突拍子もなく尋ねる。きっと得意の餌作戦だ。
『えっ? そりゃたくさんありますけど、私、東北出身なので、楽天イーグルスの試合観戦ですかね。……って、まさかそれで口止めしようとしてるんじゃ――!?』
「あ。ご明察です。もうすぐセパ交流戦ですし、一番いい席のチケット、取りますね」
『ちょっ!?』
「それでは、失礼しまーす」
そうして櫻田は強引に電話を切り、ふぅ、と一つ息を吐く。しばらく待っても外線が鳴らないところを見ると、どうやら長浜さんは観戦チケットと引き換えに口を噤んでくれる気になったようだ。それにしても、強引な男だとは思っていたが、ここまで強引だと逆に感心さえしてしまうのはどうしてだろう。「……わ、私の廻進堂もお忘れなく」と一応念を押しておくと、櫻田は「全部片付いたらな」とニヤリと笑った。……食えない男だ。
ともかく、校閲による洗い出しは、精査も含めてそれから夕方までかかった。
町田市までの移動時間のことを考えたらもう少し早く終えたかったのだが、お互いに寝不足がたたって頭がうまく働かなかったし、一稿、二稿では埋まらなかった穴にどんな文字が入るのかを推測しているうちに、気づけばギリギリの時間になっていた。
「よし、行くぞ校閲」
「……は、はい」
急ぎ原稿を抱えて会社を出る。電車に飛び乗り、町田市を目指す。今日も定時には帰れそうにないが、廻進堂の約束を守ってもらうためには仕方がない。
朝一番、貫徹したとかで昨日と同じスーツに身を包み、目を真っ赤に充血させながら大あくびで校閲部に顔を出した櫻田と、どっちが宝永社に電話をかけるかでまたひと悶着ありつつ、結局一発勝負のじゃんけんで負けた櫻田が渋々、受話器を持ち上げると、早峰カズキの『誰?』を校閲した人物は、意外にもあっさり見つかった。
スピーカーフォンにすると周りで仕事をしている同僚たちの気を散らしてしまうかもしれないので、嫌々ながら仕方なしに櫻田と受話器を挟んで頭をくっつけ合う。
『はい、担当したのは私ですけど、どうかしました?』
そう電話口で気さくに応じてくれたのは、長浜さんという明るい声の女性だった。
いよいよ本になる、という段階の第三稿の校閲を担当したそうで、そのときにも文章自体は変わらないのに第一稿、第二稿にはなかった単独の誤字などがあり、それに気づいた担当編集と校閲を担当した長浜さんとの間で、少しだけ話題になったそうだ。けれどその後は、まあこういうこともあるよね、ということで話は落ち着き、無事に刊行を迎える運びとなった。言わずもがな、その作品は今も続々と重版がされている。
正直早峰カズキを幻泉社に取られたのは悔しい、と長浜さんは言った。けれどすぐに、次はうちが取り返しますよ~とカラカラ笑った彼女は、とても気さくな人だ。少しの世間話を挟み、いよいよ本題である早峰カズキの周りで作品と同じようなことがあったという話は聞かなかったか、という櫻田の質問にも、彼女は人のよさそうな声で答える。
『確かに刊行当時、社内でもその噂はありましたよ。でも、出どころのわからないものでしたし、何かあれば警察だって動くでしょう? 作品の中では犯人は血の繋がった父親でしたけど、実際、家族にストーキングに遭う人なんているんでしょうかね?』
その口振りからも、噂はあくまで噂程度でしかなく、根拠のないものだろうと思っているのがよく伝わってくる。小説の中だから設定としては面白いし、あり得る。けれど実際には非現実的だろうというのが、彼女の考えのようだった。
ちひろもそう思う。けれどそれは、昨日までの話だ。
確認しなければいけないことは、まだある。
「あの、大変お手数なんですが、その原稿の誤りの部分に本来ならなんと字が入るのが正しいのか、どんな文字が余分にあったのか、教えていただけないでしょうか?」
『……え?』
前のめりで尋ねた櫻田に、長浜さんが一拍遅れて怪訝に聞き返す。そりゃそうだ、そんなことを聞いて何になるんだろうと思うだろうし、データとしても紙の原稿としても控えは残っているはずだが、それを探す手間もある。誤字に気づいた担当編集が校閲に回す前に直していることだって十分に考えられることだ。そうなったら今度は担当編集に話を聞かなければならなくなる。担当にも変に思われるだろうし、完全に二度手間だ。
『……あの、たぶん探すのに時間がかかると思うので、折り返し連絡させていただいてもよろしいですか? 宝永社に電話をしてきたってことは、幻泉社さんのほうでも、おかしな点が見つかったんですよね? 私でよければ協力させてください』
けれど長浜さんは、事情を察してくれたようだった。
『今思い出したんですけど、担当編集がちらっと漏らしていたんです。契約書と打ち合わせの件で早峰カズキに会いに指定されたファミレスに行ったときの彼の様子が、どこか怯えているようだったって。最初は本を出版することに対して緊張しているのかなと思ったそうなんですが、それにしては、やっぱり何か引っかかるものがあったとかで……』
それを聞いて、ちひろと櫻田は受話器を挟んで至近距離で目を見張り合った。
指定されたファミレスというのは、おそらく昨日の店だろう。喫茶店などで打ち合わせをする作家も多いし、特段場所ついてはおかしな点は見当たらない。けれど、どうして怯える必要があるのだろうか? 昨日、原稿から読み取ったことと、覇気がなくすべてを諦めているようなあの目がすぐに思い出されて、ちひろの胸は再度不穏にざわついた。
しかしすぐに、あまりにも近すぎてキスの一つでも簡単にできてしまいそうな距離に、ちひろと櫻田はお互いに盛大にあたふたと顔を背け合う。
完全に油断していた。これが噂で聞く〝事故キス〟というやつか……。ああ未遂でよかった。貫徹なのでシャワーも浴びていないしヒゲも剃っていない。着替えてもいない。そんな櫻田が初キスの相手だなんて、いくら廻進堂の和菓子を積まれても絶対に嫌だ。
『あ、あの……?』
「はは、はいっ、あ、ありがとうございますっ!」
櫻田の声が見事にひっくり返る。ちひろもちひろで心臓がバックバックと言いはじめ、耳にうるさい。こんなときに顔を赤くしている場合ではないというのに、櫻田は不意打ちの至近距離に耳の裏まで真っ赤だし、ちひろも異様に顔が火照る。
「はい、はい。お手数をおかけします、よろしくお願いします」
こちらの電話番号を伝えて受話器を置いてからも、お互いに顔が赤いままだ。微妙すぎる沈黙が流れ、ものすごく気まずい空気がちひろと櫻田の間に漂う。
「とっ、とりあえず、こっちはこっちで謎解きを進めようか!」
「……そっ、そうですね!」
先ほどの事故キス未遂をやっとのことでうやむやにできたのは、気まずい沈黙が流れはじめてたっぷり一分ほど過ぎた頃だった。お互いにギクシャクしながら応接テーブルに第一稿と第二稿を広げ、誤字によって浮かび上がってきた文章を洗い出していく。
一秒が何分にも感じられるような時間の中で黙々と作業を続け、ようやく三分の一ほど洗い出しが終わると、タイミングを見計らったかように外線が鳴った。
きっと長浜さんだろう。電話を取ろうとした竹林に「こっちで取ります」と断りを入れた櫻田が、応接テーブルの隅に置かれている受話器を耳に当てる。
「はい、こちら幻泉社の櫻田です」
『あ、宝永社の長浜です。さっそくですみません、先ほどの件なんですけど、調べてみたら【とうちょう】って読むことができたんです。……これってもしかして、盗み聞くほうの【盗聴】だったりするんでしょうか? もしそうなら私、恐ろしくてもう……』
先ほどと同じように――今度は事故キスに十分注意を払いつつ受話器を挟んで頭をくっつけ合うと、そのとたん、長浜さんの焦った早口が衝撃的な事実を伝えた。
周りからは音が聞こえず、声にも少しエコーがかかっているので、トイレかどこかでスマホから電話をしているようだ。再び櫻田と目を見張り合うが、今度はお互いに気をつけているので適度な距離が保たれている。これでもう事故キス未遂にはなるまい。
いや、それよりも。
「そうでしたか、ありがとうございます。あとはこちらのことになりますので、このことはどうか長浜さんのところで止めておいていただけないでしょうか」
ちひろは、そう言った櫻田と静かに頷き合った。ここまで調べてもらった長浜さんには大変申し訳ないが、これ以上他社の人を巻き込むわけにはいかない。それに、やっぱりこれは今回作品を書いてもらった幻泉社が対処しなければならないことだと思う。
もしかしたら、一気に誤字脱字が見つかって、かえってよかったかもしれない。編集者としての櫻田の仕事ぶりには一ミリも褒めるところはないけれど、もしただの誤字として修正を加えたものがちひろの元に回ってきていたら、きっと気づけなかった。
『え、でも……』
「ところで、長浜さんの好きなものって何ですか?」
渋る長浜さんに、櫻田が突拍子もなく尋ねる。きっと得意の餌作戦だ。
『えっ? そりゃたくさんありますけど、私、東北出身なので、楽天イーグルスの試合観戦ですかね。……って、まさかそれで口止めしようとしてるんじゃ――!?』
「あ。ご明察です。もうすぐセパ交流戦ですし、一番いい席のチケット、取りますね」
『ちょっ!?』
「それでは、失礼しまーす」
そうして櫻田は強引に電話を切り、ふぅ、と一つ息を吐く。しばらく待っても外線が鳴らないところを見ると、どうやら長浜さんは観戦チケットと引き換えに口を噤んでくれる気になったようだ。それにしても、強引な男だとは思っていたが、ここまで強引だと逆に感心さえしてしまうのはどうしてだろう。「……わ、私の廻進堂もお忘れなく」と一応念を押しておくと、櫻田は「全部片付いたらな」とニヤリと笑った。……食えない男だ。
ともかく、校閲による洗い出しは、精査も含めてそれから夕方までかかった。
町田市までの移動時間のことを考えたらもう少し早く終えたかったのだが、お互いに寝不足がたたって頭がうまく働かなかったし、一稿、二稿では埋まらなかった穴にどんな文字が入るのかを推測しているうちに、気づけばギリギリの時間になっていた。
「よし、行くぞ校閲」
「……は、はい」
急ぎ原稿を抱えて会社を出る。電車に飛び乗り、町田市を目指す。今日も定時には帰れそうにないが、廻進堂の約束を守ってもらうためには仕方がない。
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