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■第一話 本当のストーカーは誰?
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それからさらに三十分ほどして、先に動いたのは、やはりちひろのほうだった。何度も言われて刷り込みができてしまったのか、とっぷりと日が暮れ落ちて寒くなったこともあり、スカートの足元やジャケットを羽織っただけの腕がスースーしてきた。
トータル一時間ほど経っても余裕綽々な櫻田に釈然としない気持ちを抱きつつ、手に持っていた通勤バッグを肩に掛け直し、塀から背中を引きはがす。
「……ちょっとコンビニ行ってきます」
「お。トイレだな? ブラックのホットコーヒーと、あんパン、頼むな」
「だからそう何度も何度も言わないでください」
お決まりのようにそう言ってニヤリと笑い、ついでにひらひらと手を振る櫻田をひと睨みして、仕方なく気を取り直してコンビニを目指すことにする。
家々の玄関ポーチや居間の窓から明かりが漏れる中、振り返ると、当たり前だがいまだに真っ暗な伊澄家は、そこだけ闇に飲み込まれてしまっているようだった。
そんなところに一人残って逆に怖くないのだろうか、とちひろは思う。あれだけ駄々をこねて連れ出したというのに、暗いところに一人でいるのは平気とか。……変な人だ。
「――わっ。す、すみませんっ」
少し歩くと、角を曲がったところで、ちょうど向こうから曲がってきた人と軽く肩がぶつかってしまい、とっさに謝った。街灯は等間隔に点いているが暗くて顔までは見えず、背格好だけで男性だと気づく。そのときには男性はすでに角の向こうに消えてしまっていて、足音も遠ざかっていた。男性からすれば、ぶつかってきたのはちひろのほうなのだろうけれど、でも少しくらい謝る言葉があってもいいのでは。
いや、だけど、ちひろもちひろだ。こちらに向かってくる足音にも気づかなかったなんて、どれだけ櫻田の変人ぶりを考えることに集中していたのだろうか。会ってまだ一日も経っていないというのに、初めて接するタイプだからとはいえ、いささかおかしい。
雑念を振り払うようにふるふると頭を振って、歩調を早める。まだコンビニの明かりは見えないが、夕方に歩いた感覚だと、そろそろ近い。ミルクも砂糖もたっぷり入れたコーヒーでも買って戻ってやろうか、などと画策を企てながら、残りの距離を歩いた。
そうして無事、コンビニまでたどり着いた帰り。
甘すぎるコーヒーを盛大に吹き出す櫻田の顔が見てみたい衝動と最後まで戦ったが、結局、廻進堂の和菓子なんて買わないと言われたらたまらないと思い直したちひろは、リクエスト通りのものを買い、来た道を引き返していた。
――と。
「校閲、そいつを捕まえろ!」
「……えっ!?」
「早峰カズキだ! 早くっ!」
「わわっ、はいっ!」
先ほど男性とぶつかった角を曲がってこちらに猛然とダッシュしてきた人物を追っていた櫻田が、街灯に照らされたちひろの姿を見つけるなりそう叫んだ。
早峰カズキと聞いてとっさに体が動いたちひろは、走りながら道の端に避けてちひろとすれ違おうとしている早峰カズキに向かって淹れたてのドリップコーヒーをカップごとぶん投げる。運よく当たったカップは、早峰カズキの背中一面に降りかかる。
そのあまりの熱さに早峰カズキは「うぉぁあぢっ!!」と声をひっくり返らせながらその場に転げ回り、冷たさを求めてアスファルトに背中を打ち付けた。
「すげーな、お前。容赦の欠片もありゃしねえ……」
「……いや、だって」
「嘘だっつーの。追いつけそうになかったから、マジ助かった」
追いついた櫻田がアスファルトにのたうち回る早峰カズキを後ろ手で押さえつけつつ、ちひろを振り返って苦笑する。まるで犯人を取り押さえる刑事のような格好の櫻田もさることながら、とっさのこととはいえ、熱々のコーヒーをぶん投げるちひろもちひろだ。
今、櫻田の下で「くそっ」と毒づいている人物は、仮にも一歩賞受賞者の期待の超新星だ。なのにどうやら二人とも、いざとなると容赦はないらしい。こだわり挽き豆の蠱惑的な香りが閑静な住宅街に立ち込める中、ちひろも苦笑を返すほかなかった。
*
「――で、どうして今さら出版を取りやめたいだなんて言い出したんですか、先生」
それから小一時間ほどして、場所を何度か打ち合わせで使ったというファミレスに移したちひろ、櫻田、それと早峰カズキの三人は、適当に料理とドリンクバーを注文し、壁際の目立たない席でひとまず食事をした。早峰カズキは櫻田が代わりに頼んだジューシーハンバーグセットにもコーラのドリンクバーにも一口も口をつけずに俯き黙ったままだったが、食事を終えて皿が下げられ、櫻田にそう切り出されると、びくりと肩を震わせた。
コーヒーの匂いをぷんぷんさせながらファミレスに入るわけにもいかなかったので、早峰カズキにはシャワーと着替えを済ませて出てきてもらった。きちんとした早峰カズキの声を聞いたのは、そのときが初めてだった。「さっきは本当にすみませんでしたっ。火傷になったりしてませんか? 治療代は私が持ちますのでっ」とヘコヘコ頭を下げるちひろに「……大したことないですから」とぶっきらぼうに言った、たったそれだけだ。
でも、相当熱かっただろうに、受け答えしてくれただけ、いい人だと思う。早峰カズキのほうとしては、詳細な理由も明かさず出版を取りやめたいと言ったきり逃げている負い目もあったのだろうけれど、犯人でもないのにコーヒーをぶっかけられ、後ろ手で押さえつけられた身としては、訴えられてもおかしくないレベルだ。本当に有難い。
早峰カズキの着替えを待っている間に櫻田が教えてくれた話によると、コンビニへ行く途中でちひろとぶつかった男性は、やはり本人だったらしい。伊澄家の門前で待つ人影が櫻田だと気づいた早峰カズキは、何食わぬ風を装っていったんは家の前を通り過ぎたのだが、ふと櫻田が視線を向けた先にちらちらとこちらを振り返って様子を窺っているところとバッチリ目が合い、そのとたん、猛然と来た道を引き返して走っていったそうだ。
その瞬間、早峰カズキだと気づいた櫻田は、彼を追って走り出した。けれど、なかなか追いつけなかった。そんなときにタイミングよく向こうからちひろが戻ってきた。
と、そういうわけらしい。
ミステリー作家なのだから、もう少し上手く櫻田の目を誤魔化せたんじゃないかとも思うけれど、とっさのこととなると自分でも思ってもみなかった行動に出てしまうのは、一歩賞作家と言えども実に人間らしい。街灯の下で見る早峰カズキの顔はまだどこか幼さが残っていて、十九歳というのも少し信じられないくらい中性的な顔立ちだった。
「黙ってたらわかりませんよ。怒りませんから、わけを話してください」
「……」
「先生、お願いですから」
そうして今に至るわけなのだけれど、早峰カズキは沈黙を貫いたまま、櫻田の再度の呼びかけにも、じっと俯いているだけだった。早峰カズキの前に置かれたハンバーグセットだけがまだ下げられておらず、そこからもとっくに湯気は立たなくなっていた。コーラのグラスもしっとりと汗をかいていて、氷が溶けて上澄みの部分が透明に変色しつつある。彼がどれだけ無言を貫いているか、嫌でもわかるくらいの時間が過ぎていた。
「先生……」
「……」
それでも早峰カズキは、根競べとばかりに沈黙を守り続ける。櫻田の顔にははっきりとした焦りと苛立ちが浮かび、ここが店内禁煙でなかったら煙草でもふかしそうな勢いだった。いや、櫻田が吸う人かどうか、ちひろは知らないのだけれど。
ちひろと櫻田、テーブルを挟んで向かいに早峰カズキ、というこの壁と衝立で囲まれた席の周りだけ、ほかの席とは一線を画した何とも言えない沈黙が横たわる。静かな空間が好きなちひろでも、さすがに逃げ出したくなるほどの鈍重な空間だ。
それにしても、早峰カズキは、どうしてここまで頑なに口を閉ざすのだろうか?
怠慢を働くだけ働き、第二稿の校閲まで進ませた編集者に頼れるところなどありはしないだろうが、出版を取りやめたい理由だけでも明かしてはもらえないだろうか。
デビュー作の『誰?』のときに作品と同じようなことが実際に起こって、今回の『抹消(仮)』についても、身の回りでおかしなことが起こっているのだとしたら――もしそれが家族にも打ち明けられないことなら、思いきって他人に頼るという手だってある。だって早峰カズキはまだ十代だ。年齢だけなら櫻田だって少しは頼りになるかもしれない。
それに――。
「……あの、すみませんが、ここで校閲の続きをさせてもらってもいいでしょうか?」
沈黙を破り、ちひろはバッグの中の原稿に手をかけながら櫻田と早峰カズキに尋ねる。
「はあっ!? こんなときに何言ってんだ、お前!」
早峰カズキの反応はないが、当然ながら櫻田は鬼の形相だ。くわっとこちらを向いて大声を張り上げる櫻田に周囲が一瞬、しんと静まり返ったし、ちひろの肩も大きく跳ね上がった。けれど、ここで校閲しなければいつするんだという話だ。
「……で、でも、ここで時間が過ぎるくらいなら、仕事をしてるほうがマシです」
「それ本気で言ってんなら、マジで軽蔑するわ」
「ありがとうございます」
あからさまなため息を吐く櫻田の冷ややかな視線を左顔面に受けながらも、ちひろはバッグの中から原稿と、校閲に必要なペンや鉛筆、定規を取り出す。
第一稿の校閲はもうずいぶん前に終えているが、念のために控えは持ってきている。今早急に取り掛からなければいけないのは、今日回ってきた第二稿だ。二稿のほうは櫻田の邪魔が入って途中になってしまっているので、一行でも一字でも多く進めたい。
「すいません、こいつがこういう奴だって知らなくて……」
無言のままの早峰カズキに謝る櫻田の声を聞き流しながら、そりゃそうだ、とちひろは思う。その台詞をそっくりそのままお返ししたい。誰のせいでファミレスで校閲をしなきゃならなくなったんだ、と喉元まで出かかりながらも、一字一字を追っていく。
幸いなことに早峰カズキは、ちひろが目の前で失礼な態度を取っても、それさえどうでもいいと言うように沈黙を貫き続けているので、よく集中できる。櫻田も本当に軽蔑したのか、早峰カズキに一言謝ったきり口を閉ざしていて、字を追っているうちに、ちひろは次第に店内の騒々しさも気にならなくなってくる。
本当は自分で外部の音をシャットアウトするより、静かな空間で自分の内に籠りながらするほうが校閲の仕事はやりやすい。けれど案外、原稿と道具さえあればどこでも校閲できる自分に驚きと新鮮さを感じる。とはいえ、所詮、急を要してファミレスですることになったので、出版のできる無しに関わらず、明日にでももう一度きちんと校閲し直さなければならないだろう。そこは校閲に携わる人間として、仕事人としてのプライドだ。
でも、とにかく今大事なのは、早峰カズキの原稿から読み取れるだけ読み取ることだ。
執拗に口を閉ざし続ける作者。
『誰?』と『抹消(仮)』。
家族内ストーカーという現代社会にぽとりと闇を落とすような恐ろしい犯人を巧みに作り上げ、華々しいデビューを飾った前作と、その雰囲気を色濃く引き継いだ今作――。
果たしてちひろにそれらを上手く繋げられるだけの材料が見つけられるのかどうかは、わからない。けれど、やはりどんなときでも廻進堂は惜しいのだ。
「……おい校閲、どこ行くんだよ」
「ちょっとお手洗いです」
「ふん。勝手にしろ」
しばらくして席を立つと、櫻田が不機嫌さを隠そうともせず、フンと鼻を鳴らした。
櫻田は櫻田で、なんとしてでも早峰カズキから出版をとりやめたい理由を聞き出すべく長期戦を覚悟で席についていた。そこで我関せずとばかりに席を立ったちひろに苛立ちが募ったのだろう。通路を歩いていくちひろの背中に聞こえよがしに吐き出されたのは、
「……っざけんな」低い低い声だった。
トータル一時間ほど経っても余裕綽々な櫻田に釈然としない気持ちを抱きつつ、手に持っていた通勤バッグを肩に掛け直し、塀から背中を引きはがす。
「……ちょっとコンビニ行ってきます」
「お。トイレだな? ブラックのホットコーヒーと、あんパン、頼むな」
「だからそう何度も何度も言わないでください」
お決まりのようにそう言ってニヤリと笑い、ついでにひらひらと手を振る櫻田をひと睨みして、仕方なく気を取り直してコンビニを目指すことにする。
家々の玄関ポーチや居間の窓から明かりが漏れる中、振り返ると、当たり前だがいまだに真っ暗な伊澄家は、そこだけ闇に飲み込まれてしまっているようだった。
そんなところに一人残って逆に怖くないのだろうか、とちひろは思う。あれだけ駄々をこねて連れ出したというのに、暗いところに一人でいるのは平気とか。……変な人だ。
「――わっ。す、すみませんっ」
少し歩くと、角を曲がったところで、ちょうど向こうから曲がってきた人と軽く肩がぶつかってしまい、とっさに謝った。街灯は等間隔に点いているが暗くて顔までは見えず、背格好だけで男性だと気づく。そのときには男性はすでに角の向こうに消えてしまっていて、足音も遠ざかっていた。男性からすれば、ぶつかってきたのはちひろのほうなのだろうけれど、でも少しくらい謝る言葉があってもいいのでは。
いや、だけど、ちひろもちひろだ。こちらに向かってくる足音にも気づかなかったなんて、どれだけ櫻田の変人ぶりを考えることに集中していたのだろうか。会ってまだ一日も経っていないというのに、初めて接するタイプだからとはいえ、いささかおかしい。
雑念を振り払うようにふるふると頭を振って、歩調を早める。まだコンビニの明かりは見えないが、夕方に歩いた感覚だと、そろそろ近い。ミルクも砂糖もたっぷり入れたコーヒーでも買って戻ってやろうか、などと画策を企てながら、残りの距離を歩いた。
そうして無事、コンビニまでたどり着いた帰り。
甘すぎるコーヒーを盛大に吹き出す櫻田の顔が見てみたい衝動と最後まで戦ったが、結局、廻進堂の和菓子なんて買わないと言われたらたまらないと思い直したちひろは、リクエスト通りのものを買い、来た道を引き返していた。
――と。
「校閲、そいつを捕まえろ!」
「……えっ!?」
「早峰カズキだ! 早くっ!」
「わわっ、はいっ!」
先ほど男性とぶつかった角を曲がってこちらに猛然とダッシュしてきた人物を追っていた櫻田が、街灯に照らされたちひろの姿を見つけるなりそう叫んだ。
早峰カズキと聞いてとっさに体が動いたちひろは、走りながら道の端に避けてちひろとすれ違おうとしている早峰カズキに向かって淹れたてのドリップコーヒーをカップごとぶん投げる。運よく当たったカップは、早峰カズキの背中一面に降りかかる。
そのあまりの熱さに早峰カズキは「うぉぁあぢっ!!」と声をひっくり返らせながらその場に転げ回り、冷たさを求めてアスファルトに背中を打ち付けた。
「すげーな、お前。容赦の欠片もありゃしねえ……」
「……いや、だって」
「嘘だっつーの。追いつけそうになかったから、マジ助かった」
追いついた櫻田がアスファルトにのたうち回る早峰カズキを後ろ手で押さえつけつつ、ちひろを振り返って苦笑する。まるで犯人を取り押さえる刑事のような格好の櫻田もさることながら、とっさのこととはいえ、熱々のコーヒーをぶん投げるちひろもちひろだ。
今、櫻田の下で「くそっ」と毒づいている人物は、仮にも一歩賞受賞者の期待の超新星だ。なのにどうやら二人とも、いざとなると容赦はないらしい。こだわり挽き豆の蠱惑的な香りが閑静な住宅街に立ち込める中、ちひろも苦笑を返すほかなかった。
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「――で、どうして今さら出版を取りやめたいだなんて言い出したんですか、先生」
それから小一時間ほどして、場所を何度か打ち合わせで使ったというファミレスに移したちひろ、櫻田、それと早峰カズキの三人は、適当に料理とドリンクバーを注文し、壁際の目立たない席でひとまず食事をした。早峰カズキは櫻田が代わりに頼んだジューシーハンバーグセットにもコーラのドリンクバーにも一口も口をつけずに俯き黙ったままだったが、食事を終えて皿が下げられ、櫻田にそう切り出されると、びくりと肩を震わせた。
コーヒーの匂いをぷんぷんさせながらファミレスに入るわけにもいかなかったので、早峰カズキにはシャワーと着替えを済ませて出てきてもらった。きちんとした早峰カズキの声を聞いたのは、そのときが初めてだった。「さっきは本当にすみませんでしたっ。火傷になったりしてませんか? 治療代は私が持ちますのでっ」とヘコヘコ頭を下げるちひろに「……大したことないですから」とぶっきらぼうに言った、たったそれだけだ。
でも、相当熱かっただろうに、受け答えしてくれただけ、いい人だと思う。早峰カズキのほうとしては、詳細な理由も明かさず出版を取りやめたいと言ったきり逃げている負い目もあったのだろうけれど、犯人でもないのにコーヒーをぶっかけられ、後ろ手で押さえつけられた身としては、訴えられてもおかしくないレベルだ。本当に有難い。
早峰カズキの着替えを待っている間に櫻田が教えてくれた話によると、コンビニへ行く途中でちひろとぶつかった男性は、やはり本人だったらしい。伊澄家の門前で待つ人影が櫻田だと気づいた早峰カズキは、何食わぬ風を装っていったんは家の前を通り過ぎたのだが、ふと櫻田が視線を向けた先にちらちらとこちらを振り返って様子を窺っているところとバッチリ目が合い、そのとたん、猛然と来た道を引き返して走っていったそうだ。
その瞬間、早峰カズキだと気づいた櫻田は、彼を追って走り出した。けれど、なかなか追いつけなかった。そんなときにタイミングよく向こうからちひろが戻ってきた。
と、そういうわけらしい。
ミステリー作家なのだから、もう少し上手く櫻田の目を誤魔化せたんじゃないかとも思うけれど、とっさのこととなると自分でも思ってもみなかった行動に出てしまうのは、一歩賞作家と言えども実に人間らしい。街灯の下で見る早峰カズキの顔はまだどこか幼さが残っていて、十九歳というのも少し信じられないくらい中性的な顔立ちだった。
「黙ってたらわかりませんよ。怒りませんから、わけを話してください」
「……」
「先生、お願いですから」
そうして今に至るわけなのだけれど、早峰カズキは沈黙を貫いたまま、櫻田の再度の呼びかけにも、じっと俯いているだけだった。早峰カズキの前に置かれたハンバーグセットだけがまだ下げられておらず、そこからもとっくに湯気は立たなくなっていた。コーラのグラスもしっとりと汗をかいていて、氷が溶けて上澄みの部分が透明に変色しつつある。彼がどれだけ無言を貫いているか、嫌でもわかるくらいの時間が過ぎていた。
「先生……」
「……」
それでも早峰カズキは、根競べとばかりに沈黙を守り続ける。櫻田の顔にははっきりとした焦りと苛立ちが浮かび、ここが店内禁煙でなかったら煙草でもふかしそうな勢いだった。いや、櫻田が吸う人かどうか、ちひろは知らないのだけれど。
ちひろと櫻田、テーブルを挟んで向かいに早峰カズキ、というこの壁と衝立で囲まれた席の周りだけ、ほかの席とは一線を画した何とも言えない沈黙が横たわる。静かな空間が好きなちひろでも、さすがに逃げ出したくなるほどの鈍重な空間だ。
それにしても、早峰カズキは、どうしてここまで頑なに口を閉ざすのだろうか?
怠慢を働くだけ働き、第二稿の校閲まで進ませた編集者に頼れるところなどありはしないだろうが、出版を取りやめたい理由だけでも明かしてはもらえないだろうか。
デビュー作の『誰?』のときに作品と同じようなことが実際に起こって、今回の『抹消(仮)』についても、身の回りでおかしなことが起こっているのだとしたら――もしそれが家族にも打ち明けられないことなら、思いきって他人に頼るという手だってある。だって早峰カズキはまだ十代だ。年齢だけなら櫻田だって少しは頼りになるかもしれない。
それに――。
「……あの、すみませんが、ここで校閲の続きをさせてもらってもいいでしょうか?」
沈黙を破り、ちひろはバッグの中の原稿に手をかけながら櫻田と早峰カズキに尋ねる。
「はあっ!? こんなときに何言ってんだ、お前!」
早峰カズキの反応はないが、当然ながら櫻田は鬼の形相だ。くわっとこちらを向いて大声を張り上げる櫻田に周囲が一瞬、しんと静まり返ったし、ちひろの肩も大きく跳ね上がった。けれど、ここで校閲しなければいつするんだという話だ。
「……で、でも、ここで時間が過ぎるくらいなら、仕事をしてるほうがマシです」
「それ本気で言ってんなら、マジで軽蔑するわ」
「ありがとうございます」
あからさまなため息を吐く櫻田の冷ややかな視線を左顔面に受けながらも、ちひろはバッグの中から原稿と、校閲に必要なペンや鉛筆、定規を取り出す。
第一稿の校閲はもうずいぶん前に終えているが、念のために控えは持ってきている。今早急に取り掛からなければいけないのは、今日回ってきた第二稿だ。二稿のほうは櫻田の邪魔が入って途中になってしまっているので、一行でも一字でも多く進めたい。
「すいません、こいつがこういう奴だって知らなくて……」
無言のままの早峰カズキに謝る櫻田の声を聞き流しながら、そりゃそうだ、とちひろは思う。その台詞をそっくりそのままお返ししたい。誰のせいでファミレスで校閲をしなきゃならなくなったんだ、と喉元まで出かかりながらも、一字一字を追っていく。
幸いなことに早峰カズキは、ちひろが目の前で失礼な態度を取っても、それさえどうでもいいと言うように沈黙を貫き続けているので、よく集中できる。櫻田も本当に軽蔑したのか、早峰カズキに一言謝ったきり口を閉ざしていて、字を追っているうちに、ちひろは次第に店内の騒々しさも気にならなくなってくる。
本当は自分で外部の音をシャットアウトするより、静かな空間で自分の内に籠りながらするほうが校閲の仕事はやりやすい。けれど案外、原稿と道具さえあればどこでも校閲できる自分に驚きと新鮮さを感じる。とはいえ、所詮、急を要してファミレスですることになったので、出版のできる無しに関わらず、明日にでももう一度きちんと校閲し直さなければならないだろう。そこは校閲に携わる人間として、仕事人としてのプライドだ。
でも、とにかく今大事なのは、早峰カズキの原稿から読み取れるだけ読み取ることだ。
執拗に口を閉ざし続ける作者。
『誰?』と『抹消(仮)』。
家族内ストーカーという現代社会にぽとりと闇を落とすような恐ろしい犯人を巧みに作り上げ、華々しいデビューを飾った前作と、その雰囲気を色濃く引き継いだ今作――。
果たしてちひろにそれらを上手く繋げられるだけの材料が見つけられるのかどうかは、わからない。けれど、やはりどんなときでも廻進堂は惜しいのだ。
「……おい校閲、どこ行くんだよ」
「ちょっとお手洗いです」
「ふん。勝手にしろ」
しばらくして席を立つと、櫻田が不機嫌さを隠そうともせず、フンと鼻を鳴らした。
櫻田は櫻田で、なんとしてでも早峰カズキから出版をとりやめたい理由を聞き出すべく長期戦を覚悟で席についていた。そこで我関せずとばかりに席を立ったちひろに苛立ちが募ったのだろう。通路を歩いていくちひろの背中に聞こえよがしに吐き出されたのは、
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